第8話 無銘の真価・前編

 落ち着いた旋律のピアノ曲が流れている、雨やどり処『異邦人』の店内。

 今朝から断続的に降り続いている雨のせいだろうが、客席に着いている姿はごく少ないものだ。その数少ない客たちも顔馴染みだったために、俺はマダムから許可をもらって入口近くのモップがけをしていた。


 以前は駐車場から店の入口までの動線が未舗装だったために、雨が降ると入口周辺が泥で足跡だらけになってしまっていた。しかし、俺がその部分に石とレンガを敷いて即席のエントランスアプローチを作ってからは、店内の床が汚れることも少なくなった。

 そもそも、その工事作業を請け負ったのが、俺がここで働くきっかけでもあったのだ。当時を振り返りながら、ずいぶん長く居着いてしまったことを可笑しく思う。


 なるべく音と埃をたてないようにモップを動かしていると、扉の向こうに見慣れた古い軽自動車が駐車場に入って来るのが見えていた。あれは、常連で絵描きの「音取ねとり」だろう。停車した車から、予想通りの顔が出てきたのを見てなぜか安堵してしまった。


 小雨の中を早足で近寄ってくる彼を、俺は片手でドアを開けて迎え入れる。控えめに、からんからん♪ というドアベルが響いた。

「いらっしゃい、今日は早いな」


 俺がそう声を掛けると、音取は……。

「おはようございます、しゅうさん。……あ、もしよかったら、ちょっとお手伝いいただけますか?」

 そう言って店に入らず、逆に俺を外へ招いた。


 彼の後について車まで戻ると、彼は後部ハッチを開けて毛布に包まれた大きな板状のものを引っ張り出した。車の中にはテレピン油の匂いがかすかに漂っている。


「もしかして、油絵かい?」

「はい。返品されたので、引き上げてきたんです。せっかくなので、剥ぐ前に皆さんにも見てもらおうかと思いまして……」


 返品……。つまり、一度は買い上げたか買う約束をしていた客に、気に入られず突っ返された、ということだろうか。……剥ぐ、とはどういう意味だろう。


 俺の疑問を他所に、音取は後部から絵を引っ張り出してハッチを閉めた。

 それから、二人で毛布に包まれたままの絵を持ち上げて店に向かう。


 運びながら、俺は他愛のない質問をしてみた。

「ずいぶん大きいな、何号になるんだ?」

「これはMの50号ですね。このサイズのカンバスは買うと高いんで……再利用しようと思いましてね」


 ………自分で聞いておいて何だが、答えられてもさっぱり分からなかった。数字の前に『M』が付けられていたが、それの存在すら初耳だった。おそらく大きい方なのだろう、というくらいしか見当がつかない。知ったかぶりをしてしまった事に気づいて自分でも恥ずかしかった。


 だが、彼はそんな事など気にもせず、店の入口まで来ると、

「ありがとうございます。……一応、マダムにも許可をもらったほうが良いですよね」

 そう言って店への気遣いを見せていた。


「平気だとは思うが、一応聞いとくか───」

 俺はそう言って絵を入口に立てかけるように下ろしてから、店内で珈琲の様子を確認しているマダムの元へ歩み寄った。


「いなささん、音取さんが油絵を見てもらいたいと言ってるんだが……中に運び込んでもいいっすかね?」


 するとマダムのいなささんは、両手をぽんっ、と合わせて嬉しそうに、

「あら! 彼の絵、見てみたかったのよぉ。ぜひ、入れてもらって頂戴」

 そういって窓際の場所を示した。そこに置いてくれ、ということだろう。


 俺は、律儀に入口で待つ音取のもとに小走りで戻り、再び二人で絵を持ち上げ店内に運び入れた。なにやら大きな物が運び込まれている様子が気になったのだろう、テーブル席で珈琲を楽しんでいた数人の客もこちらに目を向けてきた。


 奥の席で書類仕事をしていた松原さんも、厨房のあづみさんも、様子に気づいて近寄ってきた。

 いなささんは、雑貨の入っていた木箱を窓際に二つ並べて即席の画台を用意してくれていた。俺達は、その箱の上に立てかけるように絵を下ろした。


「大きいわね……」

 毛布に包まれたままの絵を見て、いなささんがそうつぶやく。

「横長……ということは、風景画ですかな?」

 松原さんも、そんな推測をたてていた。


 珈琲を楽しんでいた常連客も興味を持ったらしく、席を立って絵を囲む。

 そんな中、音取は別に勿体付けるでもなく無造作に毛布をめくって絵を解放した。


 

 刹那……

 目を向ける者たちが、一斉に息を呑むのが分かった。



 小雨模様の窓の外、半ば薄暗い店内においてその絵の上だけに雲間からの光が差しているような、そんな衝撃を……俺は受けていた。


「すごい………」


 誰もが言葉を発せないほどの沈黙の中、その静寂を破ったのは……あづみさんの、抜けたような感嘆の声だった。


「ああ……」

「きれいだ……」


 ぽつりぽつりと、客からもそんなつぶやきが聞こえた。


 それからもしばらくは静かな呟きが漏れているばかりだったが、辛抱堪らん様子で声をかけたのは、意外にも松原さんだった。


「これは……この街の港を見下ろす丘からの景色ですね?」

「はい。この街の景色を描いて欲しいという要望でしたので、私が一番美しいと思った瞬間を描きました」


「ほんとだ……。これ、入江の突端の岬ね」

 いなささんも、絵の端の岬を指差しそう言った。彼女にとって、そこは印象深い場所でもあるのだろう。


 たしかに底抜けに美しい、それには全く異論がなかった。だが俺は、絵の題材としては意外な感じもしていた。


「……雨上がり、なのか? これ」

 俺がつぶやくように尋ねると、音取は頷いて答えた。

「はい、私がこの街に来て一番印象に残っている映像なんです」


 この街の景色は、日本海側に面した美しい海と晴れ渡った空が見どころだと言って良い。切り取られた画角も、謂わば王道の陸地と海と空、バランスの取れたオーソドックスとも言えるものだ。

 しかし、描かれているのは雨雲に大半を覆われた薄暗い空。

 街の姿もどこか沈んだ物悲しさを思わせる、少し寂れた感じを敢えて強調しているようにも思えた。


 だが、そこに雲の切れ間から差し込む光が海を照らし、これからの展望を明るくさせるような、強烈なコントラストで描かれた光と陰が粗めの筆致と相まって鮮烈な印象を与えているのだろう。少し離れて見たら本当に光っているように見えたかもしれない。


 長くこの街に住んでいれば、それでも何度か似たような景色は目にしたことがあるだろう。

 しかし、だからこそ……このありふれた景色の美しさに思い至る者は多くないのかもしれない。

 この音取という男は、街に居着いて間もないというのに、そんな地元民の目を覚ますような衝撃を、カンバスに込めて具現化させている。初めて目にした時の感動を励起させる景色を、迷うこと無くこの絵の題材として選び取ったのだ。


「すげぇ、俺……好きだよこの絵。うまく言えねぇけど───」

「えぇ、わたしも……綺麗だと思うわ」

 隣で見ていた、いなささんもそんな言葉を紡ぎ出した。


 しかし、音取はあっさりと言った。

「ありがとうございます。でも、これ返品されちゃったものですので………削り落とそうと思って」


「はぁっ!?」

「えぇ!?」

「なんでっ……!?」


 見ていた者が、一斉に驚いて音取の方を見る。

 削り落とすとは、つまりこの絵をカンバスから削り落として消すということか。ここに来た時、「剥ぐ」と言っていたのはそういうことなのだろう。

 いや、それよりも……


「返品、って……客はこれ、気に入なかったのかい?」

 客の一人の老人が、音取に尋ねていた。


「はい……。思っていたより、絵の印象が暗すぎると言われてしまって……」

 音取は残念そうに微笑んでいた。


「あたしには、輝いて見えるけどな……」

 すかさず、あづみさんがそう言って反論していた。断ったという依頼主の感性が信じられない、といった風体だ。そして、その意見には俺も同感だった。


「削っちゃうなんて勿体無いわ。いっそ、この店で展示したらどうかしら?」

 マダムがそう水を向けた。

「おぉ! そりゃいい考えだ。これなら、きっと買い手が付くぜ」

 俺が声を上げると、周りにいた客たちも、うんうんと賛同していた。


「そうしなさいよ! だめよ、こんな素晴らしい作品を葬っちゃうなんて……罪深いことよ?」

 見ると、あづみさんは両手で音取の手を握って力説していた。よほどこの絵に心動かされたのだろう。

 あまりの盛り上がり様に、本人の音取は戸惑ったような顔をしていた。


「それは、ありがたいんですが……」

 そしてなぜか、音取は深刻な顔をし始めた。


 それから彼は、しばらく思案していたが……。

「じゃあ───。展示していただけるなら、作者が僕だという事については……秘密にしておいてもらえますか?」


「え?」

「どうしてだ?」


 皆が不思議そうな反応を返す。俺自身もそうだった。

 絵そのものもだが、俺は音取という画家をもっと世に広めたいと思っていたから、その答えは少々腑に落ちなかった。こんな才能を埋もれさせたままにするなんて、世界の損失だとさえ思うのだ。


「折角のチャンスじゃないの……」

 あづみさんは相変わらず彼の手を握ったまま、説得しようとしている。


 だが、音取は表情を曇らせたまま静かに説明しはじめた。


「みなさんの仰ることは……わかります。しかし、絵というのはそれを持つ人の人格の写し身でもあるんです。そして、換金資産でもあります。なにより……資産家のステータスでもあるんです───」


 一同は、黙って音取の言葉に耳を傾けていた。


「……絵の『価値』の一つは市場価格です。ですが、それと同時に『絵の作者』というのは絵画を所有する者たちにとっては『偶像』でもあるんです。それを、否定するつもりはありません。ですが、絵を見て褒めてくれていた人が、いざ描き手である私を見てがっかりしたり、気が変わって絵を手離したりする事も……これまでたくさんありました。……実はこの絵も、そういう理由で返品されたものなんです。『あんたみたいな汚ない貧乏人が描いた絵なんか欲しくない』そう言って………」


 俺は……愕然とした。


「四十路半ばも過ぎた、こんなみすぼらしい無名の私が描いていると知られたら……絵の価値を下げてしまうことにもなりますから」


「……誰が書いたとか……作者の容姿とか、そんなの絵の良し悪しには全然、関係ない事なんじゃないのか……?」

 俺は思わず、そう本音を漏らしていた。


 絵心も芸術的センスも皆無な俺でさえ、事実、彼の描いた絵には魂を揺さぶられるような衝撃を受けたのだ。これが伝わらない人間など────


 だが、実際に彼の絵に大金を積む人間には、そんな連中が多いというのだろうか……? こんな俺よりも絵の価値を解さない人間など……。


 狼狽える俺を見て、音取は静かに言葉を続けた。

「……そう思える舟さんは、とても素敵だと思います。ぼくも、そういう人にこそ……絵を受け取ってほしいと思っています。けど……」


 彼は、その先を言い淀んだ。


 ………言わんとしていることが分かった。現実は、そう都合良くはないということなのだろう。確かに俺には、大枚はたいて彼の絵を買い取ることは、できない。


 それに、もし仮に俺が分不相応な大金を手にしたとして……彼の絵にそれを支払う気持ちを保てるかどうか。

 俺が俗物であることは間違いない。いざとなったら、感覚が破綻して絵ではなく別なところへ消費意欲を向けてしまうのかもしれない。


 ……そうか。

 俺も、そいつらと同じ手合てあいかもしれないということを、改めて自覚した。先ほどまで手放しで彼の絵を褒め称えていた自分が、急に白々しく汚らしいもののように思えてきた。


「………すまねぇ。あんたの気も知らねぇで」

「いいえ……皆さんのお気持ちは嬉しいです。折角のお誘いですし、ここに飾らせていただきます」


 …………………


(後編へ続く)

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