彼女がニワトリになった
翁
第1話
開け放された
ただいまの時刻は17時3分。今から8分前、「見せたいものがある」と彼女に呼びだされていた俺は、お行儀よく5分前到着と洒落込んでいた。インターホンで来たことを呼びかけたが、しかし、いくら待っても返事がない。一向に連絡もつかないので、痺れを切らしドアを開けたのだった。
衝撃、焦燥、憂慮、憤怒、苦笑などなど。数種類の感情の波が頭の中を駆け巡ったが、最後に残ったのは、「なぜニワトリが?」という、シンプルな疑問だけだった。当然のことである。衝動的なところがあるな、と常日頃から感じていたが、それにしたってニワトリはおかしい。ふつう、ペット飼うときって誰かに言わない?
言葉にできない違和感を覚えた俺は、何かしらの変化を感じ取ろうと部屋を見渡した。番犬ヅラした———いや、番鶏ヅラしたニワトリが、できるだけ視界に入らないよう注意しながら。
T都第八
シックな色の本棚には、全23巻の漫画作品がキッチリ揃えられている。しかし、その上には小説が積まれ、ジャンルの垣根を超えた多様性ブックタワーを築き上げている。そうしてできた本棚と多様性ブックタワーの隙間には、衝動的に買ったと思われる短編集が押し込まれていた。本棚に入りきらなかった本は床に置いてあり、その隙間からはいつのものか分からない書類が、ところどころ顔を覗かせる。玄関から部屋の真ん中あたり、小さな丸テーブルの前を行き来するための獣道じみた空間は、化粧やパソコンいじりで座るためのスペースである。俺がここに座り、彼女はベッドの上に寝転がるのがいつものスタイルだ。
俺は、柏木銀杏の部屋が好きだ。常に多くの持ち物で雑然としているものの、その中には本人なりの秩序があり、それが"柏木銀杏"という人間の性格を見事に表している。マイナーな漫画作品のグッズによって、端っこに追いやられたサボテンもが愛おしい。俺の盲目は、こういった統一感のない品々を、この日当たり以外に取り柄のないワンルームを着飾る、ユニークな衣装だと認識していた。こういう部屋を作り上げる人間は、えてして謎のこだわりを持っているものだ。事実、以前寝ている間に勝手に部屋を片付けたときは、今までにない大目玉を食らった。
いやしかし、今までにないと言えば、まさにこの状況がそうである。何度も訪れたこの部屋を今一度見渡してみても、変化という変化は見受けられない。そう、ベッドの上のニワトリ以外は。事を進めるためには、本丸に近づいて見るしかないようである。だがどうしても、現代人らしい生活感とリアルな家畜の持つ雰囲気は取り合わせが悪く、中々腹が決まらない。考えること数秒、「これは彼女のためだ!」という脈絡のない自己欺瞞を発見し、恐る恐る近づいた。
しかし鳥類、というか、動物を生で見たのは本当に久しぶりだ。野生動物の「思考汚染」が初めて確認されてから、実に15年もの月日が経った。動物のことが記されているデータから視覚的な情報が一度消え失せ、復活したと思えば、ひどくデフォルメされたものに差し替えられていたのを覚えている。どうやら「思考汚染」というもの(もちろん俗称だ)は、生で見ずとも、写真や映像を通しても十分な効果を発揮するのだそうだ。というのもこの「思考汚染」、我々が動物たちに感じる親愛の情を利用するため、動物たちが進化の末に獲得したものらしい。最初は確か、アフリカの方の猿だとか。鳴き声の周波数や毛並みなど、その動物から人間が受け取る情報の中に、微細な変化が見つかった、みたいなことが、どこかに書いてあった気がする。その変化とやらの影響を一定以上受けると、その動物に対する強烈な仲間意識が芽生える、らしい。俺は経験したことないし、当時は「思考汚染」が広まったことによる動物迫害の流れに反感を持っていたから、詳しくは覚えていない。小学校に通う少し前のことだった。
俺は、6歳までは田舎に住んでいた。隣近所(というには家と家の間が離れすぎていた気もする)で誰かがペットを飼っているというのは珍しいことではなく、その中にはニワトリもいた。豊かな自然環境の中でのびのび育っていたはずだが、そこで「思考汚染」のニュースである。誰が仕入れたかは知らないが、「思考汚染」の噂はたちまち広まり、地域の家畜をどうするか議論している内に、動物に関する本及び、犬などのペットの「回収」が始まった。「思考汚染」は基本的に野生動物にのみ発生するらしいが、愛玩動物に関しては、その飼育目的から危険性があると見做されたのだと思う。対して畜産業に関する動物は、その危険性が薄いとされ、回収は行われなかった(もちろん生産を止めるわけにはいかなかったのもあると思う)。しかし、地域の人々にはそんな話は通じなかった。これまた誰かが、「家禽に愛着が沸いた男が家庭を捨て、全てをその家禽に注いだ例がある」と言い出した。その噂もたちまち広まってしまい、地域の家禽はあっという間にいなくなってしまった。最後まで抵抗していた老夫婦(ニワトリを飼っていた)も、最後には出ていってしまい、それに続くように、俺の家族も引っ越した。後からその地域が立ち行かなくなった話を小耳に挟んだが、当然だとしか思えない。そう、動物大好きっ子だった俺にしてみれば、今でも嫌な思い出である。
そんなわけで、生の動物を久しぶりに見ることができて、喜ぶ気持ちも少なからずある。どこで手に入れたのだろうか。世間の目もあるし、一般人が家禽を飼育するなんて、そう簡単なことではないはずだが……。まぁ、そんなことはいい。後から本人に聞き出せば済む話である。
よくよく見てみると、なるほど、ニワトリのビジュアルとは案外悪くないものである。鮮やかな赤色をした立派な鶏冠に、ありがたそうな形をした肉髯。全身を覆う羽毛の色は夕暮れよりも濃く、身体の盛り上がりは力強い肉質を想起させる。黒い尾羽や鋭い足指、そして特徴的な蹴爪は、まるで絵本の中の怪物だ。ニワトリの要素を持ったモンスターではバジリスクが有名だが、確かにこの野生味溢れるかっこよさは現代にも通じるだろう。
好奇心が掻き立てられあちこち撫でてみたが、どうにも、こいつは俺の事を舐めているのか、うんともすんともコケッとも言いやがらない。それどころか、身震いの一つもない。一瞬、「作り物なのでは?」という考えが頭をよぎった。鳥類や爬虫類特有の表情のない瞳が、この考えを手助けしていた。しかし、触れたときに感じる羽毛の温かさと、鼻腔をつくかすかな獣臭は、確かに生きている証だろう。
ふと、ニワトリが足元をゴソゴソさせていることに気がついた。見てみると、脱ぎ散らかされた服と、くちゃくちゃになっている掛け布団の間に、タバコが隠れていた。執拗に足先でつっついたり、開け口の部分をカリカリ引っ掻いたりしている。それが俺には、いや、そんなわけはないのだけれど、どうしても、ニワトリがタバコを吸いたがって悪戦苦闘しているように見えてしまっていた。俺はタバコの箱をサッと取り上げ、一本、足元に転がしてやった。するとニワトリは、タバコを器用に指の間に挟んで固定し、口を足元の方に持っていってそのまま咥えてしまった。なんとなく俺もその気になり、灰皿をニワトリと俺の間に移動させた。当然のことであるが、鳥類にライターは扱えない。俺は、丸焼きにしてしまわないように気をつけながら、奴が咥えているライターに火をつけた。俺もタバコに火をつけ、世にも奇妙なニワトリとの一服へと洒落込んだ。
喫煙による健康被害が嫌というほど叫ばれる現代において、我々がそれでもタバコを吸うのは、同じ喫煙者と無条件で友人になれるから、というのが理由として存在する。しかし、咥えているだけとはいえ、人間以外とタバコを吸うことになるとは。ニワトリの喫煙行為は、首を振るたび灰が布団の上に落ちそうになってなんとも危なっかしい。最初は灰が落ちそうなところに忙しなく灰皿を移動させていたが、次第にそれも止み、今度はこちらをじっと見つているだけになった。
そういえば、彼女もタバコを咥えたまま「ぴたり」と静止してしまうことがあった。そういうときは何か考えごとをしているときで、大抵の場合、その後にはくだらない思いつきを口走るのだ。
「金の卵で炒飯を作ったら、それが本当の黄金炒飯だよね」
「ヒノキって輪ゴムで切り倒せるのかな」
「『Re:Re:』のイントロが流れてる間に、家の周り一周できるんじゃない?」
本当にくだらない。実行すれば、人生の幾許かを棒に振ること請け合いだ。ニワトリが家にいるのも、そういったくだらない思いつきの一環だろう。しかし、彼女の思いつきは、実行しないからこそ笑ってすませられるのだ。「ニワトリを家で飼育する」なんて、他のものに比べれば実行できそうだし、実際、ニワトリはここにいる。飼う動物に物珍しさこそ覚えるが、いつもの冗談めいた「何か」を、俺は感じ取れないでいた。
もし、今のこの状況が「冗談」ではなかったとしたら。馬鹿馬鹿しい想像だが、考えることをやめられない。ニワトリの獣臭さはこの部屋の雰囲気を微かに壊していたが、それは確かな「柏木銀杏らしさ」でもあった。世にも奇妙なタバコを吸うニワトリ。しかも、喫煙中の動作には彼女を思わせるものがある。
柏木銀杏は、ニワトリになった。
正気の沙汰じゃないが、そういう考えが、頭の中を支配している。
このおとぎ話を裏付ける証拠は、すでにいくつか揃っていると思う。一つは、鳥類のくせに喫煙したこと。愛煙気質からサラッと流したが、喫煙とは文明の産物であるはず。家畜風情が楽しめるようなものではないのだ。
もう一つは、ニワトリのすぐ足元にある。それは彼女の、脱ぎ散らかされた服である。最初にそれを見たときは、「またか」と思った。彼女は、(たとえコンビニへ行けだけのような)少しの外出でも、小ましな格好をして出ていくことが多かったからだ。この部屋が入っているアパートは奇妙な立地にあり、大小関係なく用事を済ませるには、駅方面の大通りへ向かわなければならない。そういう場合、彼女はなけなしの自意識を発揮し、服を着替えて出ていくのだ。今回もそうかと思った。しかし、着替えのために脱いだにしては、服の位置がおかしくもあった。たいてい、ズボラな人間の脱衣とは、そこらに脱いだ服が散らばるものだろう。ところが、ニワトリの下に合った服は、キチンと置かれていたのである。丁度、寝転がっている人間が、服だけ残して消えてしまったように。ニワトリでさえ「柏木銀杏」の雰囲気を感じさせるこの部屋において、その几帳面な様子は、明確な違和感だった。
〈ぐ〜〜〜〜……〉
「え?」思わず口について出た驚きの声は、突如鳴った謎の音に対してだった。ああ、これは、俺の腹の音だ。そういえば、起きてから何も食べていない。一旦立ち上がり、冷蔵庫を物色しにいった。何も入っていなかった。
〈ぐるるるる……〉
冷蔵庫の中身への落胆を示すように腹が鳴った。思考にカロリーを使い切ったのか、頭の中は占めるのは、もうほとんどが食欲だった。
とにかく、何か口に……ああ! そうだ…………
台所の引き出しから包丁を取り出し、検索エンジンに「ニワトリ 血抜き 簡単」と入力しながら、彼女の元ににじりよった。
獣臭が鼻腔をくすぐる。もうすぐ、この首を掴んでしまえる。しかし、何故、
「ちょっと、何してるの?」突然の声に驚き、思わず後ずさる。振り返ると、そこには柏木銀杏がいた。
「ねぇ、聞いてる? あ、足。血ぃ出てる」
「……? うわ痛っ!!」
ふと我に帰ると、ひりひりとした痛みが、足先に遅れてやってきた。どうやら驚いた拍子に、手の包丁を落としてしまったらしい。
「今更かよ。それで、何しようとしてたの? ま、大体予想はつくけど」
「え、あー、その、このニワトリ、食べようと思って」
「それ私のやつだから。勝手に食べようとすんなよ」
至極真っ当な意見だ。俺は腹を空かせるあまり、彼女のペットであるニワトリに手を出そうとしていた。包丁で足を切った痛みで、我に返ったのだろう。彼女は軽く悪態をつきつつも、救急箱を探し出してきてくれた。
「ごめんごめん。起きてから何も食べてなかったんだ。それで思わず……というか、このニワトリどうしたの?」
「こいつね、ここの大家が売ってくれたの。めちゃくちゃ良い人だよね」
そう言った彼女の声は、少し自慢げだった。彼女は買い物に出ていたようで、買ってきたものを冷蔵庫にしまっている。俺は足の手当てをしながら会話を続けた。
「『めちゃくちゃ良い人だよね』って……。銀杏さん、大家さんのこと『押し入れで大麻育ててそうで信用ならない』とかなんとか言ってたよね」
「いやぁ、『人は見かけによらない』って、ああいう人のことを言うんだろうねぇ。そんなことよりもさ、なんとこのニワトリ、普通のニワトリじゃあないんだ」
「ニワトリがいること自体普通じゃないだろ」
「なんとこのニワトリ…………『金の卵を産むニワトリ』なのです!」
衝撃の事実である。いや、このニワトリが本当にそうなのかよりも、彼女がそんなマイナーな童話を知っていることが。よく本を読んではいるが、どこかで古い版の童話の本を読んだのだろうか。それとも、子どものとき……? 気になることはいくつかあったが、一つ、何よりも気になることがあった。
「え、金の卵を産むのってガチョウじゃなかったっけ」
「どっちも鳥じゃん」
「いやいや、同じ鳥だからって一緒くたにはできないな。もしダチョウなんかが金の卵を生んだらどう思うよ。これででかいオムライスを作ってやろうか、それとも質屋に売り払うかで無駄な苦悩が生まれるだろ。そう考えると、どの鳥が金の卵を生むべきなのかってことには慎重に議論を重ねるべきだと思うね」
「なんで急に早口になったの?」
「それはごめん」
「あと、金の卵を産む童話にはニワトリバージョンもあるからね」
「ごめん、後出しで論破するのやめてほしい」
「まぁそんなことはどうでも良いよ。それより、やっぱり初対面のニワトリ食おうとするなんておかしくない? しかも他人のやつ」
「いやその、銀杏がニワトリになっちゃったのかと思って。」
「はぁ? 言い訳としてはお粗末だなぁ…………あ?」
長い沈黙。まずい、本当に怒らせたかもしれない。じっと待ったが、ようやく出てきた次の言葉は、予想外のものだった。
「ねぇ、このニワトリ、オスじゃない?」
「そこじゃないだろ……。え? あっ……。」
「だ、騙されたァ〜〜〜〜!」
ボロアパートの薄い壁を突き破りそうなほどの絶叫。斯くして、一羽のニワトリをめぐる、柏木銀杏と俺のくだらない一大事件はあっさり幕を閉じた。
「で、このニワトリどうしよう」
「せっかくだし育ててみたら? 生きてるニワトリなんて、結構貴重なものだと思うよ」
「確かに……『せっかくだし』なぁ〜」
そう言いながら、台所の方に向かう柏木銀杏の足取りは、明らかに重そうだった。「私今から飲むけど、なんか飲む?」
「何があるの?」
「んーっとねぇ……よく分かんないビールと、よく分かんないワインサワー」
「じゃあ、よく分かんないビールで」
彼女がつまみを用意してくれるので、それを待ってから一緒に飲み始めた。今日の乾杯はいつもより落ち着いたものだったが、どこかいつもより耽美的だった。
乾杯して一口飲んだ後、彼女がテレビをつけた。この時間帯ではニュース番組しかやってないと思ったが、案の定、どこのチャンネルもニュース番組だった。ニュース番組の中に組み込まれている小規模な企画を、軽くアルコールの入った頭でぼんやりと眺めている。たまに顔を突き合わせ、その企画への悪態をつきあったりした。
そういうのにもお互い飽きてきた矢先、パッと画面が切り替わり、ニュースキャスターが喋り始めた。
〈速報です。つい先ほど、ニワトリの「思考汚染」について、イギリス・サフォーク州のQ大学から発表がありました。詳細については……〉
発表時の映像と共に、ニュースキャスターが整然とした語り口調で内容を伝えている。驚愕の発表で目を見開く彼女を横目に、俺の心はもう決まっていた。
「なあ、このニワトリ食べない?」
「うん……そうしようか」
そうして、この世にも珍しいニワトリは、いただくことに相成った。血抜きと解体には手間取ったが、なんとか丸々一匹分使い切ることができたし、味もなかなかのものだった。
数日後部屋のゴミ箱から、くしゃくしゃに丸まった『明日からできる養鶏のススメ』という本を発見した。このとき思わず吹き出しそうになったのは、ここだけの話に留めておこうと思う。
彼女がニワトリになった 翁 @casumarzu
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます