タクミくんシリーズ

ごとうしのぶ

タクミくんシリーズ そして春風にささやいて

そして春風にささやいて

 四月、快晴、日曜日。

 ぼくは半分、気分が良かった。

「日曜に入寮なんて、サギだよなあ」

 一面の桜吹雪。粉雪みたいにうす桃色の花びらがヒラヒラと舞い降る中、『どう学院前』というバス停から校門まで、まっすぐに長く続く桜並木を、かたくらとしひさはひょろ長い体を少し前屈みにして、ぶらぶらと歩いていた。ぱんぱんに膨らんだボストンバッグも、大柄な利久が持つと軽々という印象だ。「な、そう思うだろう、たくィ」

 利久は隣りを歩くぼくに同意を求める。いや、この場合は同情だ。

「たいしたことないじゃないか」

 ぼくはずしりと重いボストンを、右手左手と交互に持ち替えながら、「春休みは例年分きちんとあったんだから。それとも今年は入寮日が日曜にぶつかる、いっそ一日繰り上げて土曜日に、なんて方が良かったかい?」

 途端に利久は不服そうな顔をした。

「意地悪言うんだな、託生は」

 ぼくはまゆを上げて、

「そうだね」

 気のない返事をした。

 だって、ぼくは利久みたいに、一日でも少ないと惜しいほど楽しい春休みを過ごしていたわけじゃないからね。

 久しぶりに帰ってきた息子に、相変わらずれ物にでも触るように接した両親。自分たちの負い目を一気に埋めようとして、あの手この手とサービスしてくれた。──無理なのに、長い間干渉されないことに慣れていたぼくには、降っていたできあいが煩わしいだけなのに。

 あれから年月だけは流れたけれど、結局、何も変わっていないんだ。彼らも、ぼくも。

 今年もぼくは兄の墓参りに行けそうにない。もう、三年もの月日が経とうとしているのにね。

「冷たいんだよ、託生は」

 利久はむすっとして、「ちっとは、ああ可哀かわいそうだね利久くん、よしよし、なんて慰めてくれたっていいだろー」

 上からぼくを睨みつけた。利久は優に百八十センチ以上ある長身で、それなりにがっしりした体格をしていた。片やぼくは百七十ちょっとの中肉中背。十センチの身長差とこの体格の差に、本来ならばかなりの威圧を感ずるものなのに。

「ぼくは幼稚園のじゃないんだよ。第一、今年で十七にもなろうって大の高校生が、いまさらそんなことを言われたいのかい」

「言われたい!」

「あのね……」

 マジだよ、こいつ。「祠堂じゅうで利久だけそうだっていうのなら、まだ話は別だけどね、今回のは同情の余地なし」

「冷血漢」

 利久はギロリと目をむいた。──の割に迫力に欠けるのは、やはりひょうひょうとした顔の造りと、ぷくりとほおを膨らませて、ねてますと顔中に書いてあるせいだ。

「まだあったね、利久」

 ぼくは、面白半分に続けた。「無感動、無関心、人間嫌い、潔癖症、雑木林に自律神経、etc、etc。よくまあ、たった一年の間に、こんなにもたくさんのあだをつけてもらったものだと、我ながら感心しちゃうよ」

「やめろよ!」

 利久が焦って遮った。「やめろよ、自分で言うなよ、そんなこと。──ごめん、冷血漢だなんて、仮に冗談でも言っちまって」

「気にしてないよ」

 そう、気にしてなんかないさ。他人に理解されないことには、ずっと昔から慣れているんだ。いまさら陰口たたかれて、それが何だというのだ。それでもぼくは、ぼく以外にはなれないのだから。「それに、利久に悪気があったわけじゃないしね」

「でもごめん。他に言いようがあったのにな」

「もういいよ」

「ごめんな、託生」

 利久は本当に済まなそうに、もう一度謝った。ボサッとして粗野っぽい外見とまるきり裏腹な、デリケートな神経を持つ利久。だから去年、一年間、ぼくは同じ寮の部屋で、ぬくぬくと暮らせたのだ。本来ならばとても集団生活には適応できない欠陥だらけのぼくを、こまごまとフォローしてくれた。利久なりに。

「しつこい男は嫌われるぞ、利久くん」

 ぼくは軽く笑って、まだしょんぼりしている利久のわきを抜けると、校門へと歩を早めた。


 ここ、祠堂学院高等学校は、人里離れた山の中腹にポツンと、それも斜面にへばりつくように建っている、全寮制の男子校である。創設が昭和ひとケタという歴史と、ぐるりを雑木林に囲まれて(れっきとした私有林である)この美事な桜並木ともども、自然の豊かさという点では、国内のどの高校にもひけをとらないだろう。

 昔は、それこそ、良家の令息しか学べなかったのだろうが、現在では一般庶民がわんさと机を並べている。もっとも、学費は他校より幾分高いそうだけれど。

 似たようなボストンバッグを持った新二、三年生がゾロゾロと登校していく流れにのって、久々の再会に元気なあいさつがとびかっていた。

 けれど、ぼくにかかる声はない。──片倉利久くらいなものか。

 そのくせ、興味に満ちた視線だけは、いつもしつようにまとわりついてくる。

 ぼくが、やま託生、だから。

 何事にせよ、反応が他の多数と異なれば、無条件で個の存在が目立つのは道理だが、人にはそれを好意で迎えられる場合と、逆と、ある。

 少なくともぼくは、前者ではなかった。

 これだけ疎外感にさいなまれて、我ながらよく退学しないものだ。

『──葉山は自己表現がド下手だな』

 ふいに、ギイに言われたセリフがよみがえった。

 ギイ、ことさきいち。ぼくはギクリとして──あんまり唐突に図星をさされたので──あきれるほどギイを凝視してしまったものだ。

 昨年、入学してすぐの、昼休みだった。

 ぼくの異質さを『変人』ではなくて『自己表現が下手だ』と評したのは、後にも先にもギイひとりだった。医師ですら、心そのものが屈折していると診断したのだ。でも、誰よりぼくは、ぼくを理解していた。ぼくは、心のままに行動するすべを、誰にも教えてもらわなかっただけなのだ。むしろ、感じたことを包み隠し、何もなかったように振る舞うことだけ、身につけていた。

 無感動、無関心、冷血漢。──そう取られても、否定はできない。

 いつまで経っても、うんともすんともこたえないぼくに、ギイはひょいと肩をすくめると、先にグランドへサッカーしに出た級友たちを追いかけて行った。

 そして、それきり。

 ギイとは一年間同じクラスだったけれど、それ以後も親しく口をきいたことはなかったし、そんな機会もなく、ましてや彼は、ぼくから気安く話しかけられる存在ではなかった。

 入学してすぐ、既に彼はクラスの中心的存在で、皆から一目も二目も置かれていた人物だったのだ。ぼくとは好対照である。

 何をしても許されるギイ。常に物事が裏目に出るぼく。

 不条理だ、と思う。──でも、だからどうだというのではない。

 ギイとぼくとでは、住む世界が初めから違うのだ。ギイのようになりたいと望むのは愚かなことで、あきらめるのには慣れていた。

「待てよ託生、怒っちゃった?」

 利久が小走りに追いかけてきた。──まだ気にしてる。

「怒ってないよ」

 全く、利久みたいな気の優しい男が、こんなぼくと親しいだなんて、世の中の巡り合わせなんてわからないものだ。

「本当に?」

「本当さ。今年も同じクラスだといいね」

 ぼくが言うと、利久はパッと満面笑顔で、

「うん、おれもそう思う!」

 力強く応えた。

 と、その時だった。

 ドン、と誰かがぼくの背後からぶつかってきた。そしてよろけるように数歩前に進むと、奇妙なほど派手に転んだのだった。

「な、何するんだよ!」

 転んだ当人が叫んだ。茶色い巻き毛の、随分きれいな顔立ちの小柄な男の子だ。胸の校章は赤、同じ二年生である。

「大丈夫かたかばやし、どうしたんだ!?」

 まるで大事件かの如く、二人の学生が血相変えて駆け寄って、その子を抱き起こした。

 ──高林? ああ、高林いずみ。うちの学年で、一番と評判だった子だ。上級生のみならず、同級生にまで、お姫様ならぬ王子様扱いを受けていると耳にしたことがある。

 その高林泉はびっくりまなこのような大きなひとみを、更に大きく見開いて、キッとぼくを睨みつけるなり、

「そいつ、僕にぶつかってきて、謝りもしないんだ!」

 はっきりぼくを指差した。

 え……?

「何だってぇ!?」

 男のトーンが一オクターブ跳ね上がった。

「てめえ、図々しい野郎だな! ちゃんと高林に謝れよ! あーあ、クリーニングしたての制服がまっ黒けになっちまったじゃねえか。弁償するんだろうな!」

「託生、どうなってるんだ?」

 利久がぼうぜんとしてく。訊かれても、ぼくは何とこたえていいのかわからなかった。ぶつかってきたのはあっちなのだ。──どうなっているのだろう。

 しかし、どうなっていようとも、状況はぼくに不利に展開していた。

 登校中の学生は足を止め、ぼくたち四人を囲んで、すっかり人垣ができあがっていた。高林泉には同情の視線が、非難の視線は、当然ぼくだけに注がれている。

「またかよ。新学期早々だぜ」

 誰かのヒソヒソ話が耳をかすめた。

「謝れってんのが聞こえねえのかよ、このヤロー!」

 男がドスの利いた声で怒鳴りつけた。こっちを小馬鹿にしたような、得意げな言い方だった。

 だらしなく開いたブレザーの前、だらんと垂れたネクタイ。まるで、できそこないのヤクザみたいだ。それも、下っ端の。

 よくわからないけれど、謝れというのなら謝ってしまおう。それで事が済むのなら、十分だ。

 そう決めて口を開こうとすると、

「随分と威勢が良いじゃないか、やましたきよひこ

 低い、冷静な声が辺りに響いた。

 ぼくたちを囲む輪の中から、一人の学生がこちらに歩いて来た。

あかいけしようぞう

 チッと舌打ちして、山下清彦がその名をつぶやいた。──まずいやつとでくわしたという表情が、ありありとみてとれる。

「僕の見ていた限りでは、葉山君が高林君にぶつかったとは到底見えなかったんだがね。前を歩いてたのは葉山君の方だ。つまり、むしろ──」

 赤池章三はチラリと高林泉を見た。

 同じ二年生とはとても信じ難い落ち着きと、冷ややかな物言いが特徴の赤池章三。やはり昨年同じクラスで、彼はギイの親友だった。

「なんだい、赤池君はあんな奴の肩を持つのかい」

 高林泉はあざけるようにふふんと鼻を鳴らして、ぼくをあごでしゃくった。

「僕は誰の肩も持たない。見ていたままを言っただけだ」

「僕を誰だと思ってるのさ!」

「高林泉君だろう」

 高林泉の魅力が赤池章三には何の効果もないとわかると、高林泉はぐっと詰まって、いきなりクルリときびすを返し、人垣を強引にき分けて行ってしまった。

 残された山下が慌てて高林泉のボストンを拾い、

「畜生、覚えてろよ!」

 それこそヤクザの捨てきまりゼリフもんくを吐いて、後を追った。

 興をそがれて、人垣がバラバラに散ってゆく。少し、決まり悪そうに。

「くだらない茶番だ。しよせんあの程度だがな」

 赤池章三は誰へともなしに呟いて、ぼくに振り返った。「おい、身に覚えのないことは断固として認めるものじゃないんだぜ、葉山託生。馬鹿をみるのはあんただよ、世間知らずだな」

 サラリとしんらつなセリフを吐いてくれる。

「はあ……」

「自分に降りかかる火の粉を、たまには払ってみたらどうだ」

 赤池章三は言い残し、さっさと校門に消えてしまった。

「相変わらずきついやつだなあ」

 利久が溜め息混じりに言った。「火の粉がどうとか、訳のわからんこと言って、なあ」

「そうだね」

「しかし助けてもらったのは事実だ。危うく無実の罪をせられるところだったんだもんな。後で礼を言っといた方がいいぜ」

「──そうだね」

 ぼくはあいづちを打って、でもそうするつもりは毛頭なかった。

 助けてくれなくたって、良かったのだ。ありがたいなどと、これっぽっちも感じてなかった。誤解されたままだって、目をつむってやりすごせるならば、ぼくはそうする。

 反論にどれほどの価値があるというのだろう。頭上に火の粉が降りかかってきたら、止むまで浴びていればいい。

 そう、ぼくは身につけてしまった。──訂正するには、もう遅いんだ。

「なあ、託生」

 校門をくぐって、クラスと寮の部屋割りが掲示されている前庭にさしかかると、利久がやけに神妙に呼んだ。

「なんだい」

「今度の同室のやつ、寮の部屋のさ、そいつ、託生のことわかってくれるやつだといいな」

「え?」

 ぼくが当惑して利久を見上げると、利久はふいに破顔して、

「だってさあ、俺と今年も同室なんて絶対にありえないもんな。見聞を広めるとか理屈をこねて、一度一緒になった人とは同室にさせないなんて寮則の方が、絶対にりようけんが狭いと思うね」

 明るい口調と裏腹な、心配そうな利久の目。

「託生、人に触られるの、今でも嫌なんだろう?」

 ぼくは黙って、目を伏せた。


 案の定、利久とは寮もクラスもまるきり別々だった。

 ぼくの新しいクラスは二─D。(ちなみに利久は二─Bである。発音は少し似ているのだが)寮のルームナンバーは三〇五。

 ノックもなしにドアを開けて、ぼくはギョッとした。

「失礼、部屋を間違えました」

「間違いじゃないよ、葉山君」

 赤池章三!!

「さ、さきほどはどうも」

 彼と一年間、一緒なのか!?

「こちらこそ。でしゃばりは僕の本意じゃないんだが、祠堂にはおせっかい好きな男がいるからね。きみもそう思うだろ?」

「は?」

 何の話だろう。

 赤池章三はまるでぼくが入って来るのを待っていたかのように、一杯に開けた窓のさんに、ドアを向いて腰掛けていた。

「いつまでも突っ立ってないで、せめて荷物を下に置いたらどうだい。重たいだろう」

 親切に言う。──彼はぼくなんかと同室でいいんだろうか。

 とりあえず足元の床にボストンバッグを置いて、ぼくはあれ? と思った。

 今思い出してみると、あの光景は妙だった。あの時、赤池章三が高林泉と山下清彦をやりこめた時、彼は手に

 そして手ぶらのまま、校門に消えて行ったのだ。

 ということは、荷物を部屋に置いた後、ということになる。だったらどうして、彼はあの時、あそこに居合わせたのだろう。

「あの、赤池君……」

「葉山君、独断で悪いけれど、左側の机とタンスとベッドを使ってくれないか」

「それはかまわないけれど、あの……」

「了解がとれれば、それでOK。それだけまえって断わっといてくれと頼まれたんだ。それから──」

 赤池章三はトンと桟から下りると、ふいにぼくの髪に触れようとした。「イテッ!!」

 手の甲を押さえて、赤池章三がうめいた。

 ぼくは全身総毛立っていた。口唇をぎゅっとみしめて、据えるように赤池章三を睨みつける。体がわなわなと震えていた。実際、机につかまっていなければ、坐り込んでしまいそうだった。

「ふむ」

 赤池章三は手をさすりさすり、「この反応も依然変わらず、だ」

「どういうつもりだよ!」

「きみのが健在かどうか、確かめてくれと頼まれたんだ。かんぺきに健在だね」

「誰に! そもそも人間ナントカって何だよ!」

「二─Dの級長。そいつが葉山君のことを人間接触嫌悪症だと言っていた」

「級長が何だって言うんだよ! ぼくがどうだって、クラスには関係ないだろう!」

「それが大ありなんだな。そいつがきみのルームメイト、崎義一」

「え…………?」

 ぼくは絶句してしまった。「ルームメイトって、赤池君じゃなく、て……?」

「僕は担任に呼ばれたギイの代理だよ。きみの嫌がることをわざとしたのは悪かったけれど、こいつはちと過剰防衛じゃないのかな」

 手の甲に、赤くくっきり、ぼくの手形が浮いている。「全く、僕に損な役ばかりさせるんだ、あいつは」

「そいつは済まなかったな、章三」

 ぼくと赤池章三はギクリとした。当のギイが、開けっ放しのドアの抜けた空間に、腕を組んで立っていた。

「おや、お帰りギイ。用件は済んだのかい?」

 赤池章三は白々しく微笑ほほえんだ。

「そっちこそ、済んだのならさっさと引き上げろ」

 ギイはかなり不機嫌そうだ。

「はいはい」

 赤池章三は素早く部屋を出ると、すれ違いざま、いきなりギイの背中をバチンとひっぱたいた。「これで貸し借りナシだ。じゃあな」

 逃げるように走り去る。

 ギイは痛いでなく、憎らしそうにそれを目で追っていたが、やがてぼくに向き直った。

 久しぶりに会ったギイは、この春休みにまた一段と大人っぽくなって、ほおの辺りの少年っぽさが抜けきったようだった。整った、並びだ。きれいな。

 彼が人望を集める、それ以外に、なぜか同性にモテるというのも、高林泉の場合とはまた別に、わかる気がする。

 ぼくは机へ体を支える腕に、ぐっと力を込めた。

 ギイは後ろ手にドアを閉めると、

「春休み、どうだった」

 ふいに、いた。

「べ、別に。──長かったけど」

 答になっていない。

 体の震えがまだ止まらない。さっきのショックが残っているから、だけではないと、ぼくは気づいていた。

「別に何もなかった?」

「何も」

「本当に?」

「うん」

「へえ……」

 ギイは意外そうに目を見開いた。日本人にしては彫りの深い顔。ひとみの色が透けるような淡い茶色だ。それもそのはず、ギイは四分の一だけフランス人の血が流れるクォーターなのだ。そのくせ、アメリカ生まれのアメリカ育ち。去年、アメリカから祠堂学院に入学してきた。

 ギイに関する情報だけは、世情に疎いぼくでさえも、そこかしこで耳にした。──でも、知っているのはそこまでだ。

「崎君は、アメリカ帰ってたんだって?」

「ギイでいい」

 ぼくは口をつぐんでしまった。ギイ、と慣れ慣れしく呼ぶには、きっと相当時間がかかる。

「それはそうと、今朝は大変だったそうだね、託生」

 ぼくはドキリとした。心臓が止まってしまいそうだ。──託生、呼び捨て。

「高林は人形みたいな顔してて、けっこうワルなんだ。気をつけた方がいいぞ」

 ギイの言葉が上の空だ。──鼓動が速い。

 いきなり名前を呼び捨てなんて、ルール違反だ、ギイ。

 ギイはぼくがあきらめていたものを呼び起こしてしまう。可能性という単語を、思い出させてしまう。

 あの日、たった一言のギイのセリフが、ひょっとしてこの人ならぼくを真実理解してくれるかもしれないという甘い期待をくすぐるのだ。理解されないことに慣れているぼくが、望みを持ちそうになる。

 それは危険だと、心の奥深く、信号が点滅していた。

「託生、顔色が悪い。そんなに震えて、寒いのか?」

 ギイが心配そうに近づいてくる。

「違う」

 大きくかぶりを振りながら、ぼくは反射的にあと退ずさって、ベッドのへりにぶつかり、惨めにもそのままベッドに倒れこんでしまった。

 ギイはまっすぐ窓に行き、音をたてないように窓を閉めた。

 四月とはいえ、やまあいの冷えた空気がピタリとやんだ。まるで、今まで吹きっさらしになっていた人々の冷たい風を、ギイが止めてしまったみたいに。

「医務室で風邪薬をもらってくるよ。しばらく横になってた方がいい」

 ギイは言うと、ぼくの返事も待たずに部屋を後にした。

 ──どうしよう。

 心が乱れている。ギイの親切を、誤解してしまいそうだった。

 違う。あんな風にぼくにでも気軽に声をかけてきてくれたギイだもの、彼は誰に対しても、わけへだてなく接するタイプなのだ。友人を大切にして、だから誰からも好かれるのだ。ぼくは一年間、否応なしに一緒に暮らすルームメイトだから、ギイは無理して気を使ってくれているのだ。皆から鼻つまみもののぼくが相手ですら、彼は人間関係に波風たてたりせずに、誠意で接してくれる人なのだ。

 ──ぼくは何度も何度も、そう心の中で繰り返した。

 他人の好意に慣れていないから、誤解してしまうのが恐ろしかった。

りに選って、どうしてギイと同室なんだ」

 ぼくはシーツをギュッと握りしめた。「最悪だよ……」


 なんとなく、食欲がなかった。昼食が学生食堂に用意されているはずだけれど、ぼくは後ろめたさなど何もないのに、人目を避けるようにして、校舎わきの学生ホールに来ていた。

 授業のある平日はともかく、休日や、特に今日みたいな登校日などは、ここまでわざわざやって来る学生は少なかった。学生ホールは寮から、やけにだだっ広いグランドを隔てた先の校舎の、そのまた向こう側にあるのだ。

 紙コップのコーヒーを一口すすって、安物のソファーにもたれた。窓際の席、雑木林がはるか眼下に広がっている。緑が目に快かった。

 午前中だけの動揺で、半年分はありそうだ。これから一年間もギイと同室で、一体どうすればいいのだろう。おそらくギイは、もぬけのカラの部屋を見て憤慨するだろう。人の親切を無にする失敬なやつだと思ってくれたら、その方が楽だ。

 利久がぼくに心を砕いてくれるのと、ギイが心を砕いてくれるのとでは、あまりに差がありすぎる。光栄の痛みなのだ。(至り、の間違いではない。念の為)

 ぼくはもう一口、コーヒーを飲んだ。

「苦いや」

 キイときしみをたてて、ホールの横開きのサッシの扉が引かれた。つられて、なんとはなしにそっちを見る。青いバッジ、三年生。どこかでみたことある顔だ。

 その顔はホールをキョロキョロ見回して、ぼくに気づくと、やっとみつけたぞといわんばかりにニッコリ笑った。

 ──なんなんだ?

「やあ、ここ、いいかな?」

 ぼくはこれみよがしに周囲を巡らして、

「他に席があいてますよ」

 とこたえた。なんたって、席は点々としか埋まってないのだから。

「誰か来る?」

 そういう問題ではない。

「他に席があいてます」

 聞こえなかったのだろうか。

「誰も来ないなら、失礼するよ」

 三年生はちゃっかり、ぼくの前に坐った。まるで掛け金の少ない保険のセールスマンみたいだ。(やたらしつこくて、図々しい)

「楽しいうわさが流れてるんだけど、その分じゃ何も知らないみたいだね」

 その人が言った。

「噂ですか?」

 ぼくが噂話に疎い、という噂を、この人は知らないのだろうか。と、ぼくが知ってるほど、有名なのに。

「そうさ。──僕を知ってるかい?」

「残念ながら」

 ぼくはそっぽを向いて、ガブリとコーヒーを飲んだ。消化不良をおこしそうな甘ったるい二枚目に、知り合いはいない。

「僕はざきだいすけ、バスケット部の主将。──まさか、知らなくはないだろう」

 そういう言い方をされると、全然知りません、と応えたくなる。が、

「ああ、思い出した。知ってますよ」

 運悪く思い出してしまった。「去年のインターハイで全国準優勝したんでしたっけ」

「今年は優勝する」

「あ、そうですか」

 どうぞご勝手に。──自信も『過剰』が付くと白けるものだ。

「葉山君と僕がつきあってるって噂は?」

 ぼくはコーヒーを噴き出しそうになった。

「な、なんですか、それ」

「という噂がまことしやかに春休み中に広まったのさ」

 ──別に何もなかった? 本当に?

 ギイ、何度も念押ししたのは、そのせいか。

 しかし、アメリカに帰ってたギイが噂を知ってて、渦中の人であるぼくがまるきり知らなかったのは、あまりに不公平だ。

 どうりで、今朝やけに視線が気になったわけだ。いつもよりずっと興味津々風だった。

「迷惑かけて済みませんね」

 ぼくは言った。「放っておけばそのうち消えますよ」

 人の噂も七十五日。祠堂じゃせいぜい二週間てとこだ。

「迷惑だなんてとんでもない」

 野崎大介は甘ったるいマスクをとろけるような笑顔で包むと、(ぼくはケーキよりおせんべいの方が好きだ!)「葉山君とは以前から親しくなりたかったんだ。誰が流したかはわからないが、僕はむしろ感謝しているよ」

「そうですか」

 悪趣味ですね、野崎さん。そう続けそうになり、慌てて口を噤む。何もそこまで卑下することはないのだ。

「これを機会にひょうたんからこまねらっているんだが、どうかな」

「どうかなって、何がですか」

「鈍いね……」

 野崎大介の手がぼくの方へ伸びてくる。ぼくは思いきり、その手をひっぱたいていた。

「冗談じゃない!」

 ぼくは肩を怒らせて、早足でグランドを歩いていた。「人間接触嫌悪症じゃなくたって、あの場合は一発お見舞いするさ!」

 しかし、ギイは実にうまく命名したものだ。人間接触嫌悪症なんて、まるでれっきとした病名みたいだ。

 もっともぼくのは病気じゃなく、必要に迫られて生じた条件反射と称した方が相応ふさわしかったが。

「この分じゃ結婚もできそうにないな」

 好きな女の子だっていたのに。まだどっちも小学生だったけれど、漠然と結婚とか家庭とかのイメージを持っていて、ハタチになったらケッコンしようね、なんて心ときめかせていた。まだ何も知らない頃。事の善悪もわからず、美しい夢をためらいなく描き、自分は幸福になれるのだと信じきっていた頃。

 野崎大介、ニヤけた二枚目だった。他の人にどんなに人気があっても、ぼくはごめんだ。

「おかげで行く所がなくなっちゃったじゃないか!」

 ぼくは人影皆無のグランドのど真ん中で叫んだ。全く、踏んだりったりってのは、今日のことだ。


「託生、もっと力を入れて持ち上げろよ、動かないじゃんか」

「そ、そんなこと言ったって、全力だぜ」

「だらしねえ……」

 半ばけいべつの眼差しで利久がタンスの陰からぼくを見た。「もう一度いくぞ、よいせっ!」

「手伝ってやってるのはぼくなんだぞ」

「なんか言ったか?」

「いいや! よいしょっ!!」

 体格の差は体力の差。しかもあちらは運動部。鍛え方が違うのだ。

「はー、やっと落ち着いた。ありがとよ」

 タンスが希望の位置におさまると、利久はやれやれと額の汗をぬぐいながら、ベッドに腰掛けた。

「なにもわざわざ動かすことないのに」

 ぼくは机とセットのに坐りながら、利久に言った。顔が熱い。

「この方が使いやすいんだ」

 利久は笑って、「のど、乾いただろ。学食でコーラ買ってくるよ。託生はコーヒー?」

「うん」

「じゃ、待っててくれ」

 利久は身軽に立ち上がって部屋を出た。

「タフだねー」

 感心してしまう。ぼくはといえばぐったりして、あれがぼくのだったら、本当はベッドに寝転がりたかった。「それともぼくに体力がなさすぎるのかな」

 結局ぼくは、利久の部屋に来ていた。利久と同室であるいわしたまさ君が、交通事情で入寮が一日遅れるので(彼は伊豆、初島の住人なのだ。海が荒れて連絡船が出ないんだそうだ。陸にさえ着けば、ここまで半日かからないのに)利久は一人で奮闘していた。

 この配置を岩下政史君が気に入らなかったら、どうするのだろうか。

「お待たせ」

 利久はものの三分と経たぬうちに戻って来た。

「ほい、コーヒー」

「ありがと」

 もちろん、これはおごりだろう。

「託生ィ、ささかまぼこ食べるか、笹かま」

「は?」

 利久はボストンのチャックをあけると、ビニール袋にどっさり詰まった笹かまぼこをぼくに見せた。

「お袋がさ、みんなで食べろってうるさかったんだ」

「おいしそうだね」

「自家製だぜ」

 利久は得意げに言った。「託生ンちのお母さんも休み明けに、あれ持ってけこれ持ってけってうるさいだろ? うちも家に帰るたんびにこうだもんな、遠足や修学旅行じゃないってのに、参っちゃうぜ」

 どこが。──と、反論したくなるような笑顔だ。

「タマゴボーロだったら部屋にあるよ」

 ぼくが言うと、利久はキョトンとした。

「タマゴボーロ? それって、赤ンボの食べる、あれ?」

「そ」

 ──託生ちゃん、好きだったものね。つぶれないように一番上に入れておいたわよ。

 幼児はみんなタマゴボーロが好きなんだよ、お母さん。ぼくが、じゃない。

「うーん、懐かしい味覚だ」

「食べたかったら取ってきていいよ」

「今は遠盧しとく」

 ──だろうね。

 利久はニヤニヤ笑って、袋の縛り目を解きにかかった。

「利久、お姉さんがいたよね」

「美人だぜ、おれと似てない」

「お姉さんって、いい?」

「何が?」

「存在がさ」

「んー?」

 利久は手を止めて考え込んだ。「どうかなあ。あいつ、口うるさいかんなあ。家にいた頃なんか、朝、顔合わせると、やれ髪がボサボサだの、靴が磨いてないだのひげり残しまでみっともないとか文句言われて、夜帰ってくれば宿題やったかの風呂入れだの、洗濯物出したかだの、母親と錯覚してるんじゃないか?」

「へえ」

「イイ年してまだ嫁にもいかないし」

「いくつ?」

「二十二」

「まだ若いじゃないか」

「若いもんかー。見場の良いうちにいかないと、絶対いき損なうぜ。あいつ、顔はともかく、性格悪いかんなあー」

「と利久が言ってたと、手紙に書いちゃおう」

 利久がうっと詰まった。次に、ふたりして大笑い。

「それだけは勘弁な、今度帰った時に殺されちまうぜ。──どうぞ」

「どうも」

 ぼくには、ささかまぼこの焼き跡ひとつひとつが、みんな利久へのお母さんの暖かい愛情みたいに思えた。「うまいね」

「だろ? 母さんの笹かまは絶品だかんな」

 ぼくが誉めると、利久は無邪気に喜んだ。


 トントン、とノックの音がした。

 うたたねをしていたぼくは、机からハッと上体を起こした。

「どうぞ」

 誰だろう。

「片倉君、悪いけどちょっと手伝……あ、失礼」

 よしざわみちはぼくに気づくと、ぽっとほおあからめた。「あの、片倉君は?」

「さっき弓道部の先輩に呼ばれて、──十分くらいで戻ると言ってたから、じき帰ってきますよ」

「そうですか、それじゃ」

 行ってしまおうとする。

「ぼくでよければ手伝うけど」

 吉沢道雄は利久と同じ弓道部員で、廊下ですれ違うときにあいさつする程度の仲だった。さっき彼が頰を紅らめたのはぼくに気があるのではなく、非常にシャイな人だから。

「葉山君だと無理じゃないかな……」

「肉体労働?」

「ベッドとタンスの位置を入れ替えたいんだ」

「きみも配置にうるさいのかい?」

 類は友を呼ぶのだろうか。

「いや、僕じゃなくて……」

 吉沢道雄は言葉を濁した。「いいんだ、それじゃ」

「戻って来たら伝えるよ、部屋はどこ?」

 吉沢道雄は更に頰を紅らめて、

「隣りなんだ」

 ポツリとこたえた。

「──ひでえ、ぐちゃぐちゃ」

 利久は隣りを訪問するなり、言った。荷物が部屋中にはんらんしている。「これじゃあ、足の踏み場もないじゃんか」

 部屋には吉沢道雄しかいなかった。

「同室の人は?」

 ぼくがくと、吉沢道雄は静かに苦笑した。

「誰だよ同室。これ、吉沢の荷物じゃないだろう」

「うん……」

 困ったようにうつむいてしまう。「勝手がわからないから、どう片付けていいのか、わからないんだ」

「そんなの、本人にやらせりゃいいんだよ」

 利久が珍しく、本気でぜんとして言った。

「でも頼まれちゃったから」

「吉沢はお人好しだかんなー」

 と言って、利久は早速片付けにかかった。

 やはり、類は友を呼んでいるのだ。ここはぼくも便乗する。

 ふいに、ドアが開いた。

「なんだ、まだ終わってないの?」

 愛らしい声が、あきれたように響いた。あんまり堂々と言うので、ぼくたちは一瞬、謝ってしまいそうだった。

「あ──っ!」

 突然、利久が叫んだ。机の下で、散らばった新品のノートを集めていたぼくは、下からい出て、ぜんとしてしまった。

 目が合うと、途端に向こうも露骨に嫌な顔をした。

 高林泉。──成る程ね。

「早くしてよね!」

 高林泉はぼくと利久を無視して吉沢道雄へ吐き捨てるように言うと、バタンとドアを閉めて出て行った。

「待てよ、この…!」

「やめてくれよ、片倉君!」

 追いかけようとする利久を、吉沢道雄が必死で止めた。「いいんだ。迷惑かけてごめんね、片倉君、ごめんね」

「なんで吉沢が謝るんだよ」

「ごめん……」

 利久は不満げながらも、

「わかったよ! ワガママなやつなんか放っといて、さっさとやっつけちまおうぜ!」

 クルリと踵を返した。

「恋は盲目、か」

「託生、なにブツブツ言ってんだよ、手伝えっ!!」

 やつあたりはやめてほしい。


「明日の始業式、気が重いぜー」

 利久は昼間と打って変わった、心細そうな表情で、夕食のカレーライスをスプーンでぐちゃぐちゃにかきまわした。

「汚いから、利久、やめろよそれ。イマジネーションが刺激される」

「だって……」

 利久はぼやいて、よけいにカレーをぐちゃぐちゃにした。今の利久にはぼくの忠告を聞き入れる余裕などいのだ。

 寮に隣接した学食は、夕食のラッシュを迎えていた。入学式が明後日なので、一学年分少ないはずなのに、この混みよう。

「サギだよ、サギ」

 朝のぼやきが復活している。「俺のいないすきに決めるなんて、きようだよな」

 と言っても隙をねらったのではない。たまたま、利久が吉沢道雄の、いや、高林泉の荷物を片付けていた時に、利久のクラスの面々で級長を決めていただけなのだ。それも、

「あみだだって?」

「そーっ! いい加減な方法!」

 つまり、消去法なわけだ。他のメンバーが次々に選び、それが全部スカ。ひとり残った利久は、故に大当たり。

「でも皆が認めてくれたのなら、いいじゃないか。やり直しはなかったんだろ?」

「俺、去年、衛生委員を前期やっただけなんだぞ。クラスをまとめる力なんかあるもんか!」

 利久はふんぞり返った。──偉そうにできる問題ではないと思うのだがね。

「やってみなけりゃわからないだろう?」

 ぼくが尋ねると、

「やらなくたってわかるさ。俺は託生ンとこのギイと違うんだぜ」

 利久は大口あけて、パクリとカレーにかみついた。ギイと聞いただけで、心臓がドキリと鳴る。──これはかなり重症だ。

 せっかく昼間のドタバタで忘れていたのに。もっとも、夕食が済めば否応なしに御対面! なのだが。

うわさをすれば、だぜ」

 利久が学食の入り口に目をった。ギイが赤池章三と連れだって入って来たところだった。

 さりげない視線がふたりに集まっている。ああいう風に人目をくのなら、悪い気分じゃないのだろうに。

「やあ、また会えたね、葉山君」

 頭上で甘ったるい声が響いた。

 やばい。──いつの間に現れてくれたんだ!?

「隣り、いいだろ」

 しごく当然のように、野崎大介は利久の反対側の席へ腰を下ろした。

 利久が、あ、と口をあける。──む。こいつ、知ってたな。どうして今朝教えてくれなかったんだ。

「託生君、クラシック好きだったよね」

 野崎大介がのぞき込んできた。とっさに、顔を背ける。

 知らないうちに、葉山君が託生君へと変化していた。ギイの場合と違って、どうにもこちらの変化には、いやらしさを感じる。

「ええ、まあ」

 そばに寄らないでほしい。いくら何でも、こんな公衆の面前でひっぱたきたくはないですよ。

 ──懲りない人だなあ。

「今月の末の日曜日、街の文化センターでのコンサートがあるんだ。これ、チケット。奮発したんだぜ」

 テーブルに滑らされたチケットに、一列目とある。オーケストラの演奏を最前列で聴けっていうのか? ──もう。

「せっかくですけれど、ぼくにはこれをいただく理由がありません」

「託生君にはなくても僕にはあるんだ。デートの申し込みだよ」

 利久がギョッとして、から腰を浮かした。

「男のぼくにデートですか?」

祠堂ここじゃ、普通だ」

 馬鹿言え。うわさの数ほど真実があるわけじゃないんだよ。

「託生、行こうぜ」

 利久がトレイを持って促した。

 立ち上がろうとすると、

「行くんだったらきみひとりで行きたまえ」

 野崎大介がぴしりと言った。さすがに三年生、しかもバスケの主将だけに迫力がある。利久はトレイを手にしたまま、立ち尽くしてしまった。

「託生君、お互いわかりあうには時間と機会が必要だ。特別どうこういうわけじゃない。ただ単に、一緒にオーケストラを聴かないかと誘っているだけだ。断わる理由はないね?」

 疑問文のくせに、肯定してる。

「随分と強引なんですね」

 ぼくは差し出されたチケットに目もくれなかった。「でも、大切な部活動があるんじゃないですか? 今年は優勝するんでしたよね」

「その大切な時間を、きみのために割くんだ」

 野崎大介は、テーブルに指を組んで、に寄り掛かった。どこかの重役のポーズみたいだ。

「わかった。優勝できそうにないんで、ぼくを使って言い訳するんでしょう」

 ぼくが言うと、野崎大介はガバッと体を起こした。

「それに、スポーツマンは音楽音痴ばかりだから、一緒に行っても面白くないんですよ」

 みるみる野崎大介の形相が変わる。

「野崎さんは典型的なスポーツマンだし、デリケートなクラシック音楽が理解できるとは到底……」

「お、おい、託生」

 言い過ぎだよ、と小声で利久が言った。

 かまうものか。

「き、きみは僕を侮辱するのか?」

「とんでもない。心配してるだけですよ。一番前の席でいねむりでもされたら、白い目で見られるのはこっちなんですから」

「きさま……!」

 言うが早いか、野崎大介は荒々しく椅子を後ろにっとばして立ち上がり、たっぷりと熱いカレーのつがれた皿をぼくめがけて投げつけた。

 きつく目をつむって、ぼくは上半身を野崎大介の反対側へ大きく背けた。とっさに全身で左手をかばいながら。

 ガシャーンと皿が床に砕けた。石造りの学食にわんわんと響き渡る音。カレーのにおいがプンと広がり、ざわざわした学食が一瞬、水を打ったようにシンと静まりかえった。

 けれど、どこも熱くない。

 ──変だ。

 ぼくはそっと目を開けて、愕然としてしまった。

 青冷めた野崎大介が、ストップモーショシをかけられたみたいに、皿を投げた恰好のまま、凍ったように立ち竦んでいる。その正面に、怒りを秘めた眼で野崎大介をえ、制服の片袖へとカレーを浴びたギイが、すっくと立っていた。

「バスケの主将のくせに、随分とコントロールがいいんだな」

「こ、こんなはずじゃ……」

「こんなはずもあんなはずもねえだろ、あんた、オレの制服、どうしてくれるんだ」

「クリーニング代は支払う」

「あたりまえだ!」

 ギイは今までに見たことのない、厳しい表情をしていた。「あんたの脳ミソ、腐ってんじゃねえか!? よく考えて行動しろ! これが制服の上だったからまだしも、直接頭からかぶってたら、間違いなくやけどを負ってたぞ! たかがカレーだと甘くかかるな! いい年して、その程度の分別もつかないのか!」

 野崎大介は忙しく左右に目を走らせて、

「こ、この場は、な?」

 満面の愛想笑いで、ポンポンギイの肩をたたいた。

「責任を取るってんならいいさ」

 ギイは意外にもあっさり承知して、「外に出ろよ」

 野崎大介を学食の外へ連れ出した。

 ふたりの姿がドアに消えると、息をんで事の成り行きを凝視していた学生たちに、ざわめきが戻ってきた。

「すっげえ迫力、ギイ、三年生に意見したぜ」

 感心しきって利久が唸った。「ますますハクがついたって感じだな」

 ギイ、ぼくをチラリともみなかった。あのギイが、カレーの目標がぼくだと気づかぬはずがない。

「しかし、これの後始末は誰がするんだろう。汚した張本人がいなくなった場合は、放っといていいのかなあ。──なあ託生?」

 ふと、カウンターでトレイを受け取る列に並ぶ赤池章三が目に映った。顔をドアに向けたまま、やれやれというように片口だけゆがめて笑っていた。

「──祠堂にはおせっかい好きな男がいるからね。つきあいきれないぜ」

 ひょっとして、ギイのこと?

「おい託生、聞いてんのか?」

「利久、それ片づけといて」

「俺がーっ!? ──え? あ、おい、託生!」

 ぼくは学食を飛び出した。

 ああ、そうだ。今ほどぼくの鈍感がうらめしいことはない。ギイはぼくを。どうして、どうやってかばってくれたのかはわからないけれど、でも、どこをどう考えたって、ロングシュートじゃあるまいし、隣りに皿を投げるのに、そうそうコントロールが狂うものじゃない。まがりなりにも、野崎大介はバスケの主将だ。

 六時を既に回っていたので、外はすっかりやみに包まれていた。見回したけれど、ギイたちの姿はどこにもない。

「寮に行ったのかな」

 ぼくは学食からほんの十数メートル先の寮へと走って行った。

 鼓動が速い。走ってるから、だけじゃない。

 ギイは誰にも──いや、赤池章三を除いて──悟られずに、ぼくを庇ってくれた。赤池章三がおせっかい好きと評していたのがギイならば、今朝の一件にギイが絡んでいたことになる。絡むどころか、赤池章三をさしむけたのがギイってことだ。

「でも、どうして?」

 どうしてだろう。ぼくにはギイにそこまでしてもらうほどの理由がない。

「葉山託生さん」

 ふいに呼ばれて、ぼくはあれ、と立ち止まった。けれど辺りに人影がない。

「空耳だったかな」

「葉山さん、こっちです」

 ガサリとわきの茂みが揺れた。暗くてよくわからないけれど、誰かが立ち上がったようだった。

「崎義一さんのことでお話があるんですげど」

「崎君のことで?」

 何だろう。

 茂みに一歩を踏み出した時だった。ガツンと鈍い音がして、首の後ろに激痛が走った。目の前がチカチカッと光り、風景が奇妙にゆらいだ。

 足の力が抜ける。よろけて、何かにつかまろうと伸ばした手は、ただ空を泳いだだけだった。

 ──ギイ……。

 もうろうと薄れていく意識の中、遠くで誰かがぼくを呼んでいるような気がしていた。


「つう……っ!」

 突き刺すような痛みに、ぼくは意識を取り戻した。首から肩にかけて、鈍く、重く、痛みが残っている。

 殴られたのだ。まるで、テレビのサスペンスドラマみたいだ。でもドラマじゃきっと、形だけで、本当に殴ったりしないんだろう。

 現実は不利だ。

 目を開けると、辺りはまっ暗だった。古い朽ちた木材の、独特なにおいがしている。

 ここはどこだろう。手足は自由だけれど、殴られたことからして、あまりステキな場所にいるとは、まず考えられない。

 空気は冷たい。床も冷たい。ただ、ぼくの左上半身だけがほんわりと暖かかった。まるで、誰かにもたれているように心地良い。

「痛むか?」

「うん、か──」

 かなり、とこたえようとして、ぼくは絶句した。

「やっと気がついたな。死んだようにぐったりしてたんで、心配したよ。──良かった」

 え? え? え? この声、ギイ!?

 ギイはぼくの肩へ腕を回すと、そっと力を込めて抱き寄せた。や、否や、背筋にいきなり悪寒が駆け抜けた。

 次の瞬間、ぼくは力一杯、ギイを突き飛ばしていたのだった。

 ゴチン、と堅い音がして、

「イテテテテッ!!」

 ギイが悲鳴をあげた。

「あっ! ごめんなさい!!」

「謝るくらいだったら突き飛ばすなよ。ひどいやつだ」

 くらやみの向こうでギイが苦笑していた。「まあ、それだけ元気なら心配ないか」

「ごめんなさい、ごめんなさい」

 とっても痛そうな音だった。

「もういいよ。人間接触嫌悪症の託生に触ったオレが悪いんだから」

 嫌味でなくて、ギイが本心からそう言っているのがわかる。

 不思議だ、姿が見えないって、別のものが見えてくるんだね。

「オレはともかく、まだ首、痛むかい?」

「平気、です」

「そうか……」

 ギイがほっと息をつく。ぼくもつられて、息を吐いた。いつの間にか、緊張していた。でも、気の重い緊張じゃない。むしろ……。

「そういえば、ここ、どこなんですか」

「音楽堂」

「音楽堂って、あの?」

「そう、あの、うわさには聞くが誰も使ったことがないって建物さ」

 目がやみに慣れてくると、成る程、文化センターの大会議室ほどの広さの部屋の中央に、古びたグランドピアノが置かれていた。ピアノをぐるりと囲んでながが並び、部屋の隅には壊れた机や椅子が山積みになっている。

 当時の流行か音響効果を考慮したのかは定かでないが、音楽堂には窓という窓がなく、天井のすぐ下に小さな明かり採りが数か所つけられているだけだった。建てられた当時はモダンだったのだろうが、なんといっても昭和ひとケタの建築物なので方々が痛み、近年ますます老朽化が進んだので、数年前から全く使用されていなかった。おまけにここは、グランドを隔てた校舎を遥か遠く眺めるほどの外れにある。しかも雑木林のまっただなか。雑草だって、はびこり放題。──とんでもない所に入れられたものだ。

 窓からの脱出は不可能。老朽化とはいえ、人間の力で壊れるような壁ではない。たった一つある、天井まで届きそうな両開きの扉は、体当りしたって開きそうになかった。

 でも、どうしてギイがここにいるのだろうか。

「えっと、愚問かもしれないけど」

 ぼくが話しかけると、ギイは暗闇の中で耳を傾けるように上体を起こした。その彼の背後に、グランドピアノの太い脚。──あれにぶつかったのか!?

 痛い、だろうなあ。

 ぼくはギイに迷惑かけてばかりいる。そもそも同室になったこと、そしてカレーの一件。でもまさか、ぼくをかばってくれるだなんて想像もつかなかったんだ。ギイにそんな義理はないはずだから。

「愚問がどうしたって? しやべり始めてから急に黙りこくるなよ、託生」

「あ、ごめん」

 おまけに謝ってばっかりだ。「ぼくたち、ここに閉じ込められているんだよね」

「ドアが開かないから、そうなんだろう」

 ギイはのんびりとこたえた。

「それから、どうして崎君がここにいるんだい? それにどうしてぼくが襲わ……あ、そうか」

 覚えてろよ!

 山下清彦の捨てゼリフ。

「でも、ふたりも閉じ込めるのに、ひとりじゃ無理だ」

「何ブツブツ言ってんだ」

 ギイが四つんいになって、こっちにやって来る気配がした。ぼくは反射的に後ずさり、壁にぶつかる。どうしよう、逃げられない。

「ひ、ひとりでやるのは無理だろうって!」

 ぼくは大声で叫んだ。

「へ?」

 ギイはキョトンとして、「さっきからわけのわからんやつだなあ。ひとりで納得してないで、順序だててキチンと話せよ。オレが会話に加われん」

「えっと、だから、山下君が」

「ああ」

 ギイはポンと手を打った。「成る程、わかった」

 ──わかった? 今ので?

「つまり、オレたちを閉じ込めたのは、山下ひとりじゃないってんだろ?」

 本当にわかってる。ナンテカンノイイヒトダロウ。

「それから崎君がここにいる理由がわからない」

 まだある、ギイ。

でいいよ」

 ギイは苦笑した。「理由は簡単。寮から戻ってきた時に託生が殴られてるのを目撃して、助けに入ったら逆にやられちまっただけさ」

「きみが?」

 信じられない。「去年、札つきの上級生三人をひとりでのしちゃった話、知ってる」

「残念ながら、敵さんが全部で四人だったんだ。三人だったら良かったんだけどね」

 ギイはまるで冗談みたいに言う。それともホンキでジョークを言っているのだろうか。──こんな時に?

「あの、それと、野崎さんの、あれ……」

「ああ、ヤツからはしっかりクリーニング代をいただいたさ。部屋で着替えも済ませたし、一件落着」

「そうじゃなくて、──そういえば、カレーのにおい、しないね」

「オレのジャケット、ヤンキーズのスタジャンだぜ」

 ギイが得意げに言う。

「暗くて見えない」

 と言ってしまってから、ぼくはやばいと気がついた。

「そうか、ではよくみえるようにしてあげよう」

 一度は動きを止めたギイが、再び近づいてくる。困るのだ、こっちに来られると。

 どうしよう、鼓動が速い。

「そ、それより、ここを出ること考えなくちゃ」

「出られないよ。古いくせにあの扉は頑丈でな、椅子で叩いても体当たりをくらわせても、ビクともしなかった」

 ギイの動きで、ぼくを包む空気が大きく乱れる。声が息を伴ってぼくに届いた。ギイ、目の前にいる。──これ以上、退がれないのに。

「でも、閉じ込められたままじゃ、ここで餓死しちゃう。夕飯、途中だったんだ」

「オレはまだ一口も食べてない」

「それならなおさら脱出を……」

「こんな工作をしたのは、高林泉の親衛隊の馬鹿者どもだ。──逃げるな」

 ダン! と、壁が叫んだ。ギイはぼくのりようわきへと両腕を突いた。これでは

 やみの中なのに、ギイの表情がはっきりと見える。まっすぐにぼくを据える目。ぼくは、俯いた。

「崎君、腕を、どけて」

 声が震えている。──わかってしまうだろうか。

「託生が今朝、やつらに嫌がらせをされたのは、オレのせいだ」

「え……?」

 まさか。

「オレが託生を好きだと、高林が知ったからなんだ」

 ぼくは耳を疑った。ショックが大きすぎて、何て言われたのか、まるきりわからない。

「高林がオレとつきあいたいと言ってきたのは、かなり前だった。でもオレは、何とも思ってない奴とはつきあえない。それが男でも女でも。どこでどんなひように知ったのかはわからないが、高林は、オレが託生を好きだと知っていた。だからこの春休みに、託生と野崎のくだらないうわさを流し、野崎のバカをたきつけ、おまけに今朝の茶番だ。新学期になったら、何か託生にちょっかい出すだろうと警戒してたら、案の定ってとこだ」

「だから、赤池君が……」

「本当はオレが守りたかった。──逃げるな!」

 だって、ギイ、とんでもないセリフを言うんだもの。ぼくは今まで、誰にも守りたかったなんて言われたこと、ないんだ。

「でも、でも崎君、ぼくなんかより高林君の方が顔もきれいだし、人気もあるし、病気はないし──」

「馬鹿言え!」

 ドン! と顔の真横で壁がたたかれた。ビクリと体が竦む。

「いいか、よく聞けよ。オレは、託生が好きなんだ。お前以外の誰でもない。オレはここで餓死しようと凍死しようとかまやしない。夕飯なんかクソくらえだ。──後悔したくないんだ、託生が好きだ」

 ギイの顔が近づいてくる。

 ぼくは全身がしたように、動けなかった。ギイの息が口唇にかかる。

「好きだ……」

 枯れたようなささやきが甘い息になって、合わされる口唇からそっとれた。

 ギイの両腕が壁から離れ、ゆっくりとぼくを包み込む。強い腕の力。みかけよりずっとたくましいんだね、ギイ。

「オレを嫌いじゃ、ないだろう?」

 口唇が離れると、ギイが心配そうに尋ねた。

 あこがれていたよ、たまらなく。

「嫌いじゃ、ないよな」

 ギイは言って、もう一度ぼくにキスをした。


「──外の音が何も聞こえてこないってのはぶきみだな」

 ギイはぼくから一人分おいて向こうへ、ひざを抱いて、座っていた。チラリと横目でぼくを見て、「済まなかったな」

 ポツリと謝る。

「いいんだ、これは単なる条件反射なんだから」

 ぼくは精一杯にこやかに笑って、でも体はガチガチだった。必至の所でひっぱたきはしなかったものの、二度目のキスで発病してしまったぼくの嫌悪症を、ギイは離れることで治そうとしてくれていた。

 優しいんだね、ギイ。

「それより崎君、これからどうするんだい?」

「そうだな」

 ギイはあごに親指を押しつけて、じっと空間を睨みつけた。「せっかく相思相愛になったんだから、死ぬのはもったいないな」

 不覚にも、ぼくはくすりと笑ってしまった。

 まるでこの情況を楽しんでいるみたいだね、ギイ。ギイといると、何もかも、簡単に解決してしまいそうな気がするよ。

「笑うと、変わんないんだな」

 ふと、ギイが微笑ほほえんだ。

「え?」

「今、何時だ。──九時か、学食は閉まっちまったな。託生、人間の肉声とピアノの音と、どっちが遠くまで届くもんだ?」

 話題転換が早い。思考がついていけないよ。

「えっと、最も響く声でも三百メートルとかいうけれど、一般人じゃ百メートルも届けばすごいんじゃないかな」

「ピアノは?」

「──少なくとも、ぼくの声よりは」

「じゃ、決まりだ」

 ギイはひょいと立ち上がると、中央のグランドピアノへ向かった。

「決まりって、何が?」

 ぼくも慌てて後に続く。

「お、かぎがかかってる。託生、これなんとかなるか?」

 ギイはピアノのふたにある鍵穴をのぞき込んだ。

「鍵がかかってちゃ、開かないよ」

「託生なら、鍵なしでもあけられるだろ」

 ──……?

「オレはあの窓をたたき壊すから、その間にピアノの方、頼むぞ」

 ギイはウインクして、行ってしまった。

 ギイ、どういうつもりだろう。

 ぼくはグランドピアノを前に、立ち尽くしていた。

 もう何年もピアノに触っていない。もともと副産物として習っていただけで、習うのを辞めてから、それこそ祠堂に入学してからは、一度たりとて、ピアノの半径一メートル以内に近づいてだっていない。ましてや、ピアノが弾ける素振りをぼくは一度だって見せてないはずだ。なのに、ギイはぼくがピアノに関わったことがあると、まるで知っていたかのように言った。──どうして?

 だが、今はそれをうんぬんしている場合じゃない。幸いぼくは制服のままだ。

 ブレザーの胸ポケットから学生手帳を出すと、硬い表紙を鍵穴のすぐ下、蓋とピアノ本体とのすきに差し入れると、力を込めて右へスライドさせた。

 カタン、と重いごたえと共に、かぎかつの鍵が外れる。

 ぼくがグランドピアノの蓋を開けるのをじっと見ていたギイは、さわやかな笑顔を投げて──正直ぼくはドキリとした。明かり採りかられる月の光に映えて、それはとてもステキな笑顔だったのだ──ながで足場を固めて、その上に乗ると、力任せに一人掛けの椅子を明かり採りへとぶっつけた。

 派手に割れるガラス。ギイは次々に窓を破り、そしてぼくの傍にやって来た。

「準備完了。託生、何を弾いてくれる?」


 それはほとんど、曲と呼べるような代物ではなかった。指が動かないのと、ピアノが湿気を吸いきって、キイが重いというよりは、押したあと、戻ってくるのに、えらく時間がかかるのだ。

 でも、この音が寮に届くのだろうか。万一届いても、誰か気がついてくれるだろうか。

「──どうした?」

 ふいに止んだピアノに、ギイがいた。「疲れたかい?」

「そうじゃない」

 もう三十分近く、昔覚えの曲を弾いていたけれど、外になんの変化もなかった。おまけに、明かり採りからは、凍えるような冷たい山の風が吹きおろしてくる。

あきらめるのか」

 ギイはサラリと、ぼくの心を突いてきた。

 ──鋭いんだね、ギイ。本人ですら形にならない感情を難無く言葉にして。

「もし」

 ぼくはけんばんに両手を組んだ。「この音を聞きつけたのが親衛隊の方だったら?」

やつらが動けば、章三も気がつく」

 突いて、でもギイの口調は、ぼくを責めない。

「誰も気づいてくれなかったら? 赤池君だって八方ふさがりだ」

「どのみち、連中は動くよ」

 ギイは当然の如く、口にする。「誰かが動けば、オレたちは助かる」

「わかるもんか」

 ぼくは知らず、いらいらしていた。「知らんふりして一晩過ごしてしまえば、祠堂の夜は冷えるんだ、明日の朝には凍死体がふたつ、ここに転がってるかもしれない」

「だから弾かないのか」

 ギイはあきれて腕を組んだ。「オレたちを凍死させようなんて、いくら奴らでも考えやしないよ。そこまでの度胸があるもんか。せいぜい、二人をここに閉じ込めておけば、寒さに耐えかねて、裸で暖めあうだろうなんて事を期待している程度さ。第一、連中は動かないわけにはいかないんだ」

「どうしてさ!」

 ぼくは両手にぐっと力を込めた。「どうしてだよ! さっきから何でもわかったような言い方ばかりして! ぼくのことも、──知ったかぶりはやめてくれよ! 何も知らないくせに! 知っちゃいないくせに!」

「託生」

「どうせぼくは世間に疎いさ! 自分で嫌になるほど、情報も遅いよ! きみのことも他の同級生のことも、なんにも知っちゃいない! でも、きみだって何も知っちゃいないじゃないか! 何もかもわかった風に言うのはやめてくれよ! 苛々するんだ! ぼくに干渉するな!」

「託生、疲れてるんなら休んでいい」

「違う!」

「──寒いなら、これを着てろよ。肩を冷やすといけないからな」

 ギイはスタジャンを脱いで、ぼくの肩にかけた。「少しはいいぜ」

 ギイ、セーター一枚きりだ。──ああ、ギイ。

「寒くなんか、ない」

 ぼくはスタジャンをギイに返した。「そうじゃない、ごめん、──ごめん、やつあたりして……」

「いいさ、神経がたかぶってるんだよ。急に災難に巻き込まれちまったんだから、無理ないさ。──本当に、寒くないか?」

「時々、自分でも自分を持て余してしまうんだ。これはぼくの心なのに、ちっとも自由にならない」

 かなわぬ望み。望んだぼくが悪いのか? それとも、叶わなかったことが悪かったのか?

 ただ、愛されたかっただけだ。他の皆なと同じように。ただ、それだけだったのに。特別なことじゃない。子供は皆な、そうだ。ギイ、あきらめれば、全てうまくカタがついたのだ。ぼくさえ諦めれば、何もかも。

「誰でもそうだよ」

 ギイが言った。

 ぼくは弾かれるように、ギイを見上げた。

「誰でも?」

 誰でも……?

「オレだって、ままならないことにはいらいらしちまう。失敗も、後悔することもある。だが諦めたら、それこそおしまい、なんだ。THE END。後がい。そうだろ?」

 ギイはぼくの目をしっかりとみつめて、ふわりと微笑ほほえんだ。

 なんて優しく笑うんだろう、ギイ。

 わがままが、わがままの封が溶けてしまいそうだよ。

「おしまいで、よかった」

 ぼくの視界で、ギイがゆらりとゆがんだ。「諦めた方が楽だよ、ギイ」

 声が震えて、かすれてしまう。でも、と、否定が熱くのどを焼いて、駆け上がってくる。

 でも、諦めたくない。本当は諦めたくなかった。ただ、諦めずにいるには、どうしたらいいのか、わからなかったんだ。誰も教えてくれなかった。簡単なことだったのかもしれないけれど、でも、誰もぼくを抱き留めてくれなかった。──ギイ。

 ギイは、ぼくの無言の訴えを読み取ったように、大きく頷くと、

「そうだね」

 屈んで、ぼくを力一杯抱きしめた。「そうだね、託生」

 子供をあやす母親のように、ギイはぼくの髪をでる。何度も何度も、撫でてくれる。ギイの手の暖かさが、魔法を解くじゆもんのように、徐々にぼくの心を甘やかに溶かしてゆく。

 ──ここはなんて、居心地が良いのだろう。

「託生……」

 ギイがそっと呼ぶ。ぼくは目を閉じたまま、口唇にギイの息を感じた。

 と、突然、ドンドンと激しく扉がたたかれた。

 ギイとぼくは、ハッとして、扉の方を振り返った。


「学校のを何だと思っているのかね、きみたちは。悪ふざけにも限度がある。ここは鬼ごっこをする場所ではないんだ」

 生徒指導部のしま先生から、きついおしかりの一撃をいただいたのは、それから一時間と経っていなかった。

「しかしですね、今回の場合は人命が。それにふたりは被害者の方で……」

 間に割って入った担任が助け船を出そうとするが、

「理由はどうあれ、損傷に違いはない。遊びゲームが高じた結果ならなおさらだ」

 島田先生は、あくまでシビアである。島田先生は、ぼくとギイと、そして少し離れて立つ赤池章三を順々に眺めると、「それなりの処置は覚悟してもらう、いいね」

 そう宣告して、雑木林の林道を、職員寮へと引き返していった。

「待ってください、島田先生!」

 未練がましく、全力疾走で担任が追いかける。さすが、我らの担任!

「足元が暗いですよ! 懐中電灯をどうぞ!」

 ──ぼくたちの不利な立場は、不動に終わった。

「参ったね」

 ギイは苦笑して、「いきなり大御所がおでましとはな」

 ズボンのポケットに両手をつっこんで、散ったガラスの破片をばした。破片はくらやみを飛び、カサリと小さく茂みを揺らした。

 音楽堂は表で見ると、中にいるよりずっとひなびた感じだった。室内の騒然さは、さながらオカルト映画並で、はっきり言って、おっかない。

「仕方ないさ、音楽堂のかぎは島田先生が保管しておられるんだから」

 赤池章三は慰めるでもなく言った。「あれ? ということは、連中、どうやって鍵をかけたんだろうね」

じゃねえよ」

 ギイは言って、扉の前の、半円形のポーチに腰掛けた。

「成る程ね」

 赤池章三はニヤリと笑い、ギイの向こうに腰掛ける。

 駆けつけてくれたのは、やはり赤池章三だった。

「ギイいなくなったのには、いささか驚いたぜ」

 開口一番、彼はそう言った。そしてぼくに視線を移し、「まさか祠堂で名曲アルバムが聴けるとはね。おしまいから二曲目、今度はもっと上等のピアノで弾いてくれよ」

 ひょうひょうとしやべる。その赤池章三は、この寒さの中、赤い顔をしていた。多分、広い祠堂のめぼしき場所を、くまなくあたってくれたのだろう。

 ギイ、友人にも恵まれているんだね。

 風が、前髪を揺らした。

「寮に帰らないのかい?」

 ぼくはギイのスタジャンで首まですっぽり包んで、いた。寒さは大の苦手である。ギイは得意だと自慢した。その証拠に、セーター一枚のくせに平然としている。

「少しつきあえよ」

 ギイは言って、ぼくを手招きした。促されるままに腰を降ろす。赤池章三がギイの肩越しにチラリとぼくを見て、

「そんなに接近して、大丈夫かい」

 本気で心配そうに尋ねた。

「章三、一人分あけてってのが、オレと託生の安全な至近距離なんだぜ」

 な、とギイが同意を求める。ぼくは曖昧に頷いた。

「へえ、大発見だ。おめでとさん、これで一年間、うまくやれるコツがつかめたじゃないか」

 赤池章三はからかうようにあははと笑った。

「ところで」

 急にトーンがマジになる。「ギイ、どう始末をつける」

「高林泉はこの件にタッチしてないね」

「まさか!」

「あいつが関わってて、オレと託生を一緒に閉じ込めるのか?」

「──ふむ」

「それより、島田先生、何か言ってたか」

「とりたてて。一応、ゲームがいきすぎたんだって説明してあるからさ」

「賢明だ」

 ギイはひざほおづえをついた。「本気で閉じ込めるのと、冗談とじゃ、処罰もダンチだからな」

「ちょっと待ってよ」

 ぼくはびっくりして、言った。「それじゃ、まるでむこうの罪を、わざわざ軽くしてあげたってことじゃないか」

「そうだよ」

 ギイはあっさり認める。

「ぼくは殴られたんだよ!」

 痛かったんだ、ものすごく。「崎君だって、やられたんじゃないか!」

「本気じゃなかったんだぜ」

「しかもふい打ちなんて、きようだよ!」

「山下たちも切羽つまってたのさ。現に、殴られはしたものの、縛るでもなく、見張りをつけるでもなかったじゃないか」

「どうしてそんなに、むこうの肩を持つんだい」

 ぼくには納得できない。

 ギイはひょいと肩を竦めると、

「知ってるか、ってのは辛いんだぜ」

 と言った。「託生、あいつらはオレたちに危害を加えたかったわけじゃないんだよ。私刑リンチじゃないんだ。そりゃ、多少は今朝の件のはらせがしたかったってのは含まれるんだろうけれど、結局は高林泉なんだ。高林に、オレをあきらめさせたいんだよ」

「理解できない」

 ぼくは言った。

「だから、やつらの本音は高林の希望とは相反するものなんだ。山下だって、不本意ながら高林の命令を聞いたに過ぎないんだ。あいつらはあくまで、なんだ。高林を、好きなんだ。それでどうして、進んで高林とオレとの仲をとりもつ協力をすると思う?」

「したじゃないか」

 今朝の嫌がらせは事実だ。ぼくが殴られたのも事実だ。「たまたま、崎君がぼくが襲われた時に通りかかってくれたからこうなったけれど、そうでなければ──」

「弱ったな……」

 ギイはあごに手をあてた。長い指で口唇を抑えて、──それが妙にサマになる。昔観た、モノトーンの映画の、外国の俳優みたいだ。タイトルも、俳優の名前も、おぼえてはいないけれど。

「ま、いいか」

 ギイは気楽にポンとひざたたいた。「事がおもてになれば、山下あたりは即刻退学処分になりかねないからな。恩を売っとくのも一利だ」

「では、放っときますか、級長」

 章三が面白そうに言う。すると、ギイはやおら背筋をぴんと伸ばすなり、

「何もかも、自分の思いどおりになんて、この世の中なるもんか。人をワナにかけようと工作すれば、いつか報いがくるもんだ。──わかったか!!」

 突然、ギイがガラスをった辺りの茂みが大きくざわついた。

「───!!」

 ぼくは全身硬直したように、動けなくなった。オカルトは、いや、オカルトも、苦手である。

「章三、逃げるぞ、追え!」

 赤池章三は──さすが相棒だ──合図とほとんど同時に走り出していた。もちろん、既にギイもポーチにはいない。

「待て、こいつめ!」

 人影が三つどもえになって、木々の間をうねる。

「嫌だ! 離せよ!」

 聞き憶えのある声。──あ。

「高林泉!?」

 ぼくは思わず叫んでしまってから、慌てて両手で口をふさいだ。

 くさむらに、赤池章三におさえつけられた恰好で、高林泉は仰向けに転がっていた。さっきの叫びに、ぼくをギロリと睨みつける。挑戦的な、そのくせ、どこか悲しそうな目だった。

「あそこで何してた」

 ギイの声は冷ややかだ。

「さすがギイだね、よくわかったじゃない」

 高林泉はふてぶてしくこたえる。「どけよ、赤池章三。いつまでのっかってる気さ。それとも僕の上は居心地がいいかい」

 赤池章三はあきれたように高林泉を眺めて、

「男じゃねえ……」

 と、どいた。

 ──さりげないけれど、随分と過激な会話だったと、ぼくはかなり後になって気づいたのである。いやはや。

「ギイこそ、あいつとふたりっきりで、何してたのさ」

 高林泉は服の汚れを払いながら立ち上がる。「──何もなかったわけじゃ、なさそうだよね」

 高林泉の視線は、ぼくの着ているギイのスタジャンにぴたりと止まっていた。

「関係ないだろ」

 ギイは無味乾燥に言い放つ。

 まるで、目の前で閉店のシャッターを降ろされてしまった客のように、高林泉はえもいわれぬ表情で、ギイを見上げた。

「とりつくしまもない、というのはこの事だね」

 しそうに片口をゆがめる。「いっつもそうだ、ギイ。冷たいヤツだよ。人の心を傷つけて、まるきり平気でいる。それどころか、傷つくのはそっちの勝手だとでも言いたげだ」

「今朝の件は水に流してやる。今夜の件もそうだ。山下たちにそう伝えとけ」

 ギイの整った顔。整っているだけに、無表情だと、仮面のようだ。ただそれだけなのに、たじろいでしまう迫力がある。「──ただし、これ以後、託生にちょっかい出すようなことがあれば、話は別だ」

 高林泉は、ふんと鼻を鳴らしただけだった。ズボンのポケットに手持ちに手を入れて、ギイと赤池章三のわきを抜けると、ぶらぶらぼくの方へ歩いて来る。

「なあ、葉山託生君」

 高林泉は、長めの前髪を煩わしそうに頭を振って上げると、「ギイのガードだったら、耐火金庫よりは安全だろうね」

 のんびりと歩いて、ぼくに数歩手前まで来ると、ポケットから手を抜いた。

 月の光に、彼の大きく振り上げた手の先が鋭く光る。

 ──え!?

「高林!」

 ギイが飛び出した。

 額に熱く線が走った。

 高林泉の、涙いっぱいの目。

 ──それでも僕は、ギイが好きなんだ。お前なんかに、お前なんかに!

 もう一度振り上げられた腕。遮るように、真横から人影が高林泉をはじきとばした。

 ドサリと、小柄な体はあっけなく倒れる。傍らに立つのっぽの人影は、肩で荒く息をしていた。りようわきできつく拳を握りしめ、

「馬鹿野郎!」

 叫ぶなり、高林泉の胸ぐらをぐいとつかむと、周囲にパーンと響き渡る平手をくらわせた。

 ギイと赤池章三はぜんとして突っ立っている。

 ぼくも、額のケガも忘れ、じっと凝視してしまった。──信じられない。

「まさか……」

 でも、そうだ。

 は全身を小刻みに震わせて、

「謝れよ、高林君、葉山君に謝るんだ!」

 あの吉沢道雄? 本当に? しかし、この状況下でも名前にちゃんと〝くん〟を付けるところが、彼らしかった。

 吉沢道雄は力尽くで高林泉をぼくの前へ、引きずるように連れて来ると、

「謝りなさい!」

 ぴしりと言った。

 高林泉はぼうぜんと、はとが豆鉄砲をくらったように大きなひとみを更に大きく見開いて、それでも勢いにまれたように、

「ごめんなさい」

 消え入りそうな声で、謝った。

 彼の手から、ポトリとガラスの破片が地面に落ちて、やみに紛れた。


「託生、ひどいじゃないか。途中でトンズラして、延々帰ってこないんだから。後片付けと掃除で、三十分は優にかかったぞ」

 利久は不満たっぷりに口をとがらせて、それでもささかまぼこをビニール袋に分けてくれた。

 寮では利久も含めて、今夜の件は誰にも知られていないようで、至って普通のにぎやかさを呈していた。とはいえ、今夜の消灯はいつになることやら。

「これぐらいでたりるのか?」

「充分。──だと思うよ」

 ぼくはギイの食欲がいかほどのものかは知らないのだ。足りなければ、ぼくのタマゴボーロを付ければいい。

 学食はとっくに閉まっているし、飲物だけではギイがかわいそうなので、ぼくは利久に笹かまぼこを分けてもらおうと、彼の部屋を訪ねていたのである。

「隣り、どう?」

 ぼくがくと、

「何が?」

 利久はキョトンとした。

「仲良くやってそう?」

「知るかよ」

 そりゃそうだ。

「それより、この笹かま、どうするんだ?」

「食べるんだよ」

 ぼくがこたえると、

「誰が」

「誰って……」

、ギイにやるんじゃないだろうな」

 利久の声、ドスが利いている。

「まさかって、何さ」

「俺は、託生が心配なんだ」

 利久はぐいと、こちらに寄った。思わず、退がる。

「う、うん、そうだったね」

「俺は、託生のこの一年間を思うと、胸が痛むほど心配なんだ」

「そ、そう?」

 どうしたどうした、利久はノーマルなはずだっただろ!

「別々になって、初めて気づいたんだ」

 利久は更にぐいと寄った。「俺にとって、託生がどんなに大切かって」

「あ、ど、どうも」

 ぼくは更に退がる。──笹かまぼこ片手に熱い想いを打ち明けるんじゃ、コメディーだぞ。

「だから」

 利久はにょっと腕を伸ばすと、「これも持ってけ」

 ぼくの目の前に、別の袋を差し出した。

「え?」

「これでギイの機嫌をとって、一年間、仲良くしてもらうんだぞ」

 利久は言って、やれやれと心配そうに額へ手をあてた。「俺はもう、託生の兄さんの気分だよ。目が離せなくって……」


「傑作だ」

 ギイはくっくくっくと声を殺して笑う。「託生は良い友人を持ってるな。あの片倉がねえ」

 ぼくは三〇五号室に戻って、ぼうぜんとしてしまった。ギイの机は既に、食べ物の山! だったのだ。

「どうしたんだい、それ」

「寮のロビーで自販機のコーヒーを買いながら、腹減ったとこぼしただけだ」

「はあ……」

 それでもギイは、まず最初に笹かまぼこをほおばってくれていた。

「旨いな」

「愛情の塊りだもの、利久のお母さんのさ」

「託生の分も入っているしな」

 ギイはウインクしてみせた。ふいに、音楽堂でのことがよみがえって、ぼくは慌ててベッドへ移った。

「おい、どうした」

 ギイは机のに腰掛けたまま、不思議そうに、慌ててその場を離れたぼくを目で追った。

 明るい寮の電灯の下、くらやみと違う。

「託生も食事、途中だったんだろ。こっちに来て、食べろよ」

「いらない」

 初めてキスを経験した少女のように、妙にドギマギしてしまう。ギイがしやべるたびに、口唇が動く。(あたりまえだが)口唇が動くたびに、ぼくはギイとのキスを、リアルに思い出してしまうのだ。──あの口唇と、キスしたのだ。

「もう眠いから、寝るよ」

「まだ十一時前だぞ」

「おやすみ」

「おい、服のままだぞ、着替えないのか」

「かまわない」

「服、汚れてるじゃないか」

「──あ……」

 忘れてた。

「眠いんだったら、先に風呂を使えよ」

 ギイはあごでバスルームを指した。祠堂のさは不便そのものだけれど、こと、温泉が出るので、各室バスルーム付き、いつでも好きな時に風呂に入れるというのは格別である。自宅でだって、こうはいかない。

 ぼくがタンスから着替えを出す間、ギイは机を向いて、つまり、ぼくに背中を向けて、黙々とパウンドケーキを食べていた。

「じゃ、お先に」

 服を抱いて、ギイの後ろ、一番遠い所をそうっと通る。

「山下たち、解散かもな」

 だしぬけに、ギイが口を開いた。

「解散?」

 足が止まる。「どうして?」

「高林の顔をみてたら、そんな気がした」

 ギイはくるりと椅子を半転させた。

 目と目が合う。

 あの後、吉沢道雄はぐいぐい高林泉の手を引いて、寮に帰っていったのだ。高林泉がなされるまま、不満も言わずにトボトボついていったのには、再び驚いたものだ。

「高林君、どんな顔してた?」

「しあわせそうな顔してた。今のオレみたいに」

 ギイは、するりとぼくの前に立ちはだかった。「託生、さっきの答え、聞いてない」

「さっきのって?」

「オレは託生が好きだ。託生は?」

 好きだよ、ギイ。でも、そうあっさり口にはできない。言ってしまったその後が、ぼくは怖いんだ。

 毎日一緒に生活する、プラトニックな恋人同士なんて、考えられない。

「そこ、どいて、崎君」

だ、託生」

 ぼくはギイのわきを抜けようとした。寸前を、腕が遮る。

「意地悪しないで、通してくれよ」

「額の傷、軽くて良かったな」

 ぼくは反射的に額のバンソウコウに手を当てた。一瞬、注意がギイからそれたすきに、ギイはぎゅっとぼくを抱きしめた。

 ずるいね、ギイ。がぼくにとって安心できる場所となったことに、もう気がついているんだろう?

「逃げるなよ、頼むから」

 え……?

 ギイ、心細い声。──泣いてるの?

「好きだなんて言わなくていいから、せめてギイと呼んでくれよ。──な? な、託生」

「──ギイ……」

 ギイがこんなに頼りなげになるなんて。

「オレを避けるなよ、逃げるなよ。オレを嫌うなよ、託生……」

 ぼくはそうっと、ギイの背中に腕を回した。

 そっと呼ぶ。「ギイ、嫌いじゃない。嫌いじゃないよ。そうじゃないんだ。ごめんね」

 ギイのセーター、アンゴラだ。ホワホワしていて、肌触りがとても可愛かわいい。

「それじゃ、好きか?」

「好きだよ」

「そうか!」

 ギイはバッとぼくを離した。ニヤニヤしている。

「ギイ!? だ、だましたね!」

「テクニシャンと呼んで欲しい。奇跡のレインボー・ヴォイスと誉れ高いんだぜ」

「前言撤回! 大っ嫌いだ!」

「そうか、うれしい」

「嫌いと言ったんだ!」

「愛してるよ」

 とささやいて、ギイが強引にキスしてきたのと、ぼくがそのほおをおもいっきりひっぱたいたのは、ほとんど同時のことだった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る