雨濡れの君の明日

天川

第1話 怪しげな奴ら

 雑音混じりのイヤホンから、聞き馴染んだ声が聞こえてくる。

『ここで会ったのもなにかの縁ですよ………寄っていってくださいな───』


 ……どうやら、接触には成功したようだ。

 とりあえず、当座の時間は稼げるだろう。

 俺は、伝えられた合流地点を目指し乗っている軽トラックを目一杯飛ばしていた。

 空は曇天で、控えめな雨粒がフロントガラスに落ちてきている。



 ちょっとした用事があって、自分の持ち場であるホームタウンを離れていたのだがこういう時に限って事案は舞い込んでくるものだ。俺は、でもある女性に感謝と罪悪感を感じながら、雨で濡れた田舎道を現場に向かって急いでいた。


 ……間違いありません、です。


 数十分前にその連絡を受けた時、俺はすぐに付近にいる仲間に応援を要請した。現場まではどんなに急いでも30分以上はかかる。自ら着手できない以上、現場にいるメンバーに頼るしかなかった。

 運悪く、付近ですぐに動けるのは『マダム』だけだった。話術に長けているとはいえ、彼女は「」ではない。対象に逃げられたら、おそらく手遅れになるだろう。可能な限り対象は複数で囲む、その上で接触は一対一を厳守する。


 ────この「」を行う上での鉄則だった。


『──いえ、まだ泊まるとこ…も見つけないと、いけ…せんし……』


 イヤホンから、男の声が聞こえてくる。不明瞭で、辛うじて聞き取れる程度。彼女の耳飾りに付いている集音マイクが拾ったであろう音声が、携帯電話を通して聞こえてくる。この声の男が、なのだろう。


『でもこの辺、泊まるところなんか無いですよ? それに────』

 彼女マダムの呼びかける声が、再びイヤホンから聞こえる。

『……ここまで、車で来た訳じゃないですよね。ここ、もうバスとか有りませんよ? タクシーも捕まるかどうか……』


 ちょっと無神経な感じもするが、言動に不自然さは無い。恐らく彼女自身の見立てで、この「対象」は衝動的な行動を起こすリスクが低い、と判断したのだろう。やや踏み込んで、相手の反応を探っている感じだ。


『……いえ、知り合いが、迎え…来ることになってま…から、平気ですよ』

 再び、対象の男の声。

 事前に聞いていた情報と違って、意外と理性は残っている印象だ。対話を嫌がっているが、それでも受け答えに矛盾は感じられない。ちゃんと、筋は通っている────これなら……。


 そこへ、別な人間から連絡が入る。

 車のダッシュボードに固定されていたもうひとつのスマホの画面に、文字メッセージが流れてきた。


『こちら、現着。対象の監視に移行した。は下がらせて大丈夫だ』


 漁師の文字を見て、俺の脳裏に体格が良い禿げ頭のおっさんの姿がよぎった。彼はベテランで腕力も行動力もある。いざとなった場合でも安心して任せられるだろう。俺は、ひとまずほっとする。


 そして俺は、スマホの向こうにいるマダムに向かって指示を出した。

「マダム、後続のサポートが尾行態勢に入ってくれた。一旦下がって大丈夫だ」


 すると、とんとん、とマイクを叩く控えめな音が返ってきた。

 声で返答ができない状況で用いる、了解を示す合図だ。


 よし、これで………ん?


『………これ、うちのショップカードです。もし、どうにもならなかったら訪ねてくださいね?』


 どうやらマダムは、別れ際に店の珈琲券を手渡したようだ。対象が自ら訪ねてくれるなら、それが一番いい。連絡先を残しておく事、これが現時点でできる最良の手当だ。


 それから少しして、イヤホンに声が入ってきた。

、どこ行ってたんですか? あたし一人じゃ、対処なんかできませんよぉ~?』


 少し非難するような、それでいておどけたような明るい声。

 フリーターというのが、俺を表す符丁だ。


「すみません、あと二十分ほどで現着します。日が暮れる前には、張り付けると思いますので……じきに他の応援も到着する見込みです」


『は~い、おつかれさまです。じゃあ、あたしはお店に戻ってますね?』

「おつかれさまです。……あぁ、にも一応連絡を入れておいてください。今晩お願いします、と」


『了解です。じゃあ、気を付けて帰ってきてくださいね』


 俺はスマホを切って、軽く息をついて改めて運転に集中する。


「……何処いずこも同じ、世間は変わらず……か」

 思わずつぶやきが漏れる。


 俺は、先程まで隣町でも似たような案件の対応に当たっており、その帰りだったのだ。こういうのは、起こるときには立て続けに起こる。そして、無いときには無しのつぶてである事が多いものだ。

 

 正直なところ、どんな状況であってもやること事態は単純だ、力技でいいなら難しくもない。

 問題は、「相手が本当にそれを求めているのかどうか」ということ。

 俺がこの役目で、一番重要視している事がそれだった。


 しばらくして、もう一方のスマホの画面にまた連絡文が流れてきた。先程のからだろう。


『対象はホムセンに入っていった。このまま監視を続ける。応援に便が合流した』


 よし……

 一人で張ってると怪しまれるリスクが大きくなる。監視役が二人に増えたのは朗報だな。


 しかし、ホームセンター?

 金は持ってるのか、あるいは────


 様々な思いが去来するが、後は実際の現場で判断するしか無いだろう。

 俺は、現地で待っているであろう仲間の元を目指してそのままひた走った。



 …………………………



 日が落ちた現地で合流し、俺は仲間から一通りの報告を受けた。

 あれから対象の男が立ち寄った場所と行動内容、接近して確認した具体的な風貌と、表情から受けた印象、雰囲気……それらを総合的に判断した結果、

 

 『切迫度・高、最優先』


 全員の見解は、一致していた。

 先ほど、対象の男がホームセンターで購入していた物品は……切り売りのロープだったらしい。所持金は小銭のみ、手持ちで買えるギリギリの長さだったそうだ。


「分かった。俺が接触しよう。具体的に動くまでは離れて監視しててくれ」


 俺は仲間の三人にそう告げて一旦別れ、夕闇の中に向かって歩き出した。



 ………………………… 



 すっかり夜の帳の降りた中、虚ろな雰囲気で歩いていた対象の男は、視界を遮られそうな木立をみつけ、やがて遊歩道を外れてその中に分け入って行った。


 頃合いだな、行くか───。


 俺は、敢えて普通の足取りで足音も消さずに無造作に近づいていった。

 男は、枝振りの良い松の木を見つけ、その頭上の枝を眺めていた。



 ………彼は、ここをという事なのだろう。


 

 いつものことながら、この瞬間はやるせなさを感じる。

 人に聞かれれば何よりの善行みたいに言われることもあるが、俺自身はこれが最悪の干渉だと思っている。


 善悪、適当不適当はともかく、これは彼自身の選んだ選択なのだ。


 その、生命の処遇を決める最期の自由に干渉するからには……俺も命を差し出す覚悟が無ければ、決して釣り合いは取れない。


 俺は、しゃりしゃりと自分の髭を弄ぶ。

 この仕草が、俺の意識を切り替える最後のスイッチなのだ。


「こんばんは、どうしたんすかぁ」


 俺は、能天気を装って男に声を掛ける。

 少し唐突ではあるが、戸惑わせるためにこのくらいで丁度いい。


「っ!?」

 対象の男は、絵に書いたようにびくりとして、こちらを振り返った。

 ───瞬間、取り出そうとしていたロープを再びポケットに押し込んだのが見えた。

 明らかに狼狽している。

 だが、俺は構わず歩み寄りながら重ねて声をかけた。


「───いやぁ夜中で、しかも天気も良くねぇし。おまけに、こんな場所だろ? 困ってんじゃねぇかなぁ~ってな」


 対象は、明らかに追い詰められた表情、顔を見ると落ち窪んだ目に痩けた頬。

 上着はそれほど汚れてはいないが、ズボンには現場作業で付着したと思われれるセメント汚れが付着していた。もう、何日も着替えていないのだろう。

 それでも、髭だけは剃った跡が見えていた。社会に出ていくための最低限の矜持が、そこに残っている気がした。

 ここまで追い詰められていながら、それを捨てきれない男の姿に、堪らなく哀しさを感じた。


 彼は、何を思い、どう生きてきたのか───


 それを推し量るには、圧倒的に時間が足りない。

 だが、これを仕事だと割り切って迷いを振り切る。

 最低でも、この男の中に可能性をこじ開ける、それが俺の役割だ。


「なんなら、うち寄ってったらどうだい? 大抵のものは用意できるぜ? うちは、ちょくちょくそういう客が来るもんでな」


 フレンドリーな雰囲気を出しつつ、更に相手に接近する。

 逃げ出されたら面倒だ。事故につながる危険性もある。


 リスクを防ぎ、その上で対話に持ち込むには相手の開示を待つ必要がある。

 いくら善意を楯にしようとも、相手が自発的に話してくれる心境になってもらえなければ、それは「説得」になってしまう。俺のするべきは説得ではない、対話だ。

 こちらは、誰であってもいつでも受け入れられる、というポーズを見せて相手の歩み寄りを待つのである。


「い、いえ大丈夫です。ちゃんと宿もとってありますし。ちょっと、この辺を散歩してただけですよ」


 にこやかな受け答え………本人はそのつもりだったのだろう。だが、既に彼の表情は破綻していた。歪んだ唇と、いびつなまでに上下にずれた眉毛。おまけに……散歩と来た。


 こんな外灯も人気も無いような場所を散歩する変人は居るまい。明らかに嘘、言い訳である。もはや、辻褄も合わないほどに認知が歪み始めているということだ。


 俺は後手で、ポケットに入れて繋いだままにしておいたスマホを、ととんととん、と指で叩く。付近に潜んでいる仲間に、警戒を促す合図だ。自暴自棄になって形振りかまわず逃げ出す恐れがあったからだ。


 俺は、目一杯まで神経を集中する。

 自分の表情を、笑顔のまま変えないように。


「まぁ、回りくどいこと言っててもしょうがねえか……」

 そして、敢えて脱力したように声をかけた。


「………?」

 瞬間、相手の表情に、微かに人間味が戻る。

 今しかない───


「はっきり言わせてもらうとな───」


 一気に踏み込む言葉を、俺は相手に投げかけた。




「あんた……死ぬために、ここに来たんだろ?」




 自分の鼓動が一度、大きく強く打ち付けるのを感じる。

 ここで、相手の反応が弱々しければ、俺は黙ってこいつを死なせてやる覚悟だった。


 ここが運命の分岐点だ。

 お前の魂を、命の叫びを……俺に見せてくれ。



「……だったら、なんだってんだ……!?」



 男は───怒りと嘆きを滲ませながら、俺に開き直って答えていた。



 俺は、心底ほっとしていた。


 こいつは、大丈夫だ。

 まだ生きようとしている、死を選びながら奥底では生きることを渇望している。

 ならば、俺達にもできることがある。



 俺は、自前の髭をシャリシャリと擦って、緊張を解いた。

 俺の役目は、もう半分終わったようなものだ。

 後はふん縛ってでも、連れて帰って手段を講じてやれば、道は拓けるだろう。


「ここいらは多いんだよ、あんたみたいなのが。だから、見ただけでわかっちまうんだ。あんた……自分が周りからどう見えてるか、もう自覚できなくなっちまってんだよ」


 そして俺は、さらにずかずかと無造作に歩み寄っていった。

 男は流石に驚いて、一歩後ずさっていたが全力で逃げる様子はない。

 もう、諦めの方が勝り始めているのだろう。


「で、原因は何だ? 金か? 女か? 人生に希望が持てなくてとか、面倒なこと言うなよ? こっちにも、対応できる限界があるからな」


 俺は、そんな言葉を相手に投げつけていた。我ながら、無神経にもほどがある。だが、律儀なこの男はそんな俺の言葉にきっちりと狙い通りの反応をしてくれた。


 苛立ちと悔しさを滲ませ、唇を怒りに歪ませていた。

 先程までよりも、ずっと人間らしい表情を見せていた。


 ……素直で、真面目で、責任感の強い

 そんな男なのだろう。

 だからこそ死んででも解決しようとした、そういうことなのだ。


 だが、そんな男の表情が急に陰り活力を失くした。

 再び、男の心に諦めが舞い戻ってきたのだろう。



 いつもこうだ、

 いつもこうだった。


 こんな「いい奴」が、こぞって卑怯な人間の標的にされる。

 狡い奴ほど美味い目を見る。

 ………クソッタレな世の中だ。

 縋った先が神だったら、その宗教までもが金を毟るような社会だ。

 何が悲しくて、こんな無様な目にあわなきゃいけないんだ。

 

 だがそんな世の中であっても、

 俺もこの男も、絶望しきれずにこんなことをしているのかもしれない。


 この男は、いったいどんな事情のために命を散らそうとしていたのか。

 どんな、人の世の不幸を背負わされて……。


 そこで、ふと俺の頭に疑念がよぎった。

 死んで、解決する……つまり───


「────あのよ?」

「……なんだよ」


 俺は、直接男に尋ねてみた。


「一応聞いておくが、生命保険入ったの、いつだ?」


 男は不意を突かれたような表情をしていたが、それでも内心では安心しているのが見て取れる。やはり、事前に生命保険に加入していたようだ。だが……、


「───念のため、言っておくとな。今の保険って、加入から1~2年経たないと、自殺じゃ下りねえぞ?」


 俺は、その浅はかな考えをやんわりと否定しておいた。

 一昔前ならそれができたのかもしれないが、現在では保険金目当ての自殺が多すぎるために、それに関しては据置期間が設定されていることがほとんどなのだ。


「……は?」

 そして、男の表情は安堵から一転して絶望へと変わっていた。


「ほ、ホントかよ……それ!?」


 慌てた男の問いかけに、俺は頷いて肯定した。


 「なんだよ………。もう、どうしようもねえのか……よ」


 目の前の男に対し、一層の憐憫と哀しさが募る。

 だが、おかげでもう俺に迷いはなかった。

 美しいまでに、清々しいまでに不器用で優しい男だ。


 こいつは絶対に死なせない。

 こんなやつが奪われたまま死んで良いはずがない。


 がつん、と音を立ててガードレールにより掛かる男に、俺は穏やかに声をかけた。


「───まぁまぁ、死ぬ覚悟まであるってんなら、ちょっくら寄っていきなよ。時間あるだろ? 店はこの近くだからよ」


「あ……店?」


「持ってんだろ? 珈琲券」


 俺の言葉に、思い出したようだ。

 マダムが手渡していた、あの珈琲券のことを。


「────そんで、どうにもならなかったら


 そして俺は、改めて男にそんな提案を持ちかけた。


「それなら……どうだい?」


 目の前の男は、驚いた様子で俺の顔を見返した。

 俺は軽く微笑み頷いて、

「保険金も、バッチリ下りるぜ?」

 そう応えた。


「そ、そんな………」


 男は、そう言うのがやっとだったようだ。

 あまりに意外すぎる提案。だが、それが事実だとすれば彼にとっても願ってもないこと、そんな思いが透けて見えるようだった。


 うまい話……か。


「はっ……、ははは………」


 男の口から、酷く投げやりな笑い声が漏れ出た。

 そして、その場にへたり込んでいた。


 俺は、男にそっと近寄り肩をぽんと叩いて促し、少し離れた場所に停めてある軽トラックまでゆっくりと連れて行った。

 

 俺は、先に助手席に男を座らせて、ドアを閉めた。

 そして、ズボンの後ろポケットに仕舞っておいたスマホを取り出し、繋いだままの仲間に短く伝えた。


 「対象確保。店に入ったら、解散だ───」



 ……………………



 男を連れて来た店に、客の姿は既に無かった。


 看板も含めほとんどの照明が落とされており、店内は薄暗い。

 営業時間はとっくに終わっている。

 だが、厨房の中は明るく照明が焚かれており、いつでもオーダーを受けられるほど、稼働している雰囲気に溢れていた。

 今晩、処置するという連絡を受けて、マダムが準備をしていたのだ。


「どうぞ」

 俺が男をテーブル席に座らせると、それに合わせてマダムが珈琲を男の前に置いた。

 男は思い出したように、ポケットからくしゃくしゃの珈琲券を取り出し、皺を伸ばして、テーブルの上に置いた。


「ごゆっくりどうぞ」

 マダムはそう言って珈琲券を受け取り、軽くお辞儀をして厨房へと下がっていった。その姿を軽く見送ってから、男はゆっくりと珈琲カップを持ち上げ口をつけていた。


「──おまたせしました。弁護士の、松原です」


 そこに現れた白髪の男がそう言って、テーブルの前に腰を下ろした。

 そして、彼に柔和な微笑みを見せてから穏やかに言った。


「まずは………安心してください。大変でしたね?」


 俯いていた男が、すっと顔を上げて松原と名乗った男を見つめる。


「う……ぁ……あぁ………」

 微かな嗚咽のような、呻きを零しながら……男は涙を流していた。


 緊張の糸が、切れたのだろう。

 それからひとしきり泣き、やがて落ち着くと松原は静かに男に語りかけた。


「話せるところからで構いません。お聞かせくださいますか?」


 男は、自分のことをひとつずつ話し出していた。




 ────────────────




 あれから、一時間ほど経っただろうか。

 松原弁護士は、男の抱えていた問題を丁寧に一つずつ紐解き、その解決方法を提示していった。人間関係のこじれている部分は俺の方で引き受け、お前は今は考えなくて良いと言って、とにかく簡単に解決する方針を提案していった。


 端から聞いていれば、とても死を選ぶような案件でもない。そもそも、こいつに問題があったわけでもなさそうである。話を聞く限り、ほとんど詐欺紛いの恐喝に近い状況でこうなっているようにしか思えない。松原弁護士の見解も、同様だった。


 だが、この男にとってそれらが死を選ばせるほどの重圧となっていたのだ。

 つくづく、人の世の理不尽さを痛感する案件だ。


「……あら、コーヒー冷めちゃったかしら?」


 話が一段落した頃合いで、マダムが再び新しい珈琲を入れて戻ってきた。


「──どうぞ」

 そう言ってまた新たな珈琲を男の前に差し出す。

 薄っすらと湯気のたつカップを手に取り、口に運んで一口……。




「……うまい」




 男はぽつりと、そんな言葉を零していた。

 きっと、味わいを感じることさえできなくなっていたに違いない。

 そんな様子を見て、彼の前途がいくらかでも明るくなってくれればと、願わずにはいられなかった。


「ここまで干渉したからには、俺も責任は取るさ。あんたが、自力で働けるくらいに持ち直すまでは、部屋も貸してやる。働き口も、目星くらいはつけてやるよ。あとは───あんたの心持ち次第だ」


 俺は、男にそう言って励ました。さっきまでは気づかなかったが、男の手は現場に長くいたことが見て取れる、仕事をしていた手だった。

 きっと、不安を取り除いてやればまた仕事に明け暮れる人間なのだろう。きっと一年もあれば、借金は精算できる。その先の事は、それから考えても決して遅くはないだろう。


 そんな彼が、不意に俺に聞いてきた。


「なあ……。あんた……名前は……?」


 あぁ、そう言えば……まだ名前も名乗ってなかったな。




 ───この自殺志願者の男は、かすかな糸に縋り

 そして、人生という旅を続ける決断をした────。




「あぁ。しゅうだ。永峰ながみね しゅう

 俺は、そう名乗った。


「……んで、彼女が───」

「いなさです。天護あまもり いなさ」

 隣りにいたマダムは、俺の紹介を待たず自分から、そう名乗っていた。




 …………………




 ここは、

 雨宿り処~『異邦人』


 人生という旅をする者の、ひとときの休息の場所

 そんな思いを込めて、作られた


 そして俺は…………

 そんな者たちに、生きる糧を差し出す役目を生業とした、

 人の命で金を稼ぐ、ろくでなしだ。

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