それらすべて愛しき日々

 日曜の朝は早い。──はずがないのだ、本当は! だって、休日だよ。昼頃までのんびり眠って、それから軽くブランチを摂って、ボンヤリしたまま夕方になるのを待ち、夕食頃にやっと目がえる。これが、のはずなのだ!

「六時だぜ、おい」

 赤池章三は信じられないとつぶやいて、まくらもとにズラリと並んだ各種目覚まし時計を眺めた。

 もちろん、今は夕方の六時ではない。早朝の方の、六時である。

 六時ジャスト、一斉に鳴り出した時計を全部止めるのに、優に十五秒はかかったと章三は踏んでいた。枕元の分だけで、である。ごていねいにも、枕元の周囲のみならず、寝室のドアまで、三十センチおきに一個ずつ、一列に並べられていた。

 否が応でも、ベッドから起き出さなければならない仕組みである。

「一体何考えてんだ、親父のヤツ」

 こんな事をするのは赤池みつぞう、章三の唯一の肉親で、少々変わり種の父親以外にはありえない。

 いつの間に並べたものやら。昨夜、夜行で遅くこちらに着き、ただいまのあいさつをするのもかったるく、直ぐに部屋に上がって眠ってしまった時には、時計の一個とてなかったのに。

「おー、起きたか章三」

 ふいにドアが開いて、かの光三氏がボサボサ頭のトロリン眼で顔をのぞかせた。

「火山の爆発だってもっと静かでしょうよ。これがゴールデンウイークに久し振りに帰って来た大切な一人息子にする仕打ちですか」

「いやあ、六時にどうしても起きなきゃならんかったもんで。八時の新幹線で大阪へ行って講演するんだ」

「だったら御自分の部屋で目覚ましかけたらいいじゃないですか」

 章三はぜんと抗議した。

「だって、耳元で鳴ったら、だろう?」

 光三はそっとまゆひそめて見せる。

「うるさいから目が覚めるんでしょう!」

 なんという思考回路だ。これで現職の大学教授で、未来を担う(?)大学生に講義をしているとは。──日本の将来は、アブナイ。

「それに、一人で起きるのは寂しいじゃないか。章三、ゆうべはただいまも言いに来てくれなかっただろ」

「これはそのはらせですか」

「愛しい息子の顔も見れず、声も聞けず、ひとりぽっちの朝食なんて、虚しいだけだ……」

「おとーさん! 一体いくつになったんです!」

「四十六歳!」

 光三はやおら、胸を張った。

 いいけどね……。


 そうして結局、誰が朝食を作るのかというと。

「章三は料理の天才だね。きっと母さん似だ」

 光三はホカホカの御飯に目玉焼きの固焼きになった黄身をのせて、ガバガバ口の中へと流し込んだ。

「言っときますけど、目玉焼きは料理のうちには入りませんよ。今時、幼稚園の子供にだって作れる」

 は、少々オーバーかもしれない。

「口の中にいっぱい物を詰め込んだまましやべったって、わかりませんってば。第一、それが味わって食べてる人の態度ですか」

「あ、ひゃひゃひゃ

「帰りは?」

 光三は必死で御飯を飲み込むと、

「夕方には帰るよ。夕飯は若鶏の照り焼きと、特製オニオンスープとパイナップルのサラダと、デザートはパンプキンプディングがいいなあ」

「──何の話です?」

「そうだ、ゴールドメダルのロゼを飲もう! 二本あれば足りるかな」

 と、光三は章三を見る。

「誰が用意するんですか」

 知らず章三の声のトーンが低くなっていた。

 冗談じゃない! 意地悪な飛び石のおかげで、まとまった休みは今日を入れて三日間しかないんだぞ。しかもその三日目には学校へ戻らなけりゃならないんだぞ。やりたいことが山ほどあるんだ!

「──作って、くれないのかい?」

 途端に光三は、悲しそうに肩を落とした。「そうか、章三は父さんと一緒には夕飯を食べたくないんだ」

「あ……、いや、別に、そういうわけじゃ……」

「わかったよ、今夜は外で食事をしてくる。久々に章三の手料理を食べたいだなんて、父さんの方が我がままだったんだね。たかだか一か月会わずにいただけだってのに、父さんはなんて情けないんだ……」

 光三はうなれて、テーブルにはしまで置いてしまう。ずずっと鼻をすする音。

 ああ、もう!

「わかりましたよ! 作りますよ! ──で、他にそろえる物は?」

 光三は急にニコニコ顔になって、

「赤池章三君、ひとつ」

 とこたえた。

 章三は、溜め息。この人には、かなわない。


「父さん、ハンカチとティッシュは?」

「ポケットに入れた」

「財布は?」

「背広の内ポケット」

「他に忘れ物は? 腕時計は?」

「してる。あ、時刻表!」

 光三はダダダダと階段を駆け上がり、自分の部屋に行くとポケットサイズの時刻表を手に戻ってきた。慌ただしく靴をはき、「それじゃ、行ってくるからね」

「行ってらっしゃい」

 バタンと玄関の扉が閉まる。

「──あれ? 父さん、時刻表持ってなかったぞ」

 ふと足元を見ると、黒皮のアタッシュケースが廊下の上に坐っていた。

「あの、ドジ!」

 章三は急いでサンダルをつっかけて、外に出る。ちょうど光三が迎えに来たタクシーに乗り込むところだった。

「父さん! カバン!」

 大声で叫びながら玄関の石段を門まで降りる。

 光三はおもむろにタクシーのドアを開けると、やばい、と内心焦っているだなんておくびにも出さずに、

「あー、御苦労だった」

 のんびりアタッシュケースを受け取った。

 割と、人の目を気にするタイプなのである。

「他に忘れ物は?」

 章三がしつこくく。

かんぺきさ」

 光三はVサインを出した。

「ちゃんと大阪行きに乗ってくれよ」

「心配性だなあ、章三君は」

 誰のせいで心配性になったと思ってるんだ。

 章三は内心文句を言った。

「今度こそ、行ってらっしゃい」

「行ってきます」

 光三は言って、素早く章三のほおにキスをした。

 ──げ。

 更に素早くタクシーに乗り込んだ光三は、章三に変態親父! と叫ばれるより先に運転手をかして発車させたのだった。

「──ったく、どこで覚えたんだ、こんな気味悪いこと。外国映画じゃないんだぞ」

 章三は洋服の肩で頰をぬぐって、「あの親と血がつながっているかと思うと、生きる自信がなくなるよ」

 ぼやいて石段を玄関に戻って行った。


 赤池章三、十六歳。祠堂学院高等学校の二年生。託生君に『かがみ』とまでうたわれる、天下の風紀委員である。

 その章三君の特技が料理だということは、学校の皆には内緒にしておいてあげよう。

 加えて──。

「またこんなに洗濯物をためこんで。僕が祠堂に入学するからってせっかく自動洗濯機を買ったのに、ものぐさなんだから。スイッチポンの世界だぞ。見よ、一年以上経つのに、おろしたてのような美しさ。まだビニールかけたまま」

 章三は朝食の後片付けを済ませると、脱衣かごの中身をポンと洗濯機に放り込んだ。「──念の為」

 階段を上がり、父親の部屋に入る。

 あるある。脱ぎ散らかされた服が、ほうぼうにくしゃくしゃに丸まっていた。

「週に一度はダスキンかけろって言っといたのに」

 本当は掃除機をかけて欲しいのだが、以前スイッチを入れただけで掃除機を壊した経験が、光三に現在まで大きく影響を及ぼしていた。

「あれだけグレードを落として言い置いて行ったのに、何一つ満足にやってないんだから」

 汚れ物をカゴに入れて、章三は早速、父親の部屋の掃除にかかった。

 私生活にはものぐさなれど、研究熱心な父親である。書きかけの書類が本人にとってのみ整然と、つまり雑然と机の上に山を成していた。

 一応内容を簡単にチェックしながら、手早く整理して、またたく間に部屋が片付いていく。

 そうこうしているうちに一回目の洗濯が終わり、庭の物干し竿ざおに服をるす。

『女房に逃げられても、充分やっていけるな』

 章三の姿に目を細めた父だった。

 不吉なことを、うれしそうに言ってくれるな。

『仕方無いだろ、やり慣れちゃったんだから』

 章三が十歳の時、母親が他界した。母親が死んでしまった事のショックより、それからの不器用な父親との二人きりの生活の方が、章三にはより大きな不安だった。なにせこの父親、母が生きていた頃には、はしの上げ下ろしからやってもらっていたようなものなのだ。そこまでしてもらっていた人が、いきなり子供にしてあげるというのは、どう考えても不可能である。

 だから、より順応性の高い方が、順応していったのだ。

 そして順応していって、心にゆとりの生まれた頃、章三は母親を亡くしたことに、改めて、気がついた。

 ある日ふと、涙が止まらなくなった。

 まだまだ、甘えたい盛りの子供だったから。

 そんな章三を抱きしめてくれたのは、やはり父親だった。だから、不器用でも、ものぐさでも、章三は父親にかなわないのである。

「やっと終わった」

 仕事を全部終えて、章三がホッと息をついたのは、もう昼に近かった。「こういうことをしていると、つくづく僕は家事に合っているんだと痛感するなあ。祠堂にいる時は忘れてたけど」

 その祠堂で思い出した。

「まずい、何時だ!?」

 居間の柱時計は、十一時三十八分を指している。

「やばい、八分も過ぎちまってる」

 父親の突然の襲撃ですっかり忘れていた。

「あいつ、時間にうるさいからなあ」

 急いで身仕度を整え、かぎと財布を手に、章三は家を飛び出した。

 自転車で近くの駅までかっとばす。

 駅の時計台のふもと、あからさまにぜんとした美男子が立っていた。

「──十五分の遅刻だ、章三」

 ギイは冷ややかに言い放つ。

「悪かった。ごめん、色々と忙しかったんだ」

 下手に小細工いいわけするより、ギイの場合は素直に謝ってしまった方が良いのである。

「オレが来るのを忘れてたわけじゃないんだろうな」

 いきなり図星。

「あっはっは」

 仕方なく、章三は笑うことにした。

「笑って誤魔化すな。──ホラ」

「なんだ、この袋」

「お土産みやげ

「え……?」

「お前ンち、どっちだ?」

「山の手。その前に、商店街で買い物するんだが……」

 章三は、言いよどんでしまう。

 無造作に出された袋。中をのぞくと、数枚のレコード。薄い背に安っぽい印刷の文字が並ぶ。日本では手に入らない洋盤。以前、もう半年以上も前、ポツリと愚痴混じりにギイにこぼしたことのあるレコードのタイトルが、読み取れる。

 自分でさえが、忘れていた。

 外国に行けば手に入るだろうことぐらい、百も承知だ。でも、覚えていてくれただなんて。

 いまさらながら、ギイくんはフツーでない。

「ギイ、ありがとう」

「改まって礼を言われるほどのもんじゃないよ。向こうはレコードが安いんだ。そろえるのに半年もかかるとは思わなかったがね」

 ギイは優雅にウインクを返す。

「久々に感動したなあ」

「よし、今夜はイモの煮っころがしにしてくれよな。それと菜っ葉のしると、うおの塩焼きと大根おろし、ナスの網焼きと──」

「おいギイ、なんだそれ」

「夕食のメニューだよ。お前の煮っころがし、天下一品だからな」

 美男子は言って、ニッコリ微笑ほほえんだ。

 光三の笑顔と、比べられない章三君であった。

「僕のゴールデンウイークは、どこへ行ってしまったんだ……」


「章三君、照り焼きとパンプキンの裏ごし、できたわよ」

 明るい声と共に、幼なじみのが赤池家の台所にやって来た。

「奈美、裏ごししたのにそこのボールの中味と生クリーム混ぜて、ブランデーを二、三滴垂らして、冷蔵庫に入れてくれ」

「他には?」

「パイナップルをサイコロに切る」

「へえ、章三は奈美子ちゃんのこと、奈美って呼ぶんだ」

 応接間のソファーにくつろいでビデオを観ていたギイが、コーヒーカップを手に台所へやって来た。

 今や台所は、まるきり共通点のない二人前の夕食を作るためにごった返していた。章三の幼なじみで隣家の奈美子ちゃんは、言わばすけである。

「ね、生意気でしょ? 同い年のくせに。私はちゃんと章三君って呼んであげてるのにね」

「奈美、口動かしてる暇に手を動かす!」

「はいはい」

 ギイはぷっと噴き出した。

「それが済んだら、レタスを千切って、胡瓜きゆうりをスライスするんだからな」

「そんなにいっぺんにできないわよ」

「だから、それが済んだらって言ってるだろ」

「これが済んだら、次はパイナップルを切るの」

「減らず口」

「なによ、自分が間違えたくせに」

「そんなんじゃ嫁のもらいてがないぞ」

「大きなお世話。これでけっこうモテるんですからね。よりどりみどりよ。章三君こそ、男ばっかの学校で三年間もいると、結婚どころか、ホモになっちゃうかもしれないわよ」

 ギイが飲みかけのコーヒーをのどに詰まらせそうになった。(なんて器用なんだ。コーヒーは固体ではない)

 派手にむせ返ったギイに、奈美子が慌ててタオルを渡す。

「大丈夫?」

「ああ、ありがとう。ここにいても邪魔になるだけだから、オレは向こうでビデオの続きでも観てるよ」

 そそくさとギイが台所を去るのを、章三はニヤニヤ笑って見ていた。

「章三君、崎さんって、モデルみたいね」

 やはりギイの後ろ姿を見送りながら、奈美子が溜め息混じりに言う。「何回会っても、ステキだわ」

「ヤツは、祠堂でもピカ一の美男子だからな」

「ああいう人がやっぱり危ないのかしら」

「何が」

「上級生に襲われたりして」

やつは襲う方──おい、お前、何の本読んでるんだ? 発想が物騒になったんじゃないか?」

「章三君、エイズにかかったら、まず私に報告してね」

「なんだよそれ」

 奈美子はふふふと笑って、

「さてと、次はパイナップルのサイコロ切りね」

 ギイがアメリカ人だと教えたのが、まずかったのだろうか……。

「最近の女はおっかねえな」

 これは章三君の本心である。


 その夜、赤池家の夕食はにぎやかだった。

「おー、来ていたのかね。去年の正月以来だなあ」

 の光三の一言で、ぶたは切って落とされた。

 章三が止めるのも聞かず、ワイン片手にまあしやべること、よく食べること。光三の方はともかく、ギイは和食にワイン。──うーん。

 デザートの頃になると、奈美子が両親を連れて、差し入れ持って現れたものだから、まるでパーティー会場のようになってしまったのである。別名、飲み会。

「章三君、氷足りなくなっちゃった」

 せっせと台所でつまみを作っている章三に、奈美子が言う。

「さっき全部使っちまったから。──奈美んちの氷、あるだろ?」

「じゃ、取って来る」

 奈美子は台所のわき、勝手口でサンダルを履いた。すると、持っていたアイスペールがなぜか浮上。章三がひょいと取り上げたのだ。

「いいよ、外は暗いから僕が行って来る」

「あら、平気よ。すぐ隣りじゃない」

「いいから。替わりにそのモロキュウ、出しといてくれ」

「うん……」

 勝手口のドアがパタンと閉まっても、奈美子はしばらくそこに立っていた。

「せっかくのお休みなのに、悪いことしちゃったかな」

 庭に一杯の洗濯物。家の中もきちんと片付いていた。きっと今日一日、フル回転だったに違いない。「少しは手を抜けば良いのに、律儀なんだから」

 でも、そこが章三君の良い所よね、と奈美子は心の中で続けた。

「奈美子ちゃん、水一杯くれないか?」

 ギイが真っ赤な顔をして入って来た。

「やだ、飲みすぎじゃないの、真っ赤っかよ」

「君んとこの親父さんと章三の親父さん、すっごいザルだね。もうつきあいきれないよ」

「待ってて、冷たくないけど、いい?」

「なんでもいい、水なら」

 奈美子は適当にグラスを一つ取って、水を注いだ。ギイに手渡すと、一気に飲み干してしまう。

「──ごちそうさま、おいしかった」

「どういたしまして」

「章三は?」

「氷を取りに私の家まで」

「ふうん」

 ギイは応接間に戻るでもなく、奈美子の傍らに立っていた。

「あの、少し聞いてもいい?」

「たくさん聞いてもいいよ」

 ギイがこたえると、奈美子はくすりと笑った。

「章三君、学校でもマメなの?」

「オレたちに比べればね」

「しんどそうにしてない?」

やつはあれで、天下の風紀委員と皆におそれられているんだ」

 ギイがおどけて言うと、奈美子は肩をすくめてくすくす笑った。──ふいに、真顔になる。

「離れてしまうと、余計なことが心配になったりするのよね」

「例えば?」

「祠堂って、男の人ばかりでしょう。だから、そういう恋愛だってあるかもしれないし、ケンカだって、きっと女の子同士のネチネチチマチマしたのとは、スケールも違うと思うし、それに、丈夫そうに見えるけど、時々熱を出すのよね、風邪に弱いの」

「冬場は一か月に一度は寝込んでたな」

「そうでしょう!? ──でも、心配したって無駄なのよね。帰って来る度に、章三君がひとりで大人になってくみたいで、今も、本当は私が氷を取りに行くはずだったんだけど、暗いからって……。去年まで、そんな風に言ってくれたことなかったのに。奈美を襲うような物好きなんていないぜ、とか憎まれ口を平気でたたいてたのよ。なんだか、寂しいような気分なの。ずっと幼なじみで、ずっと同じように成長していたのに、一気にバーッと追い抜かされて、章三君ははるか前方で私を振り返っているの。私、戸惑ってしまう。追いつけないかもしれなくて、不安なの」

「そりゃ、奴は男だし、奈美子ちゃんは女性だ。並ぶってのは難しいと思うよ」

「崎さんは章三君と、いつも一緒なの?」

「──最近は、ほとんどバラバラだな。寮の部屋が別れたからね」

「そう……」

 奈美子は心配そうにうつむいてしまった。その薄い肩を優しくポンと叩いて、

「心配ないさ。奴はれっきとしたノーマルだし、エイズにもかかったりしないから」

 ギイが言った途端、奈美子が真っ赤になった。

「さっきの、聞こえちゃったの?」

「全寮制の男子校に行ってる知り合いがいると、女の子は必ず心配するんだ。ヘンな道に染まらないといいけどってね。うちの妹はオレが帰省する度に、しつこくチェックする」

「やっぱり?」

「ま、章三に限っては絶対大丈夫だよ。あいつのノーマルは筋金入りだから。第一、章三に迫ろうなんて、そんな命知らずの人間はにはいない」

「良かった」

 奈美子は心底安心したように微笑ほほえんだ。「あら、限ってって、じゃ、崎さんは?」


「おい章三、あの子を奥さんにもらうんだったら、浮気は絶対タブーだぞ」

 まくらを半分以上占領して、ギイが言った。「顔もかわいいけど、かなりカンの良い子だ」

 あの後、タイミング良く章三が戻ってきて話題が他へれたから良かったものの、ギイは何と返事したものか、迷ってしまったのである。

 ──まさか、正面切って、ただしオレがれているのは男だが、とは言えまい。奈美子の心配性に拍車がかかってしまう。

 枕の本来の持ち主は、やや押され気味に枕にしがみついていた。

「誰が奈美を嫁さんにするなんて言ったよ。ちっとは遠慮して少しそっちに詰めろ。ベッドから落ちそうなんだぞ」

 時計は真夜中の十二時を、半分回りつつあった。

「そういうことにしておけば、託生も安心する」

「なんだそりゃ。葉山がどうかしたのか?」

「どうもしないが、万が一何かあったときの予防策」

「万が一、何があるんだよ、僕とギイとで」

「──気味の悪いことを言うな。追い出すぞ」

「去年は誰もそんな事を言わなかったのに、なぜだか今年になってよくかれるんだ。崎さんは赤池さんと付き合ってるんですか、だとさ。章三が誤解されるような行動を取っているのかもなあ」

「僕は去年も今年も同じだよ」

「そうだよな。一年間同室で、オレたち、何も無かったもんな」

 あってたまるか。無言のうちに章三の眼が怒っていた。

 ここは話題を変えるのが賢明である。

「で、章三、明日はどうするんだ?」

「今日にあい通じる一日になるだろうさ。それよりギイこそどうするんだ? ゆっくりしていけるのなら……」

「東京の家に帰る。片付けなきゃならない用事が待ってるんだ」

「へえ、プライベート? それとも親父さん命令?」

「後者」

「大変だな、たまの休みだってのに多忙なことで」

「そういう章三こそ」

「──あ、そうか」

 ふたりして、くすくす笑う。

「何時の列車?」

「九時には向こうに着いていたいんだ」

「朝早いな、目覚ましかけとくか」

 章三は一つだけ残しておいた目覚まし時計を七時に合わせると(他のは全部、ぐっすり眠り込んでいる光三のまくらもとに、六時にセットしたまま並べてきた)スイッチをオンにして置いた。

「では、おやすみ、ギイ先生」

「おやすみ、章三

 言うなり、二人同時に噴き出した。


 ホームに電車が滑り込んできた。

「気をつけてな」

 章三が言うと、

「ごちそうさん。明日、学校でな」

 ギイが言った。「そうだ、これやるよ」

 ギイは手持ちのボストンバッグから、急いで茶封筒を出した。

「ロードショーのチケットじゃないか」

 章三のひとみがパッと輝く。彼は大の映画好きである。

「託生を誘うつもりだったんだが、親父関係の急用が入っちまったから。みすみすムダにすることないもんな。二枚あるから、奈美子ちゃんと行けよ」

「奈美とお?」

 章三は嫌そうにぼやく。「あんな映画オンチと行ったってなあ」

「口の割にうれしそうじゃないか」

 ギイがからかうと、

「馬鹿言ってるな! ドア、閉まるぞ」

「おっと!」

 ギイが車内に飛び込んだとほぼ同時に、電車のドアが閉じて、動きだした。

 電車はゆっくり加速して、やがて章三の視界から消えて行く。

「だいたいなあ、奈美には奈美の都合ってもんがあるんだ」

 章三は見送りながらポツリとつぶやいた。

「そう簡単に誘えるもんか」

 おおまたにホームを横切り、改札を抜ける。

「まあ、試しに誘ってみたって悪いわけじゃないが」

 駅の右側、自転車置き場に預けておいた自分の自転車にまたがる。

「昨日散々き使ったからな、特別に誘ってやるか」

 ペダルをこぐ足に、力がこもる。

「あいつもたまには映画でも観て、俳優の名前の一つくらい覚えたっていいんだ」

 町並みを山の手へ向かい、分譲地をぐるりと囲む碁盤の目のような道にはいる。

「大体、シュワルツェネッガーをスタローンと間違えるなんて、普通じゃありえないぜ」

 赤池家の門を横目に、章三はそのまま下り坂の先、奈美子の家に向かった。

 近づくと、広い庭に洗濯物を干す奈美子の姿が見えた。

「おーい、奈美!」

 坂を勢い良く下って来る自転車に章三を見つけて、奈美子が、

「おはよう!」

 と言った。「崎さん、もう帰っちゃったの?」

「今駅へ送ってきたところだ。それより、映画観にいかないか」

 庭の垣根のわきに自転車を停めて、章三はペダルに足をかけたまま奈美子に言った。

「デートに誘ってくれるの?」

 奈美子が嬉しそうに小首をかしげる。

「バーカ、誰がデートなんて言ったんだよ」

「ふふふ、待ってて、着替えしなくちゃ」

「そのままでいいだろ。乗れよ」

「嫌よ、これ、ホームウェアだもの。それにこの洗濯物、やりっ放しで行けっていうの?」

「なんでお前がやってるんだ? おばさんは?」

「二日酔いでうなってるわ。父さんに付き合って無理するから」

「ハハハ、奈美の母さん、かわいいな」

「うん。無理を承知で追いかけちゃう性格なの」

「へえ。奈美は?」

「──私?」

「おばさん似?」

 奈美子は手にしていたシーツを、パンと空に打ち据えて物干しに広げると、

「……多分ね」

 そのくせ、はっきりとこたえた。

「ね! 私も自転車で行く。章三君、玄関まで回ってくれる?」

「お前のチャリで追いつけるのか?」

 章三がからかうと、

「毎日通学で鍛えてます」

 奈美子はガッツポーズを作り、「章三君なんかに負けないんだから」

 ニッコリ笑った。


「──章三、ハンカチ持ったか? チリ紙は?」

「持ったよ」

「電車の切符、ちゃんとポケットにしまっただろうな」

 章三は無言のうちに、ジャケットのポケットから切符の端をのぞかせた。

「こづかい、足りなくないか?」

 光三が財布を取り出す。

「足りなくなったら連絡するから」

「生水は飲むんじゃないぞ」

「外国に旅行するわけじゃないんだよ」

 章三は苦笑した。

「昨日父さんが買っといたパンツ、ちゃんと入れたか?」

「入れたってば。──人前で言うなよ、そんなこと」

 章三はチラリと奈美子を見た。奈美子はあさっての方を向いて、聞こえない振りをしていてくれる。

「風邪薬と正露丸糖衣は?」

「入れました」

「それから、と……」

「父さん、今思い出したところで、ここは駅のホームだよ、取りに戻れるわけじゃないんだから」

「しかしなあ」

 どうやら、心配性は章三だけではないらしい。しみじみ、親子だ。

 その時、章三の乗る電車のアナウンスが流れた。

 奈美子が弾かれたように章三を見上げる。

「章三、週末には必ず電話連絡するんだぞ」

「わかってるよ、欠かしたことないだろ」

 発車を告げるベルがホームに鳴り響く。これが鳴り止むとドアが閉まる合図のブザーが鳴って、電車は行ってしまうのだ。

 何か言いたげなくせに黙ったままの奈美子に、

「奈美、元気でな!」

 けたたましいベルに負けじと、章三が大声で言った。

「しょ、章三君こそ。これ、あげる。じゃあね!」

 ドアが閉まってしまうより先に奈美子は明るく手を振ると、くるりときびすを返し、どんどん階段へと歩いて行った。

「おや、奈美子ちゃん、急用トイレかな?」

 デリカシーのない光三のセリフは無視して、

「父さんこそ、あんまりおじさんと飲み過ぎるなよ」

 ベルが鳴り止む。そして、ブザー。

 厚い電車のドアが、大きな振動を伴ってガタンと閉まった。

 見送ったり見送られたり、出迎えたり出迎えられたり、駅は出会いと別れの繰り返しだ。

「いつものことなのに、慣れないな」

 ホームに小さくなって行く父親のシルエットをポツンと眺めていたが、章三はやがて思い出したように、グリーン車両に入って行った。

 短かった三日間。主婦業ばかりで多忙な三日だったが、それでもやっぱり『ゴールデンウイー』だった。

 人気の少ないグリーン車両にすわって人心地ついてから、章三は奈美子に手渡された白い封筒に気がついた。

「あいつ、何くれたんだろう」

 中を開けると、手紙と百度のテレフォンカードが二枚、入っていた。

『章三君へ。

 週に一度の超長距離電話は、経済的に大変でしょうから、昨日の映画のお礼に、テレフォンカードをプレゼントします。寂しがり屋のおじさんに、せっせとラブコールしてあげてください。──それで、もし、度数が残っているようだったら、たまには幼なじみの声も聞いてやって下さい。

 くれぐれも、身体には気をつけて。

  P.S. 崎さんに、色々とありがとうと伝えておいてください。

奈美子』

「ギイに? 色々と? !?」


 その夜、ギイと再会した章三が、出会い頭、いきなりウエスタンラリアートをくらわせたのは、託生君が証人である。もちろん、その後、とっくみあいのケンカに発展したかどうかは、書くまでも、ない。

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