汚穢事

小狸

短編

 死にたい。


 死にたい、死にたい、死にたい。


 死にたい。


 死んでしまいたい。


 今一秒でも生きていたくない。


 どうして生きているのか、その理由すら分からない。


 死にたい。


 こんなことを臆面おくめんもなく言うと、恵まれた奴らから「生きているだけで幸せだ」「贅沢言うな」と説かれることを承知の上で、私は言う。


 私は、死にたいと思って生きている。


 毎日目が覚めて、ああ、また今日も生きてしまった、と思う。


 小学校の時、クラスの女子からひどいいじめを受けた。


 誰も私を助けてくれなかった。


 担任の先生も新任で手を付けられなかった。両親は、「そんなこと気にするな」と言ってきかなかった。


 そうやって、私の心は腐っていった。


 塾の先生伝いで校長先生に連絡が行っていなければ、私はとうの昔に自殺を選んでいただろう。


 それくらい、ひどいいじめだった。


 殴る蹴るなんて当たり前。


 無視暴言なんて至極当然。


 階段から何度も突き落とされた。


 死にかけた。


 令和の今の時代にそんなこと――と思うやもしれないが、これが結構あるのだ。特

に私のような、自分への被害を大人に対して隠してしまう、外面だけ良い子の場合には。


 中学の入学式の日。


 私は部屋から起き上がることができなくなった。


 母からは、起きなさい、行きなさいと言われたけれど、いやだと言った。


 初めて、母を拒絶した。


 それが、母にとっては衝撃だったらしい。


 それもそうだろう。私は母の操り人形だったのだから。それが自由意思を持って動こうなどと、母は想定していなかったのだろう。


 自分の子どもが「ちゃんと」できないことなど、「ちゃんと」できなくなることなど、想像できなかったのだろう。


 最近の親はいつだって子に自らの願望を託し過ぎる。


 五体満足で、疾患なく、眉目秀麗、博学多才に産まれてくると思って疑わない。


 人間がそんな完璧な訳がないだろうが。


 私たちの倍以上生きているのに、そんなことも分からないのか。


 とにかく母は、その拒絶で、私の異常事態をようやく理解したらしい。


 遅すぎるくらいである。


 そこから、精神科への通院が始まった。


 部屋からは、ほとんど出なくなった。


 妹は、外面は良い。成績も良い。でも性格は最悪である。常に私を見下している。


 父は、相変わらず育児・教育には無関心である。元幼稚園教諭の母に全てを託して、自分は高みの見物である。


 私が唯一、一階に降りて来るのは、夕食の時だけである。


 そこでは、私には一切触れない。


 常に妹の成績と、功績を称える会である。


 何が一家団欒だよと思う。結局この世は実力主義、顔面至上主義である。これは世の中でもそうかもしれないが、求められるのは、本音ではなく、相手が欲しい言葉なのだ。妹は、それを分かった上で、話している。


 今日は晴れの木曜日であった。


 相変わらず、部屋で何もせず、ぼうっとしていた。


 家にある小説はあらかた五周目に到達してしまったし、テレビは私の部屋には無い。スマホを見ても、見たくもない嫌なニュースが飛び込んで来るだけだ。


 そうして意識の余白が生まれると、必ずといって良いほど、飛び込んで来る。


 死。


 今なら、死ねるか。


 どうやったら、死ねるか。


 心の奥底で、そう考えている。


 だって、私はまだ中学生であるはずだ。学校に通学して、勉学や部活動に勤しんでいるはずなのだ。それは社会活動の練習で、そういう苦労や大変さを経て、人は大人になってゆくのだ。


 ならば私は?


 そこから踏み外してしまった――否、蹴り落とされた私は? 


 誰にも助けてもらえなかった私に、生きている意味や価値があるのか?


 あるはずがない。


 でも――最後の死ぬ勇気、それだけがないから、ずるずる毎日生きているのだ。


 その日は、珍しく母が、部屋をノックした。


「■■ちゃん――入っても良い?」


「良いよ」


 それからしばらく、世間話をした。


「■■ちゃん、まだ死にたいって思う?」


「うん、死にたい」


 そう問われれば、そう返すしかない。


 死にたい。


 死ななければならない。


 私のような人生の落伍者は。


 犯罪者になるか、自殺するくらいしか。


 道がないのである。


 それは、スマホのニュースでも良く見る。


 無差別殺人、大量殺戮、気の狂った動機。


 それらは、加害者の精神的要因、環境的要因によってもたらされることがほとんどである。


 私も、いつか、誰かを殺すかもしれない。


 だから、死ななければならないのだ。


 誰かを殺す前に。

 


「あのね――わたしも、学生の頃、死にたいって思ったことあったの」


 滔々とうとうと、母は語り始めた。

 意外だった。この母に、そんな時期があったなんて。


「……なんで?」


「お母さんのお父さん――■■ちゃんにとってのおじいちゃんが、死んだから」


「…………」


 私の母方の祖父は、母が中学生の時、交通事故で亡くなっている。


 中学生。今の私と同じ時期だ。


 いや、正確には私は、中学生ではないのか。


 引きこもりの、犯罪者予備軍だ。


「ショックだったわ。死にたいって思った。だって、家族ってものが、欠けてしまったんだもの。いつもいるはずで当たり前の存在が、当たり前じゃなくなった。そんな時にね、私は日記を書いたの」


 そう言って、母は、一冊の古いノートを、私に見せた。


「毎日死にたかった、もう学校とか何もかも全部辞めちゃおうって思った。だから、取り敢えずそれを、日記にしたの。死にたいって一言しか書いてない日もある。何度も、書いている日もある。でもわたしは、休まなかった。だって、わたしのお母さん――あなたにとってのおばあちゃんが、生きていたから。生きようとしていたから」


「…………」


「だから、必死で押し殺して、ノートに書いて書いて書き続けたの。これは、その内の一番ひどかった時の一冊。当時はさ、今よりいじめとかひどかったから、『親知らずー』とか、普通に言われたかな。それでも、わたしは中学三年間、休まず通った。それは、良かったと思ってる」


「…………」


「だからね。今は苦しいかもしれないけれど、いつか――」


「――いつかって、いつ?」


 私は、母の言葉を遮って、続けた。


「結局お母さんは、そうやって死にたいを何かの形で表すことができたんでしょ? 受け止めてくれる誰かが居たんでしょ? 恵まれてたんでしょ? それと一緒にしないでよ。綺麗事なんてうんざりなんだよ。私にはそんな人、一人もいなかった。私を助けてくれた人なんて、一人もいなかった! 私はずっと、一人だったんだ!」


「■■ちゃ……」


「もう■■ちゃんなんて呼び方も辞めてよ。気持ち悪いんだよ。散々助けてって言ったのに、助けなかったのは誰? お母さんはそうやって死にたいを形にして、ああ、後から見ればあの頃辛かったなって言えるだろうけど! 先とか後とか、考えてる余裕ないんだよ! 父親が死んだから何! いじめられたから何! 結局、そういう辛いの苦しいの我慢しろとか、そういうこと言いたいんでしょ! そんな世の中、もう嫌なんだよ! 今までとかこれからとか! もうどうでも良いんだよ! ! ! !」


 いつの間にか、私は泣いていた。


 部屋の外まで、母を追い詰めて。


 差し伸べられた手を、払った。


「あっ」


 それが。


 果たして私か、母か。


 どちらの声だったかは、分からない。


 母はバランスを崩して、階段から落ちた。


 曲がりくねった階段である。下まで落下することはない。


 しかし丁度窓になっている所の段差に、母の頭はぶつかった。


 ごぅん。


 という、鈍い音が響いて、静かになった。


「……おかあ、さん?」


 反応は無かった。


 恐る恐る見に行くと、母の頭から、血が出て、階段に滴り落ちていた。


 私は、状況を理解した。


「あーあ」


 それは、自分の声だとは思えないほどに、冷たい一言だった。


 私が、殺した。


 私が、母を殺した。


 


 もう、生きてちゃ、駄目だ。


 妹は部活で、父は仕事で帰ってこない。


 救急車を呼べば――母は助かる可能性はある。


 しかし私の思考の中には、もうその選択肢は存在していなかった。


 動かなくなった母を踏んで、一階に降りて、キッチンに行き、魚を捌く時に母が使っていたよく切れる包丁を、手に持って、そのまま首に、思いっきり押し当てた。


 びっ――と。


 鮮血が飛んで、意識が遠のいた。


 最後に目に入ったのは、キッチンや私のスウェットに飛び散った、私の血だった。


 ああ。


 汚い。


 けがれている。


 こんな私は、死んで良かった。


 死ねて、良かった。





 *





 柿名家にて、母智子ともこと長女皆子みなこが発見されたのは、その日の夕刻のことである。


 母は死亡したが、皆子は奇跡的に一命をとりとめた。


 母殺しの容疑を掛けられたが、不慮の事故として不問になった。


 何より、皆子はほとんど意思能力を喪失していたのだ。


 脳に血液が行かない時間が、長すぎた。


 数多のチューブで何とか延命し、親戚中から入院費治療費をむしり取り、死んだ方が幸せなのではないかと思われながら、それでも柿名皆子は、死ぬことすら許されずに。


 みにくく生きる。

 



(《汚穢事》――了)

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