若きギイくん(へ)の悩み
「愛してる」
と、ギイが言った。
「わかってるよ」
ぼくは小声でそそくさと
そんなにじっとみつめないで欲しい。
「なんだよ、信じないのか」
「そうじゃなくて……」
「おい、崎義一! 隣りとなにぐちゃぐちゃ
──ホラ、言わんこっちゃない。
ただいま地理の授業中。特別教室でOHPを使っての授業なので、ギイはさっさかぼくの隣りに陣取っていた。教室ではもののみごとに端と端だからね。
そのギイの、ぼくの隣りに
「崎、モスクワの人口は何人だ?」
地理担当の
「オレ、モスクワ行ったことないんで、わかりません」
こら、ギイ。そういう次元の問題じゃないだろう。
「そうか、じゃあどこならわかるんだ?」
玄田先生の声、わなないている。ゲンコツが飛んできそうだよ、ギイ。
「アメリカ、日本、イギリス、フランス、アイルランド、オーストリア、スイス、イタリア、スペイン、スリランカ、それから……」
「坐っていい! ただし、少し黙ってろ」
「はい」
ギイは素直に席に着くと、「行ったことのない唯一の国の都市を質問するんだもんな」
ボソッと言った。
「崎!」
「はい!」
「いいか、黙ってろ」
クラスのあちこちからクスクス笑いが
次回からは、絶対隣りに坐らせないようにしなくちゃならないね。
しかし、しかしである。つまり、ソビエト以外は全部行ったことがあるなんて、ギイは一体どんな生活を送ってきたんだろう。十五歳
うーむ。
「あいつ、オレを目の
授業のあと、ギイが言った。「玄田のヤロー、一時間に最低一度はオレをさすもんな」
「わかってるんだったら、先生の神経
「だって、託生に愛してるって言いたくなったんだ」
ギイは至って真面目に言った。
──またでた。
「一日中言われてたら、却って真実味が
一時間に最低一度はそう口にしているのを、ギイは自覚しているのだろうか。
ぼくは地理の教科書やノートを束ねて、席を立った。
特別教室を出て、教室に戻る途中、
「託生、オレ、シンケンなんだぞ」
「わかってるってば」
今は五月半ば、そろそろ中間テストの時期である。中間テストを目前に控えた、これが高二の学生の交わす会話だろうか。
「本当にわかってるのか?」
ギイが
「わかってるさ」
「だったらここでオレにキスしてくれよ」
ぼくは、何もないまっ平な廊下で、つまずきそうになった。
「ギイ、今、何て言った?」
「ここで、オレにキスしてくれ」
「──む……」
休み時間の廊下は、天下の往来である。ギイのファンがそこら中を歩いてて、チラチラこっちを見ているのに、そんな事ができるものか。
「ぼくはまだ、死にたくないよ」
四月、新入生がやって来たと同時に、ギイにファンクラブなるものができた。当のギイはまるきり関知していないが、盛り上がるのは一年生の勝手である。しかし、その影響はぼくにまで及ぶのだ。
「なんで託生が死ぬんだ?」
ギイは訳がわからんと顔に書いた。
「ホラ、急がないと、次の授業に間に合わないぜ」
ぼくが走り出すと、
「おい、待てよ」
ギイも慌てて走り出した。
「愛してる、のバーゲンセールだもんなあ」
ぼくはぼやいて、昼食のサラダ付きオムライスを一口食べる。と、
「何のバーゲンセールだって?」
ふいに話しかけられた。
「や、やあ、
A組の級長、野川
いざ一学期が始まって、ギイの独断とはいえ副級長をやる羽目になったぼくは、生まれて初めて『委員会』なるものに出席するようになり、それにつれて、去年迄は絶対に、どう逆立ちしたって縁のなかった学年のトップクラス(成績だけじゃなくて)と、望む望まずとにかかわらず、お知り合い、になってしまっていた。とにかく、ギイと同伴というだけで、目立つこと目立つこと。
「珍しいね葉山君、今日はギイと一緒じゃないのかい」
「彼は先生に呼ばれて、今職員室に行っているんだ」
と、ぼくが
「ここ、あいてる?」
と訊いた。
「どうぞ、かまわないよ」
「では、失礼します」
野川勝は腰を降ろしてから、わざわざ付け足すように、
「ここ、ギイの席じゃなかったのかい」
と言った。
「そう四六時中、一緒じゃないさ」
全く、他の人からそう言われてしまうくらい(多少のやっかみを含めて)ギイはぼくにベッタリくっついていたのだ。あんまりいつも一緒にいるので、あれからたった一か月とちょっとしか経っていないのに、多くの人がぼくとギイは昔っからの仲良しだと思い込んでいる。
人間の感覚なんてあてにならないものだ。この野川勝もその一人である。
しかし。
「葉山君はギイを独り占めだな」
野川勝はポツリと言った。──言い方に
「同室で、たまたま級長と副級長だからさ」
というのが、言い訳になるとは思わないけどね。
「あんまりベタベタくっついてると、あの関係だと勘ぐられるぜ」
「あの関係って」
「セックスフレンド」
ぼくはオムライスを皿ごとひっくり返しそうになった。
サラリと言ってのけた野川勝は、平然として自分のオムライスを食べている。
「じ、冗談はやめてくれ」
人間接触嫌悪症。ギイは好きでも、そうカンタンに治りはしない。
「毎晩ふたりっきりでいるのにか?」
「二人部屋で同室なんだ、仕方ないだろ」
なんでぼくが、野川勝に弁解しなけりゃならないんだ? くっついているのはぼくじゃなくて、ギイなんだぞ。
「ギイとふたりっきりで、よく何もないな」
今度は、半ば感心したように、半ば馬鹿にしたように言う。
「同室のヤツといちいちできてたら、祠堂は全員、ホモにならなきゃならないだろう」
「ギイは特別だ」
野川勝は言った。
なんなんだ、もう! それでなくとも、ぼくはギイの妙な行動だけで、十分頭が痛いのに。
──ひょっとして。
「ひょっとして野川君、ギイに
とたんに野川勝は真っ赤になって、
「そ、そんなこと言ってないだろ!」
純情だ。
「ギイに言うなよ!」
ガタガタ派手に
「たーくみ、一個くれ」
応えるまでもなく、ギイはぼくの買ったパンにかぶりついた。
雑木林の奥の日溜まり、草むらに腰を降ろして、ぼくは食べかけのパンに
「もう一つ、食べる?」
思わず、訊いてしまう。
「サンキュー、もらう」
紙袋に残った最後のパンもペロリと食べてしまうと、パックの牛乳をすすって、ギイはやっとひとごこちついたようだった。「しかし、パンってのは米のメシと違って、腹にたまらないんだよな」
チラリとぼくの食べかけのパンを見る。
「まだ食べたいのかい?」
「もらっていいのか?」
駄目とは言えない。
「昼食にあぶれちゃうぐらい、先生にコキ使われてたんだ」
「自分は四時間目がアキだったから、先に済ませてんでやんの」
「
「担任じゃねえよ」
「あ、まさか」
「地理の玄田!」
やっぱり。
「ああ、さすがにお腹いっぱいになった。託生、
「ちょっと、──ギイ?」
ギイはさっさとぼくの膝に頭をのせると、仰向けになって目を閉じた。
「肉体労働させられたんだ、少し休ませてくれ」
「
ぼくが笑うと、
「OHPの機械を、一階から四階まで、ひとりで運ばされたんだ」
「あの重たいのを!?」
これがぼくなら、持ち上げるのがせいぜいだろう。玄田先生も殺生だ。
「そのかわり、これ」
ギイは目を閉じたまんま、ブレザーの内ポケットから何やら出した。
「これ……?」
「託生にやるよ」
「これなに? 石ころ?」
それは親指の
「それ、エメラルドの原石さ」
「エメラルドって、宝石の?」
「研磨すれば、かなりのモンだぜ」
「本物?」
「玄田がイスタンブールへ旅行したときに手に入れたのをもらったんだ」
「なんで? 高価なものなんだろ、そんなのをそう簡単にくれるわけ……」
「ひとりで運べたからさ」
「ギイ!」
「
「何と賭けたんだよ!」
「オレのパスポート」
「バカ!!」
ひっぱたいてやりたい!
ギイの籍はアメリカにある。だから、パスポートがなければ、ギイは日本にいられないのだ。
「託生にどうしてもそれをプレゼントしたかったんだよ」
「だからって、パスポート……」
「引き換えにしても、良かったんだ」
ギイがパッチリと目を開ける。陽に透ける淡い茶色の
「──ねえギイ、ぼくはお礼にどうしたらいい?」
「何も」
ギイは言った。「
そしてギイは再び目を閉じた。
忘れてないんだ、嫌悪症を。──ギイ。
「ありがとう、大切にするよ」
ギイは口元だけ、笑ってみせた。
キーン、コーン、カーン、コーン。
のんびりと、ウエストミンスター寺院のチャイムが鳴る。(ところで、なぜ日本の学校のチャイムに外国の鐘の音を使うのか、ぼくは未だによくわからない)
ぼくはハッとして顔を上げた。いつの間にかぼくも
「ギイ、昼休みが終わったよ、急いで教室に戻ろう」
ぼくの膝ですっかり眠っていたギイは、だるそうに
「はいはい」
よっこらしょっと体を起こした。「──れ?」
ギイはじっと腕時計を見ている。
パンのゴミを手早く片付けて立ち上がったぼくは、ギイを振り返った。
「どうかした?」
「今のチャイム、五時間目終了のチャイムだ」
「え─────っ!?」
それはまずい。「それじゃあぼくたち、サボタージュしちゃったことになるのかい?」
「そういうこと」
「五時間目、英語だったね」
ぼくは英語が大の苦手なのである。この上先生に目をつけられたら……。ああ、一学期のカラフルな成績表が目に見えるようだ。
「託生、こうなったらいっそのこと、六時間目もサボッちまおう」
「冗談じゃないよ、戻らなくちゃ」
「
「? ──何が?」
「一時間もふたりでドロンしていて、託生とオレとの間に何が起こったかってさ」
「バラバラに帰ろう!」
「却って怪しまれる」
「ギイ、頼むから、たまには望みのある二者択一をしてくれよ」
「思われるんだったら、本当にしちまおう」
「本当って?」
「時の経つのも忘れて楽しむのさ」
ギイはニヤリと笑う。ぼくは、ドキリとした。
セックスフレンド。ふいに、先の野川勝のセリフが脳裏を
「じゃあねギイ」
紙袋をくしゃくしゃに丸めて握りしめ、ぼくは逃げるように駆け出した。
全力疾走で雑木林を走り抜け、校舎の近くまできて、やっと足を
慣れたようにキスするギイ。アメリカで十五歳まで住んでいたギイ。キスの先も、慣れてるんだろうか。
「仲々良い度胸をしてるね、葉山君」
赤池章三が腕組みをして、ぼくに言った。彼の制服の胸ポケットには、サンゼンと輝く風紀委員のバッジ。おかげで我がクラスの風紀の素晴らしいこと。「成績はともかく、真面目で堅物のきみが、どうしたことだい」
おまけに相変わらず、きついのだ。──否定できない自分が悔しい。
赤池章三の
「ちょっと、ね……」
五時間目の休み時間、クラスはワヤワヤしていたが、とりたてて誰も気にとめる風でもなかった。意外、というかほっとしたというか、気が抜けたというか。
「おい葉山、今日は先生の都合が悪くて自習だったから良かったものの、いつも目こぼすってわけにはいかないんだぜ」
章三は言って、出席簿でぼくの頭をペタンと
「自習だったのかい?」
なんだ。心配して損した。
「ところでギイは?」
「ギイ?」
「一緒だったんだろ」
「べ、別に」
「ふうん」
章三はぼくを上から下まで眺めると、「ま、どっちでもいいけどさ」
と言った。
「──で、どこに行ってたんだって?」
ふいに
「林で、ついうとうとしちゃって」
思わずぼくはバラしてしまった。
章三はとっても抜け目ないのだ。ギイの類友は(類は友を呼ぶ、の略である)ぼくには非常に、重荷である。鋭い連中ばかりなんだから!
「OK、ではあとでギイの裏も取ろう」
章三は刑事みたいなことを言って、面白そうに足取りも軽く、廊下へ出て行った。
「──はい、教室移動。みんな、図書室へ行って、各班ごとに例題を調べること」
六時間目の古典の時間、先生が教室に入ってきざまに言った。先生は出席もとらず、ぐるりと教室を見回しただけで、ポツンと空いた席のことには目もくれなかった。
ギイは本当に、六時間目もサボタージュを決めていた。
大胆不敵。はっきり言って、不良である。
ところが。
「ヨウ!」
図書室のドアを開けると、ガランとした室内にギイが机に
「崎義一」
と、まず走って行ったのは、言うよしもがな、風紀に燃える赤池章三、かの人である。「なにしてんだよ、五時間目もサボッて」
後半のセリフは
「オレ、ずっとここに居た」
ギイはケロリとして言う。
──すぐばれるようなこと言って。
「あら、六時間目はここなの?」
書庫から、司書の先生が本をどっさり抱えて現れた。「ギイ君、残念だったわね。連続サボ成らず」
──へ?
「悪いねセンセイ、今度また手伝うよ、古本の修復」
ギイはぴょんと机から跳び降りて、ぼくの所に来た。
「託生、古典なにやるんだ?」
ふいに耳を何かが
「おい、ギイの班はこっちだぜ」
向こうで誰かがギイを呼ぶ。ギイは肩を
どうなっているのだろう……。
「中間テストの範囲、職員室の前に
ギイは言って、寮の三〇五号室、ぼくの机に
「託生の班、随分とややこしいのを渡されたんだな」
「古典は苦手なんだ」
ちっともわからん。日本語なのに。
「託生は頭が理数系向きにできてるんだよ」
いつになく
「そんなこと……」
顔を上げたぼくに、
「あるじゃないか。友人どもに、全部レッテルを貼っておかないと気が済まないんだ。こいつはただのクラスメイト、こいつはただの顔見知り、こいつはただの同室者。──相手の気持ちが変化することには、目を
「ギイ、一体何の話?」
「託生は、自分の気持ちが変化しないから、他人もそうだと思うんだろう」
「何を言ってるんだよ、ギイ」
「鈍感!」
「ギイ……?」
「オレと関係を持ったと誤解されるのが嫌で、逃げ出したくせに」
「だって、誰だって誤解されるのは嫌なもの……」
「馬鹿言え! オレは託生を好きなんだぞ!」
ギイは拳でドンと机を
「…………」
「少しはオレのこと、考えてるのか?」
「ごめん、ギイ」
「謝ってもらいたくて言ってるんじゃない」
考えていないわけじゃない。でも、少なくともぼくはギイに、キスされたいとは思わなかった。
「馬鹿馬鹿しい」
と言った。「託生、今の忘れてくれ。ちょっと
パタン、と静かにドアの閉まる音。廊下に消える靴音。ギイ、どこかに行ってしまった。
ぼくは、溜め息。
ギイの言うのはもっともで、ギイの言い分はわかるのだ。わかるのだけれども、心が、動かない。
己れの想いに素直なギイ。自分の想いがどうなっているのかすら、わからないぼく。
愛していると言える、ギイ。何度も、何度も。──何度も言わせてしまったのは、ぼくのせいだろうか。
ふと、そんなことを考えた。
次の日の昼休み、
「こんな所で会うだなんて、偶然だね」
野崎大介がニコニコ顔で言った。──待ち伏せしてて、偶然もないもんだ。
「相変わらずくさい誘い方ですね」
ぼくが言ってやると、
「きみとは初めから、くさい仲だ」
野崎大介は登校日のカレーの一件を暗に指して、苦笑した。「しかし、はたで見ているきみは、誘えばすぐになびきそうなのに、実は気の強い
どうりで、軽々しくモーションをかけてきたわけだ。
「何か用ですか」
「急ぐ?」
「そりゃ、昼休みは永遠じゃありませんからね」
「きみの同室の、あいつ、さ」
野崎大介は壁に肩だけ寄り掛かるようにして、片足を前に組んだ。どうも、いちいちポーズをつけないといられないらしい。「あいつ、きみに気があるんじゃないのかい」
「──はあ?」
「あの手の男はプレイボーイだからな、用心するに越したことはない」
用心と言われても……。
「それだけを言いたくて、わざわざ待ち伏せしてたんですか」
随分と暇なんだなあ。
「はい」
目の前にチケット。しかも、クラシック。ほんとーに、懲りないんだから。また最前列だよ。オーケストラ!
「行きません」
「この前のはヤラセだったけど、これは本物だぜ」
野崎大介は間髪入れずに断ったぼくに、大慌てで訂正する。「あれ以来、ぼくは葉山託生に
「あ、そうですか」
ぼくは野崎大介の
「ストップ! ──待てよ」
野崎大介はくるりとぼくの正面に回り込み、「チケットの手配が遅れて、席は前になってしまったが、ちゃんと真ん中を予約したんだ。当日はコンディションを整えて、曲の途中でなんか、絶対眠らないようにするから、な」
「行きません。野崎さん、日付けちゃんと見てくださいよ」
ぼくはチケットを指で弾いて、くすりと笑った。「中間テストの
「え!? ──あ、まずい」
登校日の一件以来、野崎大介はぼくに対してポツリポツリと、それなりにモーションをかけてきていた。ぼくにすれば物好きな、というところだが、なんとなく憎めないのである。第一印象では、絶対にお近づきになりたくない男だと思っていたのだが。
彼は登校日の次の日、始業式の直後、三〇五号室にやって来て、ギイに改めてもう一度謝罪をして、そしてぼくにも謝ったのだ。高林泉にそそのかされてやったことだと。あの高いプライドを彼にすれば、きっとかなぐり捨てて、頭を下げた。──これでは、第一印象だとて変わるというものだ。もっとも、ギイは野崎大介が部屋にいるあいだ、彼がどんなジョークを飛ばしたところでニコリともしなかったが。
「ということは、別の日だったらOKということかな」
野崎大介が
「残念ですけど。野崎さんのファンの方とでも一緒に行ってください」
「ぼくにファンなんていないよ」
「そうですか?」
「そうさ」
「おい、託生」
廊下のT字の角から、ギイがヒョイと顔を出した。「何やってんだ、早くしろよ」
いかにも待ちくたびれた、という口調でぼくを促す。ギイはとっくに理科室に行ってたはずなのだが、とにかく助かった。しつこいのも相変わらずなんだから。
「それじゃ」
ぼくは野崎大介にあっさり別れを告げて、ギイへ駆け寄った。
「野崎なんかと話をするな」
ギイは理科室に着くなり、言った。
「それって、やきもち?」
ぼくはくすくす笑って言う。
「そうだよ!」
ギイは
「はいはい」
かわいいんだ、ギイ。
理科室では
「わかったぜ」
先に席に着いていた章三が、ぼくが
机には既に六人きっちりメンバーが
「わかったって、なにが?」
章三はベランダの太い
「ぼく、実験のことで質問してたっけ」
「カムフラージュだよ。本を見てろ」
章三は押し殺した声で言う。
「昨日、ギイが五時間目に本当はどこにいたのか、わかったぜ」
ぼくはギクリとした。
「いまさら葉山に言う必要はないけどな。司書の
「誰って……」
「葉山託生。他にいないだろうが」
「ぼく?」
「はっきり言って、迷惑だね」
章三は更に声を低くした。「ギイに気を使わせてばかりじゃないか。たかだか一時間、一緒にサボタージュしたってだけのことを、どうして隠す必要があるんだ。葉山は、ギイに余分な心配ばかりかける。高林の件だって、お前さんがちゃんと自分のすべき事をしていたら、ギイがわざわざ気を回して、あそこまでする必要はなかったんだ。まるでおんぶにだっこだぜ」
ぼくはいささか、カチンときた。いくらぼくでも、そこまで言われたら腹も立つ。
「失礼しちゃうね、赤池君。断っておくけど、ぼくが頼んだわけじゃないんだからな」
「そのくせ親友きどりだ」
「な……!」
「さっき渡り廊下のへんで、野崎とくっちゃべってたろ」
「関係ないだろ、赤池君には」
「世間知らず」
「ぼくにケンカを売りたいのかい!」
ぼくは小声で怒鳴った。
「売ったのは野崎だ。いや、結果的にはギイか」
「こねくりまわさず、ストレートに言えよ。ぼくを責めてるんだろ。だったら──」
「ギイが野崎と
「──え……?」
章三はいまいましげに親指の
「賭けの対象は葉山託生」
「ぼく!?」
「し────っ!!」
と、タイミング良く(?)始業を告げるチャイムが鳴った。
「赤池君!」
「続きは放課後だ」
赤池章三はサラリと流して理科室に入って行った。いうまでもなく、午後の授業は全部上の空だった。
「──あれは二枚舌か、さもなくば二重人格だね」
章三は言った。
放課後、章三は当番のトイレ掃除をぼくに手伝わせながら(けっこうちゃっかりしているのだ)事の成り行きを説明してくれた。
「ギイは、決して恩きせがましいことを言わない男だからな」
確かにそうだ。ギイは、託生のためにアリバイを作ってやったぞ、とは言わなかった。でも、現にアリバイ工作をして、ぼくをホッとさせてくれていた。黙ったまま。
「野崎は無骨な男のふりをして、葉山のガードを
「いつのこと」
「昨日の放課後」
「ギイ、そんなこと、一言も」
「言うわけないだろ」
章三はやけくそ混じりに、ホースで水をジャージャー
「それで、賭けって?」
「ふたりとも、体力に自信があるからね。スポーツテストの持久走のタイムで賭けたんだよ」
「だって、学年が違うから、一緒には走れないだろう」
「二年の方が三年より一日前だから、ギイの方が不利なんだがね」
「やめさせられないかな」
「
章三はぴしゃりと止めた。「本当は、葉山には喋るなと口止めされてたんだ。同室のよしみでやるんだから、託生には関係ない、絶対喋るなって」
「赤池君……」
「こっちも宣戦布告の場に居合わせたのが悪かった。ギイは負ける気なんてさらさらないが、あんまりギイが不利なんだ。いくらギイがスポーツ万能ったって、運動部に入ってるわけじゃなし、片や野崎はバスケット部の部長だぜ」
──ああ、ギイ。
「しかも、当の葉山はそんなギイの気も知らず、脳天気にも野崎と〝談笑〟なんてなさっちゃって」
「赤池君、勝ったら野崎さん、どうするって?」
「ギイにパンチを
「負けたら?」
「逆さ。ギイがパンチを喰わせて、葉山には手を出さないと約束させる」
「そんなこと、──どうってことないのに」
「ギイにすれば、どうってことないで済まされなかったんだろ」
章三は言ってのけた。「同室のよしみで、賭けをする男じゃないぜ、やつは」
知ってる?──章三。
「ギイに僕がバラしたの、喋るなよ」
章三は付け加えた。「中間テストを前に入院するのはごめんだからな」
「託生、いいか、動詞の活用ってのは複雑なようで、単純なんだ。だいたいパターンの中に収まっちまう」
ギイは英語の教科書の後ろのページをめくって、説明する。「聞いてるのか?」
「聞いてない」
「あのなあ、超不得意科目だからと、人がせっかく──」
「英語なんて、どうだっていいよ」
頭に何も入ってこない。それどころじゃないと、心が焦って、妙に騒いでいる。
「また赤点だぞ」
ギイのからかいに、乗ってゆけない。
「赤点の方がましかなあ」
ぼくのセリフに、ギイはピクリと
「あんのやろ……」
「ギイ!?」
まずい!
ぼくは急いで追いかけた。ギイはためらうことなく、まっすぐに赤池章三の部屋に入って行く。乱暴にドアを開け放ち、
「章三!!」
と怒鳴った。「どういうつもりだ、このヤロウ!」
同室の
「どうもこうもないだろう」
腹を
「ぬけぬけと、この……」
ギイはつかつかと歩み寄り、怒りに任せて章三の胸倉をぐいと摑んで拳を握った。
「ギイ! ──ギイ、やめろよ!」
ぼくは後ろからギイを羽交い絞めにした。効果のほどは定かでないが。「ぼくは
ふと、ギイの殺気が
「手を、離してあげてよ」
ギイは章三から手を引いた。章三は大きく息を吐く。
「全く、バカぢから!」
悪態ついて、章三はYシャツの
ギイは未だ
「ぼくは誰にどう言われたって、気にならないのに」
ぼくはギイの後をついて歩きながら、ポツンと言った。
「オレは気になるんだ」
ギイが
妙なものだ。ギイとのことを誤解されるのはあんなに嫌だったのに、ことこの件に関しては、野崎さん、好き勝手になんとでも
「平気だよ、ふっちゃうから」
「カンタンに済むもんか」
「だって、野崎さんって、口だけって感じの人じゃないか」
「相手による」
ギイは言った。
それ、ぼくのこと? それとも、ギイのこと?
屋上に続く重い鉄の扉を開けると、ギイは気持ち良さそうにふうと息をついた。
「屋上なんかで何するの?」
「持久走の練習。──つきあうか?」
「うん……」
「では、よーい、ドン!」
ギイが走り出す。テニスコートが三面は作れそうな屋上へ。ぼくはブレザーを脱ぐと、扉の脇に放って、ギイを追いかけた。
「健全な精神は健全な肉体に宿る、ってな」
ギイが顔だけぼくに振り返る。ギイのフットワークはとても軽やかだ。「託生、オレが心配か?」
「──別に」
「なんだ」
ギイががっくりしたように走ったまま大きく上体を屈めて、ずっこける風にした。
「別に、心配なんかしてないさ。ギイが殴られたってかまわないさ。ぼくは、ぼくは……」
熱く、視界が
「おいおい託生、頼むからこれ以上オレを落ち込ませないでくれよ。──え?」
つと、ギイが立ち止まった。「……託生……?」
ぼくは背中から、ギイを抱きしめた。Yシャツ一枚隔てて、ギイの体温が暖かい。
「ムボウだ、ギイ」
声が、かすれてしまう。
無謀だ、ギイ。いつだって、いつだって。
「泣き虫」
ギイが言った。優しい声だ。ぼくの手を覆うようにギイの両手が重ねられる。骨っぽいのに、暖かい手。
「そんなに大切にしてくれなくたっていいのに」
「病気はどうした、託生?」
「しばらく忘れてて」
漂う甘い香り。これは、ギイのコロンだろうか。
「しかし、理性が……」
ギイは困ったように言う。「できれば離れて欲しいんだけど……」
ぼくはもっと腕に力を入れた。
ギイのフワフワの髪が
ギイはコホンと
「あのー、託生くん」
「ん?」
「できればバックじゃなくて、フロントに移動していただきたいんですが」
「フロント?」
「正面。こっち」
ギイはダンスのターンをかけるようにくるりとぼくを正面へ引っ張った。その
「あんまり託生が抱きつくから、おかげで理性が吹っ飛んじまった」
ギイは静かに
「愛してるよ」
キスの合い間に
「──ぼくも……」
ぼくは目を閉じたまま、ギイの背へと手を
「──天はオレに味方したな」
ギイは口笛を吹いて、屋上のフェンス越しにグランドを見下ろした。眼下では、三年生のスポーツテストの真っ最中である。
「つくづく悪運の強いヤツだよ、ギイは」
赤池章三が言った。「な、葉山」
ぼくはフェンスに
そしてスポーツテスト当日、朝からバケツの底が抜けたようなどしゃ降り。ところが昼にぴたりと雨が止み、あとはカンカン照り。二年生のスポーツテストは中止、グランドは夕方までには乾いたので、翌日の三年生は予定どおりにスポーツテスト。それで、明日に昨日の分が繰り越されたのだ。
形勢一転。
「そろそろだな、持久走。野崎って、C組だろ?」
ギイはフェンスの付け根に腰掛けた。長い脚をすっと組んで、──サマになる。
「ギイってカッコイイんだね、足が長くて」
ぼくが言うと、
「ん──?」
ギイはのんびりと、下からぼくを
「ギイってとってもカッコイイんだ。彫が深くて、美男子だし、外人みたい」
「はあ?」
ギイはキョトンとして、章三と顔を見合わせると、大爆笑!
「突然何を言うのかと思ったら」
ギイは腹を抱えて笑い転げる。「ははは、面と向かって
「ギイの場合は
章三が涙を
そんなにおかしなこと、言ったかなあ。
「だって、
「ふふふ。託生、お前、妙なところで感心してくれるんだな。オレの母親がハーフってだけのことなんだぜ」
「ハハッ、葉山といると飽きないよ」
「──失礼な」
ぼくは章三を
「託生、行っていいぞ。オレはあいつのタイムを聞いてから、教室へ戻る」
「おー崎義一、風紀委員を前にして、よくぞ言った」
章三はポキポキ指を鳴らす。
「腕力じゃオレが勝つな」
ギイは優雅にウインクを返した。
「反対されてもつきあうぞ」
章三は言った。
「へ?」
これはぼく。「そんな、──いいの?」
「乗りかかった船だ。三人でサボると目立つけど、どうせテスト配って、答え合わせするぐらいなもんだろ」
「ふたりとも授業に出ろよ。わざわざつきあうことないだろ」
ギイはグランドを
「五時間目って、英語だっけ」
数週間前の同じ時間に、ふたりで眠りこけて、そのうえ六時間目まで一緒にサボらせようとしたギイの、同じセリフとは思えない。
「託生、オレの分もしっかり答え合わせしておけよ」
「──うん」
「じゃ、あとでな」
ギイはチラともこっちを見ずに言った。ぼくと章三は目を見交せて、仕方なしに屋上を後にした。
「答え合わせしとけったって……」
ギイのテストは模範回答として、黒板にペタと磁石で
片やぼくは、ギイの特訓があったのに、六十三点。いやはや。しかし、
章三のおかげで、ギイは急な腹痛で保健室で寝ていることになっていた。ギイのことだ、野崎大介のタイムが早々に判っても、五時間目はしっかりサボタージュを決めこむことだろう。
案外、明日のために屋上で走ってるかな?
あのバカバカしい
野崎はまだ、賭けの一件をぼくが知っているとは気づいていない。
自信満々だった野崎大介。三年で一番、ってことはまずありえないけれど、ベストテンには入る俊足だろう。
「バカバカしい賭け、か……」
窓の外、
のびのび生きてるギイ。その印象は、ギイがいつでも一所懸命だからなんだ。彼の濁りのない透けるような
「──どう?」
グランドでは、最後のグループのタイム読みが始まっていた。
「五分五分ってところかな」
ギイは屋上で体操をしていた。額にうっすらと汗。やっぱり走ってたんだ。
「ギイ、
「臭いか?」
ギイは肩に鼻を寄せて、くんと匂いをかいだ。「かなり汗かいたからな」
「コロン?」
「オレ?」
「そう、好きだな、この香り」
「安物だぜ」
ギイは苦笑した。「一オンス、一ドル八十二セント。
「負けないでよね」
ギイの笑いがぴたりと止まる。
「初めて、言ったな」
ギイは言った。「オレ、託生が今回のことをどう思っているのか、初めて聞いたよ」
「絶対、負けないで」
ギイが好きだから。
「──そのつもりだ」
ギイ以外の誰でもなく。そう、ギイがぼくに告げたように、ぼくも、ギイ以外の誰でもないんだ。ギイが、特別なんだ。
「ぼく、何をすればいい?」
「応援してくれるだろう」
「応援するよ、大声で」
「最後の一周で、オレに一番大きな声援を頼むぜ。オレの弱点は、ラストスパートに力がないことなんだ」
「
「賭けじゃない、勝負だ」
ギイの瞳がキラリと光る。「明日は絶好の五月晴れになるぞ」
穏やかな寝息が、隣りのベッドから聞こえている。ぼくは仲々、寝つかれなかった。
カーテンの
──どこの世界に、好きな相手に手も出せずに平気な男がいるもんか!
あの時の、ギイのジレンマが、今はほんの少し、わかる気がする。
ぼくは本当に鈍感で、宣戦布告して帰ってきたギイに、ギイの心も思ってやれずに、むしろ謝らせてしまった。
黙って、勝つつもりだったんだろ? ぼくには一切を告げないで、何もなかったことにしたかったんだろ?
ギイに話してしまおうか、本当のことを。
──けれど、まだ怖いんだ。それによってギイを失うことになったら、ぼくは悔やみきれなくなる。
今は、ギイが誰より大切だから。
ぼくは、ギイが思うほど、きれいじゃないから。
逃げて通れないことがわかっていても、その勇気がぼくにはない。
人間接触嫌悪症。うまく名付けてくれたね、ギイ。抱かれたら、初めてじゃないと、すぐにわかってしまうだろう。二か月近く一緒にいて、無理矢理にでも抱こうとすればできたのに、そうしなかったギイの優しさが、時々辛い。抱かれたくはないんだ。でも、耐えるのは辛いだろう? ──
耐えているのを、おくびにも出さなかった、ギイ。あの日、あの一言だけ、ぼくに本心を
どうすればいいんだろう。
ギイの好意に
「だったらオレにキスしてくれよ」
巧みにジョークに紛らせていたんだね。
ぼくからギイにキスしたことなんて、一度もない。キスをねだったことも、ない。
ギイ、未だに一歩を踏み出せないぼくだけれど、ごめんね。
ぼくはそうっとベッドから降りると、すっかり熟睡しているギイの寝顔を起こさないよう気をつけて
薄く開いた口唇に、
二度と誰も愛せやしないと思い込んでいたぼくに、そうじゃないと教えてくれたギイ。ギイはぼくの過去を知らないのに、ぼくの心をこんなにも変えてしまった。
「ギイ、ぼくからのキス、受け取ってよね」
もし明日ギイが勝ったら、ぼくはどうしよう。
──そう、きっとそうだ。
耳を貫くようなピストルの音がグランドに響いた。一斉に走り出す、第三グループの生徒たち。
「へえ、
びっくりしたように章三が言った。「いきなり独走態勢だぜ。あんなにとばして、おしまいまで
群を抜いて走るギイ。まるで翼がついているかのように軽やかに走り抜けてゆく。
「恋する男は盲目だ。ギイもただの男だよなあ」
章三はぼやいて、ぼくを見る。「葉山のどこに
「それはぼくが
ぼくは笑ってしまった。「当のギイにも、よくわかってなかったりして」
「それはあり得る」
章三も笑う。「でも、かなり本気らしい」
「いつ、わかった?」
「なんとなく、そうかな? そうかな? と日が過ぎていって、ま、決定打は宣戦布告だね。ギイは元々級長体質だから──」
「そんな体質があるんだ」
「あるのさ。四月の一件も、当時は単なるおせっかいだと判断してたわけ。去年もちょくちょく動いてたから。それで、我がクラスは退学者ひとりもなし、だったんだ」
「いたの?」
「放っておけば、二、三人ね。ヤツの人気はダテじゃないんだぜ」
「知らなかった」
「ギイは異様にかけひきがうまいのさ。あれは父親譲りだね。社会に出てから出世するぞ。もっとも──」
章三は唐突に言葉を切った。ギイがビリの人に追いついたのだ。追い越して、ピッチはまだ落ちない。「ギイのベストじゃ、ギリギリだもんな」
「五分五分って、本人は言ってたよ」
「四分六さ」
「どっちが四?」
「ギイ」
「──……」
「あいつ、いっつもラストスパートって時にぐんとスピードが落ちるんだ。短距離向きだからね。それを計算に入れて、最初とばしてるんだけど、──どうかね」
「赤池君はギイを好きかい?」
「あたりまえだろ」
「ぼくとのことは、快く思ってないね」
「そうだね」
「ギイが負ければいいと思う?」
「半分。──いや、三分の一かな」
「ぼくは、ギイが好きだ」
「ふむ。だろうね」
「どうしても勝って欲しい」
「それで?」
「最後の一周、ぼくも走る。君はぼくより足が速そうだ。だから、君も一緒に走ってくれ」
章三は一瞬、言葉を失った。
「頼むよ、赤池君」
「奇抜な提案だな、そいつは。この後すぐ、僕たち第四グループの持久走が始まるんだぜ。第一、そんなことをしたら先生に大目玉を
「勝って欲しいんだ。ぼくは、──ぼくは万が一にでも、野崎大介に
ぼくのセリフに、章三はギョッとした。──だろうね。
「おい、葉山、正気か?」
ぼくの額に手を当てるふりをする。「この手を当てただけで卒倒しそうなくせに」
「正気だよ。でも、ぼくがそんなことになって、誰かひとりでも悲しむのなら、ぼくはそうなりたくないんだ。ぼくはギイを、悲しませたくない。頼むよ、協力してくれよ」
章三は考え込んでしまった。腕を組んで
「よし、協力しよう」
「ありがとう!」
「ただし、今度こそ、今
「わかってる」
「──大丈夫かいね」
「約束する!」
約束するさ。──ああ、後三周。
最後の一周にさしかかったとき、ぐっとギイのスピードが落ちた。
「行くぞ、葉山!」
章三が
トラックの内側、ギイの
「ギイ、葉山がお前と走るってさ」
章三が耳打ちした。そして、ギイの後ろを回り、「僕も多分に不本意ながら、走ることにする。リードするから、ついてこい」
「──サンキュー!」
ギイが笑う。苦しそうな呼吸。
「ギイ、頑張って!」
ギイはぼくに、大きく
フットワークがみるみる戻る。
「こら! そこの二人! 走者の邪魔をするな、どけ!」
メガホンが
校舎のどこかで野崎大介は見てるだろう。ぼくは誰にもギイを殴らせたり、しないんだ。
「ギイ、ファイト!」
ゴールが近い。タイム読みが始まる。
「ギイ、三十秒台で入れば、野崎に勝つぞ」
章三が切れ味の良いアドバイスをした。
ギイの息が荒い。呼吸はずっと乱れっぱなしだ。
最後のコーナーを回る。残すは直線、約四十メートル。
カウントを読み上げる先生の声が、一歩毎に大きく聞こえる。
「二十四! 二十五!」
──え? もう、そんな?
ギイはキッとゴールを見据えた。
「二十九! 三十!」
まだ、まだ駄目だ。こんなに早くタイムが流れてしまうなんて。
残り五メートル。
「三十四! 三十五!」
──ギイ!
四メートル。
「三十六!」
三メートル。
「三十七!」
二メートル。
「三十八!」
一メートル!
その時、ギイの足がもつれた。
「ギイ、危ない!」
「三十九!」
神様!!
「トップ、崎義一! タイム、四分三十九秒! 本日のベストタイムだ」
わーっと拍手が起こる。
ギイの体はテープを切っていた。
「だらしないぞ運動部。このタイムを破らんと、運動部全員、放課後、持久走のやり直しだ」
の先生のお言葉には、賛否両論。
「ギイ! 良かった、転ばなくて!」
「やったじゃんか、このやろ!」
ぼくと章三の声が耳に届いているのかどうか、ギイはゴールからヨロヨロとグランドの中央に来ると、ふらついた足取りのまま、崩れるようにグランドへ大の字になった。
激しく胸が上下している。
「第四グループ、位置につけ!」
メガホンが容赦なく呼びつける。ぼくたちはギイが気掛かりながらも、集合場所へと走って行った。
「珍しいな、崎が本気でスポーツテストをやるなんて」
担任の松本先生が、ギイの
ギイはやっと呼吸も正常となり、地面に
「珍しいは余分だろ」
松本先生に抗議した。
「崎が必死に走ってる姿を初めて見たよ。フォームはめちゃくちゃだが、良いタイムじゃないか。どうだ、うちのラグビー部に入らんか、あのファイトは貴重だ」
「オレはスレンダーを売り物にしてるんだ。先生みたいなプロポーションになったら、イメージダウンだぜ」
「
「全然」
「そうか?」
疑いの眼差し。
「そうだよ」
「どうも、崎が真剣に物事に取り組んでる時ってのは、怪しいんだよな」
「先生、最後のグループが終わるぜ。他の先生方が朝礼台にお集まりになってますがね」
「お、いかんいかん」
松本先生は、よっこらしょっと
ギイの隣りで仰向けになり、まだぜーぜー
「おい、だらしないの、生きてるか?」
「死んでる」
持久走なんて種目、一体誰が作ったんだ?
「そろそろ全体終礼だぞ。託生、回復力にも問題があるんじゃないのか」
「祠堂にマラソン大会がないのが、せめてもの救いだ」
「今年からあるってさ」
「何だって!?」
ぼくはガバッと起き上がった。
「
ギイがニヤリと笑う。ギイの肩越し、朝礼台に先生が立ち、ホイッスルを
「集合の合図だ」
立とうとするぼくの腕を
「────!?」
「託生、応援、
「だ、だ、だ」
「機関銃の真似か?」
「誰か見てたら──!」
「誰が?」
キョロキョロ周囲を巡らせたが、生徒たちは朝礼台の前へクラス毎に並ぶのでごった返していた。誰も、気に留めてない。
「けっこう、盲点だろ? 勝利の祝いに、キスはつきものさ」
「ギイって、大胆なんだね」
「いまさら何言ってるんだ。──自分で立てるか?」
「任せといて」
ぼくは、両手を地面に突いて(我ながら情けないポーズだ)立ち上がった。まだ
「ホラ」
ギイが
「ううん、いい」
そんな目立つこと、できるものか。「それよりギイ、松本先生って外見に似合わず、割と鋭いんだね」
「神経がワイヤー並みの太さに見えるけれどな」
ギイが言う。申し訳ないと思いつつ、ぼくはつい笑ってしまった。
「──あ、ところで」
ぼくは今頃、気がついた。「ところで、野崎さんのタイム、いくつだったの?」
ギイはおもむろに立ち止まると、それこそ
「あのね、いいかげんにしろよ。そんなことも知らずに応援してたのか」
空いた片手で、ぼくの頭を軽くこづいた。「ま、託生らしくていいか」
ニッコリ笑う。
今日の天気と今の気分に劣らない、すがすがしい笑顔だった。そして、くるりと
「あ、ギイ、タイム!」
ギイは走りながら、派手な投げキッスをよこして、
「ここまでおいで、
「ちょっと、ギイってば!」
きれいにはぐらかして、教えてくれやしない。
彼はけっこうに、意地悪なのである。
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