若きギイくん(へ)の悩み

「愛してる」

 と、ギイが言った。

「わかってるよ」

 ぼくは小声でそそくさとこたえる。「それより前向いて、前」

 そんなにじっとみつめないで欲しい。

「なんだよ、信じないのか」

「そうじゃなくて……」

「おい、崎義一! 隣りとなにぐちゃぐちゃしやべっとるんだ、立て!」

 ──ホラ、言わんこっちゃない。

 ただいま地理の授業中。特別教室でOHPを使っての授業なので、ギイはさっさかぼくの隣りに陣取っていた。教室ではもののみごとに端と端だからね。

 そのギイの、ぼくの隣りにすわる理由というのが、又、独断と偏見に満ち満ちているのである。自分が勝手に、ぼくを副級長に任命しておいて(誰にも、無論ぼくにも、有無を言わせなかった!)級長と副級長は常に行動を共にすべきだと公言してはばからない。

「崎、モスクワの人口は何人だ?」

 地理担当のげん先生がく。

「オレ、モスクワ行ったことないんで、わかりません」

 こら、ギイ。そういう次元の問題じゃないだろう。

「そうか、じゃあどこならわかるんだ?」

 玄田先生の声、わなないている。ゲンコツが飛んできそうだよ、ギイ。

「アメリカ、日本、イギリス、フランス、アイルランド、オーストリア、スイス、イタリア、スペイン、スリランカ、それから……」

「坐っていい! ただし、少し黙ってろ」

「はい」

 ギイは素直に席に着くと、「行ったことのない唯一の国の都市を質問するんだもんな」

 ボソッと言った。

「崎!」

「はい!」

「いいか、

 クラスのあちこちからクスクス笑いがれている。ギイは別段悪びれた風でもなく、軽く肩をすくめただけで、いつもノートをとっている愛用の万年筆を手に持った。ぼくはといえば、ほおづえをついて、そっぽを向いた。

 次回からは、絶対隣りに坐らせないようにしなくちゃならないね。

 しかし、しかしである。つまり、ソビエト以外は全部行ったことがあるなんて、ギイは一体どんな生活を送ってきたんだろう。十五歳まではアメリカで育ったと聞いてはいたけれど。──ぼくはから出たことだってないのに。

 うーむ。


「あいつ、オレを目のかたきにしてるんだぜ」

 授業のあと、ギイが言った。「玄田のヤロー、一時間に最低一度はオレをさすもんな」

「わかってるんだったら、先生の神経さかでするようなことをしなけりゃいいだろう」

 あきれてしまう。

「だって、託生に愛してるって言いたくなったんだ」

 ギイは至って真面目に言った。

 ──またでた。

「一日中言われてたら、却って真実味がくなるよ」

 一時間に最低一度はそう口にしているのを、ギイは自覚しているのだろうか。

 ぼくは地理の教科書やノートを束ねて、席を立った。

 特別教室を出て、教室に戻る途中、

「託生、オレ、シンケンなんだぞ」

「わかってるってば」

 今は五月半ば、そろそろ中間テストの時期である。中間テストを目前に控えた、これが高二の学生の交わす会話だろうか。

「本当にわかってるのか?」

 ギイがさん臭そうにく。

「わかってるさ」

「だったらここでオレにキスしてくれよ」

 ぼくは、何もないまっ平な廊下で、つまずきそうになった。

「ギイ、今、何て言った?」

「ここで、オレにキスしてくれ」

「──む……」

 休み時間の廊下は、天下の往来である。ギイのファンがそこら中を歩いてて、チラチラこっちを見ているのに、そんな事ができるものか。

「ぼくはまだ、死にたくないよ」

 四月、新入生がやって来たと同時に、ギイにファンクラブなるものができた。当のギイはまるきり関知していないが、盛り上がるのは一年生の勝手である。しかし、その影響はぼくにまで及ぶのだ。

「なんで託生が死ぬんだ?」

 ギイは訳がわからんと顔に書いた。

「ホラ、急がないと、次の授業に間に合わないぜ」

 ぼくが走り出すと、

「おい、待てよ」

 ギイも慌てて走り出した。


「愛してる、のバーゲンセールだもんなあ」

 ぼくはぼやいて、昼食のサラダ付きオムライスを一口食べる。と、

「何のバーゲンセールだって?」

 ふいに話しかけられた。

「や、やあ、がわ君」

 A組の級長、野川まさるがトレイを手に立っていた。

 いざ一学期が始まって、ギイの独断とはいえ副級長をやる羽目になったぼくは、生まれて初めて『委員会』なるものに出席するようになり、それにつれて、去年迄は絶対に、どう逆立ちしたって縁のなかった学年のトップクラス(成績だけじゃなくて)と、望む望まずとにかかわらず、お知り合い、になってしまっていた。とにかく、ギイと同伴というだけで、目立つこと目立つこと。

「珍しいね葉山君、今日はギイと一緒じゃないのかい」

「彼は先生に呼ばれて、今職員室に行っているんだ」

 と、ぼくがこたえると、野川勝は空いたぼくの隣りの席をさして、

「ここ、あいてる?」

 と訊いた。

「どうぞ、かまわないよ」

「では、失礼します」

 野川勝は腰を降ろしてから、わざわざ付け足すように、

「ここ、ギイの席じゃなかったのかい」

 と言った。

「そう四六時中、一緒じゃないさ」

 全く、他の人からそう言われてしまうくらい(多少のやっかみを含めて)ギイはぼくにベッタリくっついていたのだ。あんまりいつも一緒にいるので、あれからたった一か月とちょっとしか経っていないのに、多くの人がぼくとギイは昔っからの仲良しだと思い込んでいる。

 人間の感覚なんてあてにならないものだ。この野川勝もその一人である。

 しかし。

「葉山君はギイを独り占めだな」

 野川勝はポツリと言った。──言い方にとげがある。

「同室で、級長と副級長だからさ」

 というのが、言い訳になるとは思わないけどね。

「あんまりベタベタくっついてると、あの関係だと勘ぐられるぜ」

「あの関係って」

「セックスフレンド」

 ぼくはオムライスを皿ごとひっくり返しそうになった。

 サラリと言ってのけた野川勝は、平然として自分のオムライスを食べている。

「じ、冗談はやめてくれ」

 ほおあごからこめかみにかけてびっちりひきつってくる。最近はキスだって避けているのだ。

 人間接触嫌悪症。ギイは好きでも、そうカンタンに治りはしない。

「毎晩ふたりっきりでいるのにか?」

「二人部屋で同室なんだ、仕方ないだろ」

 なんでぼくが、野川勝に弁解しなけりゃならないんだ? くっついているのはぼくじゃなくて、ギイなんだぞ。

「ギイとふたりっきりで、よく何もないな」

 今度は、半ば感心したように、半ば馬鹿にしたように言う。

「同室のヤツといちいちできてたら、祠堂は全員、ホモにならなきゃならないだろう」

「ギイは特別だ」

 野川勝は言った。

 なんなんだ、もう! それでなくとも、ぼくはギイの妙な行動だけで、十分頭が痛いのに。

 ──ひょっとして。

「ひょっとして野川君、ギイにれてるのかい?」

 とたんに野川勝は真っ赤になって、

「そ、そんなこと言ってないだろ!」

 純情だ。

「ギイに言うなよ!」

 ガタガタ派手にを鳴らして、逃げ去った。


「たーくみ、一個くれ」

 応えるまでもなく、ギイはぼくの買ったパンにかぶりついた。

 雑木林の奥の日溜まり、草むらに腰を降ろして、ぼくは食べかけのパンにみつくのも忘れて、あっというまにパンを四つたいらげたギイを、ポカンと見ていた。

「もう一つ、食べる?」

 思わず、訊いてしまう。

「サンキュー、もらう」

 紙袋に残った最後のパンもペロリと食べてしまうと、パックの牛乳をすすって、ギイはやっとひとごこちついたようだった。「しかし、パンってのは米のメシと違って、腹にたまらないんだよな」

 チラリとぼくの食べかけのパンを見る。

「まだ食べたいのかい?」

「もらっていいのか?」

 駄目とは言えない。

「昼食にあぶれちゃうぐらい、先生にコキ使われてたんだ」

「自分は四時間目がアキだったから、先に済ませてんでやんの」

まつもと先生?」

「担任じゃねえよ」

「あ、まさか」

「地理の玄田!」

 やっぱり。

「ああ、さすがにお腹いっぱいになった。託生、ひざ借りるぞ」

「ちょっと、──ギイ?」

 ギイはさっさとぼくの膝に頭をのせると、仰向けになって目を閉じた。

「肉体労働させられたんだ、少し休ませてくれ」

おおなこと言って。──道路工事のごとでもしたのかい?」

 ぼくが笑うと、

「OHPの機械を、一階から四階まで、ひとりで運ばされたんだ」

「あの重たいのを!?」

 これがぼくなら、持ち上げるのがせいぜいだろう。玄田先生も殺生だ。

「そのかわり、これ」

 ギイは目を閉じたまんま、ブレザーの内ポケットから何やら出した。

「これ……?」

「託生にやるよ」

「これなに? 石ころ?」

 それは親指のつめの二倍くらいの大きさの、黄土色の石だった。

「それ、エメラルドの原石さ」

「エメラルドって、宝石の?」

「研磨すれば、かなりのモンだぜ」

「本物?」

「玄田がイスタンブールへ旅行したときに手に入れたのをもらったんだ」

「なんで? 高価なものなんだろ、そんなのをそう簡単にくれるわけ……」

「ひとりで運べたからさ」

「ギイ!」

けただけだよ」

「何と賭けたんだよ!」

「オレのパスポート」

「バカ!!」

 ひっぱたいてやりたい!

 ギイの籍はアメリカにある。だから、パスポートがなければ、ギイは日本にいられないのだ。

「託生にどうしてもそれをプレゼントしたかったんだよ」

「だからって、パスポート……」

「引き換えにしても、良かったんだ」

 ギイがパッチリと目を開ける。陽に透ける淡い茶色のひとみの色。混じりっけなしの。その目で見られると、ぼくは何も言えなくなる。

「──ねえギイ、ぼくはお礼にどうしたらいい?」

「何も」

 ギイは言った。「ひざを貸してもらってる。それだけで、充分だ」

 そしてギイは再び目を閉じた。

 忘れてないんだ、嫌悪症を。──ギイ。

「ありがとう、大切にするよ」

 ギイは口元だけ、笑ってみせた。


 キーン、コーン、カーン、コーン。

 のんびりと、ウエストミンスター寺院のチャイムが鳴る。(ところで、なぜ日本の学校のチャイムに外国の鐘の音を使うのか、ぼくは未だによくわからない)

 ぼくはハッとして顔を上げた。いつの間にかぼくももうろうとしていたのだ。

「ギイ、昼休みが終わったよ、急いで教室に戻ろう」

 ぼくの膝ですっかり眠っていたギイは、だるそうにまぶたを開けて、

「はいはい」

 よっこらしょっと体を起こした。「──れ?」

 ギイはじっと腕時計を見ている。

 パンのゴミを手早く片付けて立ち上がったぼくは、ギイを振り返った。

「どうかした?」

「今のチャイム、五時間目終了のチャイムだ」

「え─────っ!?」

 それはまずい。「それじゃあぼくたち、サボタージュしちゃったことになるのかい?」

「そういうこと」

「五時間目、英語だったね」

 ぼくは英語が大の苦手なのである。この上先生に目をつけられたら……。ああ、一学期のカラフルな成績表が目に見えるようだ。

「託生、こうなったらいっそのこと、六時間目もサボッちまおう」

「冗談じゃないよ、戻らなくちゃ」

うわさの的だぞ、今頃」

「? ──何が?」

「一時間もふたりでドロンしていて、託生とオレとの間に何が起こったかってさ」

「バラバラに帰ろう!」

「却って怪しまれる」

「ギイ、頼むから、たまには望みのある二者択一をしてくれよ」

「思われるんだったら、本当にしちまおう」

「本当って?」

「時の経つのも忘れて楽しむのさ」

 ギイはニヤリと笑う。ぼくは、ドキリとした。

 セックスフレンド。ふいに、先の野川勝のセリフが脳裏をかすめた。

「じゃあねギイ」

 紙袋をくしゃくしゃに丸めて握りしめ、ぼくは逃げるように駆け出した。

 全力疾走で雑木林を走り抜け、校舎の近くまできて、やっと足をゆるめる。でもギイは追い掛けてきてなかった。

 慣れたようにキスするギイ。アメリカで十五歳まで住んでいたギイ。キスの先も、慣れてるんだろうか。


「仲々良い度胸をしてるね、葉山君」

 赤池章三が腕組みをして、ぼくに言った。彼の制服の胸ポケットには、サンゼンと輝く風紀委員のバッジ。おかげで我がクラスの風紀の素晴らしいこと。「成績はともかく、真面目で堅物のきみが、どうしたことだい」

 おまけに相変わらず、きついのだ。──否定できない自分が悔しい。

 赤池章三のわきに抱えた出席簿には、赤いばってんが、本日の五時間目、葉山託生の欄に、しっかり印されているのだろう。

「ちょっと、ね……」

 五時間目の休み時間、クラスはワヤワヤしていたが、とりたてて誰も気にとめる風でもなかった。意外、というかほっとしたというか、気が抜けたというか。

「おい葉山、今日は先生の都合が悪くて自習だったから良かったものの、いつも目こぼすってわけにはいかないんだぜ」

 章三は言って、出席簿でぼくの頭をペタンとたたいた。

「自習だったのかい?」

 なんだ。心配して損した。

「ところでギイは?」

「ギイ?」

「一緒だったんだろ」

「べ、別に」

「ふうん」

 章三はぼくを上から下まで眺めると、「ま、どっちでもいいけどさ」

 と言った。

「──で、どこに行ってたんだって?」

 ふいにかれて、

「林で、ついうとうとしちゃって」

 思わずぼくはバラしてしまった。

 章三はとっても抜け目ないのだ。ギイの類友は(類は友を呼ぶ、の略である)ぼくには非常に、重荷である。鋭い連中ばかりなんだから!

「OK、ではあとでギイの裏も取ろう」

 章三は刑事みたいなことを言って、面白そうに足取りも軽く、廊下へ出て行った。

「──はい、教室移動。みんな、図書室へ行って、各班ごとに例題を調べること」

 六時間目の古典の時間、先生が教室に入ってきざまに言った。先生は出席もとらず、ぐるりと教室を見回しただけで、ポツンと空いた席のことには目もくれなかった。

 ギイは本当に、六時間目もサボタージュを決めていた。

 大胆不敵。はっきり言って、不良である。

 ところが。

「ヨウ!」

 図書室のドアを開けると、ガランとした室内にギイがすわって、ぼくたちに手を振ってみせた。

「崎義一」

 と、まず走って行ったのは、言うよしもがな、風紀に燃える赤池章三、かの人である。「なにしてんだよ、五時間目もサボッて」

 後半のセリフはもちろん、先生の手前、一応小声だった。

「オレ、ずっとここに居た」

 ギイはケロリとして言う。

 ──すぐばれるようなこと言って。

「あら、六時間目はここなの?」

 書庫から、司書の先生が本をどっさり抱えて現れた。「ギイ君、残念だったわね。連続サボ成らず」

 ──へ?

「悪いねセンセイ、今度また手伝うよ、古本の修復」

 ギイはぴょんと机から跳び降りて、ぼくの所に来た。

「託生、古典なにやるんだ?」

 ふいに耳を何かがかすめる。ぼくの髪がかすかに揺れた。ギイの息がそっとかかったのだ。ふわっと、甘い香りがぼくを包んだ。

「おい、ギイの班はこっちだぜ」

 向こうで誰かがギイを呼ぶ。ギイは肩をすくめると、軽くウインクして、そっちへ行った。

 どうなっているのだろう……。


「中間テストの範囲、職員室の前にり出されてたぞ」

 ギイは言って、寮の三〇五号室、ぼくの机にを滑らせた。制服のブレザーを脱いで彼のベッドに放ると、机に向かって古典の残りをせっせと片付けているぼくのわきに立つ。

「託生の班、随分とややこしいのを渡されたんだな」

「古典は苦手なんだ」

 ちっともわからん。日本語なのに。

「託生は頭が理数系向きにできてるんだよ」

 いつになくつつけんどんに、ギイが言った。「潔癖だから、答えがひとつでなきゃ、気が済まないのさ」

「そんなこと……」

 顔を上げたぼくに、

「あるじゃないか。友人どもに、全部レッテルを貼っておかないと気が済まないんだ。こいつはただのクラスメイト、こいつはただの顔見知り、こいつはただの同室者。──相手の気持ちが変化することには、目をつぶりたいんだよな」

「ギイ、一体何の話?」

「託生は、自分の気持ちが変化しないから、他人もそうだと思うんだろう」

「何を言ってるんだよ、ギイ」

「鈍感!」

「ギイ……?」

「オレと関係を持ったと誤解されるのが嫌で、逃げ出したくせに」

「だって、誰だって誤解されるのは嫌なもの……」

「馬鹿言え! オレは託生を好きなんだぞ!」

 ギイは拳でドンと机をたたいた。「どの世界に、好きな相手に手も出せずに平気な男がいるもんか!」

「…………」

「少しはオレのこと、考えてるのか?」

「ごめん、ギイ」

「謝ってもらいたくて言ってるんじゃない」

 考えていないわけじゃない。でも、少なくともぼくはギイに、キスされたいとは思わなかった。

 うつむいたぼくに、ギイはハッと短く笑い、

「馬鹿馬鹿しい」

 と言った。「託生、今の忘れてくれ。ちょっといらいらしてたんだ、悪いな」

 パタン、と静かにドアの閉まる音。廊下に消える靴音。ギイ、どこかに行ってしまった。

 ぼくは、溜め息。

 ギイの言うのはもっともで、ギイの言い分はわかるのだ。わかるのだけれども、心が、動かない。

 己れの想いに素直なギイ。自分の想いがどうなっているのかすら、わからないぼく。

 愛していると言える、ギイ。何度も、何度も。──何度も言わせてしまったのは、ぼくのせいだろうか。

 ふと、そんなことを考えた。


 次の日の昼休み、

「こんな所で会うだなんて、偶然だね」

 野崎大介がニコニコ顔で言った。──待ち伏せしてて、偶然もないもんだ。

「相変わらず誘い方ですね」

 ぼくが言ってやると、

「きみとは初めから、だ」

 野崎大介は登校日のカレーの一件を暗に指して、苦笑した。「しかし、はたで見ているきみは、誘えばすぐになびきそうなのに、実は気の強いヤツだったんだねえ」

 どうりで、軽々しくモーションをかけてきたわけだ。

「何か用ですか」

「急ぐ?」

「そりゃ、昼休みは永遠じゃありませんからね」

「きみの同室の、あいつ、さ」

 野崎大介は壁に肩だけ寄り掛かるようにして、片足を前に組んだ。どうも、いちいちポーズをつけないといられないらしい。「あいつ、きみに気があるんじゃないのかい」

「──はあ?」

「あの手の男はプレイボーイだからな、用心するに越したことはない」

 用心と言われても……。

「それだけを言いたくて、わざわざ待ち伏せしてたんですか」

 随分と暇なんだなあ。

「はい」

 目の前にチケット。しかも、クラシック。ほんとーに、懲りないんだから。また最前列だよ。オーケストラ!

「行きません」

「この前のはヤラセだったけど、これは本物だぜ」

 野崎大介は間髪入れずに断ったぼくに、大慌てで訂正する。「あれ以来、ぼくは葉山託生にれ直したんだ。その気の強さが最高だよ」

「あ、そうですか」

 ぼくは野崎大介のわきを抜けて歩きだした。

「ストップ! ──待てよ」

 野崎大介はくるりとぼくの正面に回り込み、「チケットの手配が遅れて、席は前になってしまったが、ちゃんと真ん中を予約したんだ。当日はコンディションを整えて、曲の途中でなんか、絶対眠らないようにするから、な」

「行きません。野崎さん、日付けちゃんと見てくださいよ」

 ぼくはチケットを指で弾いて、くすりと笑った。「中間テストのただなかじゃないですか」

「え!? ──あ、まずい」

 登校日の一件以来、野崎大介はぼくに対してポツリポツリと、それなりにモーションをかけてきていた。ぼくにすれば物好きな、というところだが、なんとなく憎めないのである。第一印象では、絶対にお近づきになりたくない男だと思っていたのだが。

 彼は登校日の次の日、始業式の直後、三〇五号室にやって来て、ギイに改めてもう一度謝罪をして、そしてぼくにも謝ったのだ。高林泉にそそのかされてやったことだと。あの高いプライドを彼にすれば、きっとかなぐり捨てて、頭を下げた。──これでは、第一印象だとて変わるというものだ。もっとも、ギイは野崎大介が部屋にいるあいだ、彼がどんなジョークを飛ばしたところでニコリともしなかったが。

「ということは、別の日だったらOKということかな」

 野崎大介がとして言った。

「残念ですけど。野崎さんのファンの方とでも一緒に行ってください」

「ぼくにファンなんていないよ」

「そうですか?」

「そうさ」

「おい、託生」

 廊下のT字の角から、ギイがヒョイと顔を出した。「何やってんだ、早くしろよ」

 いかにも待ちくたびれた、という口調でぼくを促す。ギイはとっくに理科室に行ってたはずなのだが、とにかく助かった。しつこいのも相変わらずなんだから。

「それじゃ」

 ぼくは野崎大介にあっさり別れを告げて、ギイへ駆け寄った。


「野崎なんかと話をするな」

 ギイは理科室に着くなり、言った。

「それって、やきもち?」

 ぼくはくすくす笑って言う。

「そうだよ!」

 ギイはぜんとして、ノートをたたきつけるように置く。「さっさと自分の席に行けよ!」

「はいはい」

 かわいいんだ、ギイ。

 理科室ではすわる席が教室と同じ配列なので、ギイとは端と端。そのかわりといってはなんだが、斜め前の席に、章三がいた。大きな実験用の机は六人掛けで、故に章三と御対面。

「わかったぜ」

 先に席に着いていた章三が、ぼくがに坐るひように、言った。そのセリフがぼくに対してだとるのに、ぼくはたっぷり三秒を要した。章三はあらぬ方を向いて、つぶやくように言ったのだ。

 机には既に六人きっちりメンバーがそろっていたので、章三は目で合図して、ぼくを理科室のベランダへと促した。

「わかったって、なにが?」

 章三はベランダの太いりに教科書を開いて載せた。

「ぼく、実験のことで質問してたっけ」

「カムフラージュだよ。本を見てろ」

 章三は押し殺した声で言う。わけがわからないけれど、ぼくは本をじっと見た。

「昨日、ギイが五時間目に本当はどこにいたのか、わかったぜ」

 ぼくはギクリとした。

「いまさら葉山に言う必要はないけどな。司書のなかやま先生がギイに頼まれて口裏を合わせてくれたのは、誰のためか、わかってるよな」

「誰って……」

「葉山託生。他にいないだろうが」

「ぼく?」

「はっきり言って、迷惑だね」

 章三は更に声を低くした。「ギイに気を使わせてばかりじゃないか。たかだか一時間、一緒にサボタージュしたってだけのことを、どうして隠す必要があるんだ。葉山は、ギイに余分な心配ばかりかける。高林の件だって、お前さんがちゃんと自分のすべき事をしていたら、ギイがわざわざ気を回して、あそこまでする必要はなかったんだ。まるでおんぶにだっこだぜ」

 ぼくはいささか、カチンときた。いくらぼくでも、そこまで言われたら腹も立つ。

「失礼しちゃうね、赤池君。断っておくけど、ぼくが頼んだわけじゃないんだからな」

「そのくせだ」

「な……!」

「さっき渡り廊下のへんで、野崎とくっちゃべってたろ」

「関係ないだろ、赤池君には」

「世間知らず」

「ぼくにケンカを売りたいのかい!」

 ぼくは小声で怒鳴った。

「売ったのは野崎だ。いや、結果的にはギイか」

「こねくりまわさず、ストレートに言えよ。ぼくを責めてるんだろ。だったら──」

「ギイが野崎とけをした」

「──え……?」

 章三はいまいましげに親指のつめむ。

「賭けの対象は葉山託生」

「ぼく!?」

「し────っ!!」

 と、タイミング良く(?)始業を告げるチャイムが鳴った。

「赤池君!」

「続きは放課後だ」

 赤池章三はサラリと流して理科室に入って行った。いうまでもなく、午後の授業は全部上の空だった。


「──あれは二枚舌か、さもなくば二重人格だね」

 章三は言った。

 放課後、章三は当番のトイレ掃除をぼくに手伝わせながら(けっこうちゃっかりしているのだ)事の成り行きを説明してくれた。

「ギイは、決して恩きせがましいことを言わない男だからな」

 確かにそうだ。ギイは、託生のためにアリバイを作ってやったぞ、とは言わなかった。でも、現にアリバイ工作をして、ぼくをホッとさせてくれていた。黙ったまま。

「野崎は無骨な男のふりをして、葉山のガードをゆるめる作戦でいたんだ。一度でも出掛けるのをOKすれば、っちまうのは簡単なことだとさ。力尽くでもおとしてみせるって仲間うちで豪語してるのを、ギイが通りがかりに聞いちまったんだよ。そしたら、そんなきような真似は許さんって、ギイが宣戦布告しちまった」

「いつのこと」

「昨日の放課後」

「ギイ、そんなこと、一言も」

「言うわけないだろ」

 章三はやけくそ混じりに、ホースで水をジャージャーく。清掃というより、水浸しにしていると称した方が相応ふさわしかった。

「それで、賭けって?」

「ふたりとも、体力に自信があるからね。スポーツテストの持久走のタイムで賭けたんだよ」

「だって、学年が違うから、一緒には走れないだろう」

「二年の方が三年より一日前だから、ギイの方が不利なんだがね」

「やめさせられないかな」

しやべるなよ!」

 章三はぴしゃりと止めた。「本当は、葉山には喋るなと口止めされてたんだ。同室のよしみでやるんだから、託生には関係ない、絶対喋るなって」

「赤池君……」

「こっちも宣戦布告の場に居合わせたのが悪かった。ギイは負ける気なんてさらさらないが、あんまりギイが不利なんだ。いくらギイがスポーツ万能ったって、運動部に入ってるわけじゃなし、片や野崎はバスケット部の部長だぜ」

 ──ああ、ギイ。

「しかも、当の葉山はそんなギイの気も知らず、脳天気にも野崎と〝談笑〟なんてなさっちゃって」

「赤池君、勝ったら野崎さん、どうするって?」

「ギイにパンチをくらわせて、葉山託生をモノにするとさ」

「負けたら?」

「逆さ。ギイがパンチを喰わせて、葉山には手を出さないと約束させる」

「そんなこと、──どうってことないのに」

「ギイにすれば、どうってことないで済まされなかったんだろ」

 章三は言ってのけた。「同室ので、賭けをする男じゃないぜ、やつは」

 知ってる?──章三。

「ギイに僕がバラしたの、喋るなよ」

 章三は付け加えた。「中間テストを前に入院するのはごめんだからな」


「託生、いいか、動詞の活用ってのは複雑なようで、単純なんだ。だいたいパターンの中に収まっちまう」

 ギイは英語の教科書の後ろのページをめくって、説明する。「聞いてるのか?」

「聞いてない」

「あのなあ、不得意科目だからと、人がせっかく──」

「英語なんて、どうだっていいよ」

 頭に何も入ってこない。それどころじゃないと、心が焦って、妙に騒いでいる。

「また赤点だぞ」

 ギイのからかいに、乗ってゆけない。

「赤点の方がかなあ」

 ぼくのセリフに、ギイはピクリとまゆを上げて、ぼくを見た。

「あんのやろ……」

 つぶやいて、部屋を飛び出す。

「ギイ!?」

 まずい! かつだった、彼の勘の良さをころりと忘れてた!

 ぼくは急いで追いかけた。ギイはためらうことなく、まっすぐに赤池章三の部屋に入って行く。乱暴にドアを開け放ち、

「章三!!」

 と怒鳴った。「どういうつもりだ、このヤロウ!」

 同室のおおりゆうがビビッて部屋の隅に逃げ込んだ。赤池章三はもたれにひじを突くと、チラリとぼくを見遣って、もう! というをした。

「どうもこうもないだろう」

 腹をえたかのように、章三は至って冷静である。「成り行き上だ、許せよ」

「ぬけぬけと、この……」

 ギイはつかつかと歩み寄り、怒りに任せて章三の胸倉をぐいと摑んで拳を握った。

「ギイ! ──ギイ、やめろよ!」

 ぼくは後ろからギイを羽交い絞めにした。効果のほどは定かでないが。「ぼくはけなんか嫌いだよ。仮に勝算があったって、ギイに賭けなんかしてもらいたくない」

 ふと、ギイの殺気がゆるむ。

「手を、離してあげてよ」

 ギイは章三から手を引いた。章三は大きく息を吐く。

「全く、バカぢから!」

 悪態ついて、章三はYシャツのえりを直しながら、「せいぜい持久走、がんばれよな」

 ギイは未だぜんとしたまま、ぼくの腕を摑むと、足音も荒く部屋を後にした。


「ぼくは誰にどう言われたって、気にならないのに」

 ぼくはギイの後をついて歩きながら、ポツンと言った。

「オレは気になるんだ」

 ギイがこたえる。ギイが向かうのは、寮の屋上だった。

 妙なものだ。ギイとのことを誤解されるのはあんなに嫌だったのに、ことこの件に関しては、野崎さん、好き勝手になんとでもうわさしててくれ、という感じだった。

「平気だよ、ふっちゃうから」

「カンタンに済むもんか」

「だって、野崎さんって、口だけって感じの人じゃないか」

 ギイは言った。

 それ、ぼくのこと? それとも、ギイのこと?

 屋上に続く重い鉄の扉を開けると、ギイは気持ち良さそうにふうと息をついた。

「屋上なんかで何するの?」

「持久走の練習。──つきあうか?」

「うん……」

「では、よーい、ドン!」

 ギイが走り出す。テニスコートが三面は作れそうな屋上へ。ぼくはブレザーを脱ぐと、扉の脇に放って、ギイを追いかけた。

「健全な精神は健全な肉体に宿る、ってな」

 ギイが顔だけぼくに振り返る。ギイのフットワークはとても軽やかだ。「託生、オレが心配か?」

「──別に」

「なんだ」

 ギイががっくりしたように走ったまま大きく上体を屈めて、ずっこける風にした。

「別に、心配なんかしてないさ。ギイが殴られたってかまわないさ。ぼくは、ぼくは……」

 熱く、視界がゆがむ。

「おいおい託生、頼むからこれ以上オレを落ち込ませないでくれよ。──え?」

 つと、ギイが立ち止まった。「……託生……?」

 ぼくは背中から、ギイを抱きしめた。Yシャツ一枚隔てて、ギイの体温が暖かい。

「ムボウだ、ギイ」

 声が、かすれてしまう。

 無謀だ、ギイ。いつだって、いつだって。

「泣き虫」

 ギイが言った。優しい声だ。ぼくの手を覆うようにギイの両手が重ねられる。骨っぽいのに、暖かい手。

「そんなに大切にしてくれなくたっていいのに」

「病気はどうした、託生?」

「しばらく忘れてて」

 漂う甘い香り。これは、ギイのコロンだろうか。

「しかし、理性が……」

 ギイは困ったように言う。「できれば離れて欲しいんだけど……」

 ぼくはもっと腕に力を入れた。

 ギイのフワフワの髪がほおにかかる。ギイの肩に額を押し当てて、ギイのにおいをかいでいたい。

 ギイはコホンとせき払いした。

「あのー、託生くん」

「ん?」

「できればバックじゃなくて、フロントに移動していただきたいんですが」

「フロント?」

「正面。こっち」

 ギイはダンスのターンをかけるようにくるりとぼくを正面へ引っ張った。そのぐさの手慣れたこと。同じ位の身長なので、顔の位置がピタリと合う。

「あんまり託生が抱きつくから、おかげで理性が吹っ飛んじまった」

 ギイは静かに微笑ほほえんだ。ぼくの背中にギイの腕が回り、ギイはそっとぼくに口づける。確かめるように、軽く口唇が吸われ、ギイは甘い息を吐きながら、幾度となく小さなキスを繰り返した。

「愛してるよ」

 キスの合い間にささやきがれる。

「──ぼくも……」

 ぼくは目を閉じたまま、ギイの背へと手をわしていった。


「──天はオレに味方したな」

 ギイは口笛を吹いて、屋上のフェンス越しにグランドを見下ろした。眼下では、三年生のスポーツテストの真っ最中である。

「つくづく悪運の強いヤツだよ、ギイは」

 赤池章三が言った。「な、葉山」

 ぼくはフェンスにもたれて、何とも返事に困ってしまう。ぼくだってまさか、昨日雨が降ることをギイがまえって知っていたとは、到底思わない。思わないけれど、ギイは大丈夫、大丈夫を連発していて、間際まで平然としていた。

 そしてスポーツテスト当日、朝からバケツの底が抜けたようなどしゃ降り。ところが昼にぴたりと雨が止み、あとはカンカン照り。二年生のスポーツテストは中止、グランドは夕方までには乾いたので、翌日の三年生は予定どおりにスポーツテスト。それで、明日に昨日の分が繰り越されたのだ。

 形勢一転。

「そろそろだな、持久走。野崎って、C組だろ?」

 ギイはフェンスの付け根に腰掛けた。長い脚をすっと組んで、──サマになる。

「ギイってカッコイイんだね、足が長くて」

 ぼくが言うと、

「ん──?」

 ギイはのんびりと、下からぼくをのぞき込んだ。

「ギイってとってもカッコイイんだ。彫が深くて、美男子だし、外人みたい」

「はあ?」

 ギイはキョトンとして、章三と顔を見合わせると、大爆笑!

「突然何を言うのかと思ったら」

 ギイは腹を抱えて笑い転げる。「ははは、面と向かってめられたのは、生まれて初めてだ」

「ギイの場合はよそフランスの血が混じってるんだもんな、多少、日本人離れはしてるよな」

 章三が涙をき拭き付け加えた。

 そんなにおかしなこと、言ったかなあ。

「だって、すごいことじゃないのかな。外国の血が混じってるなんて、スペクタクル!」

「ふふふ。託生、お前、妙なところで感心してくれるんだな。オレの母親がハーフってだけのことなんだぜ」

「ハハッ、葉山といると飽きないよ」

「──失礼な」

 ぼくは章三をにらみつけてやった。「それより、昼休みもう終わるぜ」

「託生、行っていいぞ。オレはあいつのタイムを聞いてから、教室へ戻る」

「おー崎義一、風紀委員を前にして、よくぞ言った」

 章三はポキポキ指を鳴らす。

「腕力じゃオレが勝つな」

 ギイは優雅にウインクを返した。

「反対されてもつきあうぞ」

 章三は言った。

「へ?」

 これはぼく。「そんな、──いいの?」

「乗りかかった船だ。三人でサボると目立つけど、どうせテスト配って、答え合わせするぐらいなもんだろ」

「ふたりとも授業に出ろよ。わざわざつきあうことないだろ」

 ギイはグランドをりながら突き放すように言った。

「五時間目って、英語だっけ」

 数週間前の同じ時間に、ふたりで眠りこけて、そのうえ六時間目まで一緒にサボらせようとしたギイの、同じセリフとは思えない。

「託生、オレの分もしっかり答え合わせしておけよ」

「──うん」

「じゃ、あとでな」

 ギイはチラともこっちを見ずに言った。ぼくと章三は目を見交せて、仕方なしに屋上を後にした。


「答え合わせしとけったって……」

 ギイのテストは模範回答として、黒板にペタと磁石でられていた。「かんぺき

 片やぼくは、ギイの特訓があったのに、六十三点。いやはや。しかし、いままでの最高が五十点なのだから、大した進歩だ。

 章三のおかげで、ギイは急な腹痛で保健室で寝ていることになっていた。ギイのことだ、野崎大介のタイムが早々に判っても、五時間目はしっかりサボタージュを決めこむことだろう。

 案外、明日のために屋上で走ってるかな?

 あのバカバカしいけは、もって健在だった。今朝ぼくは野崎大介に呼び出され、君のためにベストタイムを出すよ、なんて、とろけそうな表情で告げられてしまったのだ。

 野崎はまだ、賭けの一件をぼくが知っているとは気づいていない。

 自信満々だった野崎大介。三年で一番、ってことはまずありえないけれど、ベストテンには入る俊足だろう。

「バカバカしい賭け、か……」

 窓の外、はるか下方に街並が広く見渡せる。その先に、大海原。

 のびのび生きてるギイ。その印象は、ギイがいつでも一所懸命だからなんだ。彼の濁りのない透けるようなひとみは、いつもまっすぐ。嫌なものを避けない、まっすぐさ。

「──どう?」

 グランドでは、最後のグループのタイム読みが始まっていた。

「五分五分ってところかな」

 ギイは屋上で体操をしていた。額にうっすらと汗。やっぱり走ってたんだ。

「ギイ、においがする」

「臭いか?」

 ギイは肩に鼻を寄せて、くんと匂いをかいだ。「かなり汗かいたからな」

「コロン?」

「オレ?」

「そう、好きだな、この香り」

「安物だぜ」

 ギイは苦笑した。「一オンス、一ドル八十二セント。タツクス込み」

「負けないでよね」

 ギイの笑いがぴたりと止まる。

「初めて、言ったな」

 ギイは言った。「オレ、託生が今回のことをどう思っているのか、初めて聞いたよ」

「絶対、負けないで」

 ギイが好きだから。

「──そのつもりだ」

 ギイ以外の誰でもなく。そう、ギイがぼくに告げたように、ぼくも、ギイ以外の誰でもないんだ。ギイが、特別なんだ。

「ぼく、何をすればいい?」

「応援してくれるだろう」

「応援するよ、大声で」

「最後の一周で、オレに一番大きな声援を頼むぜ。オレの弱点は、ラストスパートに力がないことなんだ」

けなんて、どうでもいいと思ってたけど、負けるのは嫌だ」

「賭けじゃない、だ」

 ギイの瞳がキラリと光る。「明日は絶好の五月晴れになるぞ」


 穏やかな寝息が、隣りのベッドから聞こえている。ぼくは仲々、寝つかれなかった。

 カーテンのすきから、遠慮深げに忍び込む月の明かりに、ぼんやりとギイの寝顔が浮かぶ。

 ──どこの世界に、好きな相手に手も出せずに平気な男がいるもんか!

 あの時の、ギイのジレンマが、今はほんの少し、わかる気がする。

 ぼくは本当に鈍感で、宣戦布告して帰ってきたギイに、ギイの心も思ってやれずに、むしろ謝らせてしまった。

 黙って、勝つつもりだったんだろ? ぼくには一切を告げないで、何もなかったことにしたかったんだろ?

 ギイに話してしまおうか、本当のことを。

 ──けれど、まだ怖いんだ。それによってギイを失うことになったら、ぼくは悔やみきれなくなる。

 今は、ギイが誰より大切だから。

 ぼくは、ギイが思うほど、きれいじゃないから。

 逃げて通れないことがわかっていても、その勇気がぼくにはない。

 人間接触嫌悪症。うまく名付けてくれたね、ギイ。抱かれたら、初めてじゃないと、すぐにわかってしまうだろう。二か月近く一緒にいて、無理矢理にでも抱こうとすればできたのに、そうしなかったギイの優しさが、時々辛い。抱かれたくはないんだ。でも、耐えるのは辛いだろう? ──っているけれど、同じ男だから、欲望を抑えることがどんなにきついか、でも、認めてしまったら、ぼくはどうしていいかわからなくなってしまうんだ。

 耐えているのを、おくびにも出さなかった、ギイ。あの日、あの一言だけ、ぼくに本心をさらしたギイ。

 どうすればいいんだろう。

 ギイの好意にこたえたい。応えたいけれど、──そうなのだけれど……。

「だったらオレにキスしてくれよ」

 巧みにジョークに紛らせていたんだね。

 ぼくからギイにキスしたことなんて、一度もない。キスをねだったことも、ない。

 ギイ、未だに一歩を踏み出せないぼくだけれど、ごめんね。

 ぼくはそうっとベッドから降りると、すっかり熟睡しているギイの寝顔を起こさないよう気をつけてのぞき込んだ。

 薄く開いた口唇に、わずかに触れるだけの、キス。

 二度と誰も愛せやしないと思い込んでいたぼくに、そうじゃないと教えてくれたギイ。ギイはぼくの過去を知らないのに、ぼくの心をこんなにも変えてしまった。

「ギイ、ぼくからのキス、受け取ってよね」

 ささやいて、もう一度、キス。

 もし明日ギイが勝ったら、ぼくはどうしよう。

 けは嫌いだけれど、五分五分といったギイ。ギイのために、ぼくは決めなきゃいけないんじゃないだろうか。

 ──そう、きっとそうだ。


 耳を貫くようなピストルの音がグランドに響いた。一斉に走り出す、第三グループの生徒たち。

「へえ、すごいな、ギイ」

 びっくりしたように章三が言った。「いきなり独走態勢だぜ。あんなにとばして、おしまいまでつのかね。千五百メートルは百五十メートルじゃないんだけどな」

 群を抜いて走るギイ。まるで翼がついているかのように軽やかに走り抜けてゆく。

「恋する男は盲目だ。ギイもただの男だよなあ」

 章三はぼやいて、ぼくを見る。「葉山のどこにれたんだろうね」

「それはぼくがきたいよ」

 ぼくは笑ってしまった。「当のギイにも、よくわかってなかったりして」

「それはあり得る」

 章三も笑う。「でも、かなり本気らしい」

「いつ、わかった?」

「なんとなく、そうかな? そうかな? と日が過ぎていって、ま、決定打は宣戦布告だね。ギイは元々級長体質だから──」

「そんな体質があるんだ」

「あるのさ。四月の一件も、当時は単なるおせっかいだと判断してたわけ。去年もちょくちょく動いてたから。それで、我がクラスは退学者ひとりもなし、だったんだ」

「いたの?」

「放っておけば、二、三人ね。ヤツの人気はダテじゃないんだぜ」

「知らなかった」

「ギイは異様にかけひきがうまいのさ。あれは父親譲りだね。社会に出てから出世するぞ。もっとも──」

 章三は唐突に言葉を切った。ギイがビリの人に追いついたのだ。追い越して、ピッチはまだ落ちない。「ギイのベストじゃ、ギリギリだもんな」

「五分五分って、本人は言ってたよ」

「四分六さ」

「どっちが四?」

「ギイ」

「──……」

「あいつ、いっつもラストスパートって時にぐんとスピードが落ちるんだ。短距離向きだからね。それを計算に入れて、最初とばしてるんだけど、──どうかね」

「赤池君はギイを好きかい?」

「あたりまえだろ」

「ぼくとのことは、快く思ってないね」

「そうだね」

「ギイが負ければいいと思う?」

「半分。──いや、三分の一かな」

「ぼくは、ギイが好きだ」

「ふむ。だろうね」

「どうしても勝って欲しい」

「それで?」

「最後の一周、ぼくも走る。君はぼくより足が速そうだ。だから、君も一緒に走ってくれ」

 章三は一瞬、言葉を失った。

「頼むよ、赤池君」

「奇抜な提案だな、そいつは。この後すぐ、僕たち第四グループの持久走が始まるんだぜ。第一、そんなことをしたら先生に大目玉をくらっちまう」

「勝って欲しいんだ。ぼくは、──ぼくは万が一にでも、野崎大介にられようと何されようと、本当は全然平気なんだ。誰もぼくを好きになんかなっていなければ、ぼくはかまわないんだよ」

 ぼくのセリフに、章三はギョッとした。──だろうね。

「おい、葉山、正気か?」

 ぼくの額に手を当てるをする。「この手を当てただけで卒倒しそうなくせに」

「正気だよ。でも、ぼくがそんなことになって、誰かひとりでも悲しむのなら、ぼくはそうなりたくないんだ。ぼくはギイを、悲しませたくない。頼むよ、協力してくれよ」

 章三は考え込んでしまった。腕を組んでうつむいたが、やがて上目使いに校舎を盗み見るなり、

「よし、協力しよう」

「ありがとう!」

「ただし、今度こそ、今しやべった葉山のセリフをギイに言うなよ。誰に犯られても平気だなんて、絶対に言うな。ギイは宝物みたいに、お前さんを大切にしてるんだから」

「わかってる」

「──大丈夫かいね」

「約束する!」

 約束するさ。──ああ、後三周。


 最後の一周にさしかかったとき、ぐっとギイのスピードが落ちた。

「行くぞ、葉山!」

 章三がいち早く走り出す。ぼくは全力で追いかけた。

 トラックの内側、ギイのわきにぴたりと寄って、

「ギイ、葉山がお前と走るってさ」

 章三が耳打ちした。そして、ギイの後ろを回り、「僕も不本意ながら、走ることにする。リードするから、ついてこい」

「──サンキュー!」

 ギイが笑う。苦しそうな呼吸。

「ギイ、頑張って!」

 ギイはぼくに、大きくうなずいてみせた。

 フットワークがみるみる戻る。

「こら! そこの二人! 走者の邪魔をするな、どけ!」

 メガホンがえた。体育科の先生のしつせきが背中を突く。でも、かまうものか。

 校舎のどこかで野崎大介は見てるだろう。ぼくは誰にもギイを殴らせたり、しないんだ。

「ギイ、ファイト!」

 ゴールが近い。タイム読みが始まる。

「ギイ、三十秒台で入れば、野崎に勝つぞ」

 章三が切れ味の良いアドバイスをした。

 ギイの息が荒い。呼吸はずっと乱れっぱなしだ。

 最後のコーナーを回る。残すは直線、約四十メートル。

 カウントを読み上げる先生の声が、一歩毎に大きく聞こえる。

「二十四! 二十五!」

 ──え? もう、そんな?

 ギイはキッとゴールを見据えた。

「二十九! 三十!」

 まだ、まだ駄目だ。こんなに早くタイムが流れてしまうなんて。

 残り五メートル。

「三十四! 三十五!」

 ──ギイ!

 四メートル。

「三十六!」

 三メートル。

「三十七!」

 二メートル。

「三十八!」

 一メートル!

 その時、ギイの足がもつれた。

「ギイ、危ない!」

「三十九!」

 神様!!

「トップ、崎義一! タイム、四分三十九秒! 本日のベストタイムだ」

 わーっと拍手が起こる。

 ギイの体はテープを切っていた。

「だらしないぞ運動部。このタイムを破らんと、運動部全員、放課後、持久走のやり直しだ」

 の先生のお言葉には、賛否両論。

「ギイ! 良かった、転ばなくて!」

「やったじゃんか、このやろ!」

 ぼくと章三の声が耳に届いているのかどうか、ギイはゴールからヨロヨロとグランドの中央に来ると、ふらついた足取りのまま、崩れるようにグランドへ大の字になった。

 激しく胸が上下している。

「第四グループ、位置につけ!」

 メガホンが容赦なく呼びつける。ぼくたちはギイが気掛かりながらも、集合場所へと走って行った。


「珍しいな、崎が本気でスポーツテストをやるなんて」

 担任の松本先生が、ギイのわきにしゃがみこんで言った。白のジャージが大きな体を一層大きく見せる。

 ギイはやっと呼吸も正常となり、地面に胡座あぐらをかいて、

「珍しいは余分だろ」

 松本先生に抗議した。

「崎が必死に走ってる姿を初めて見たよ。フォームはめちゃくちゃだが、良いタイムじゃないか。どうだ、うちのラグビー部に入らんか、あのファイトは貴重だ」

「オレはスレンダーを売り物にしてるんだ。先生みたいなプロポーションになったら、イメージダウンだぜ」

たくましいと言え。──ところで、め事が起きたのか」

「全然」

「そうか?」

 疑いの眼差し。

「そうだよ」

「どうも、崎が真剣に物事に取り組んでる時ってのは、怪しいんだよな」

「先生、最後のグループが終わるぜ。他の先生方が朝礼台にお集まりになってますがね」

「お、いかんいかん」

 松本先生は、よっこらしょっとひざを伸ばすと、「そっちのだらしないの、しっかりしろよ」

 ギイの隣りで仰向けになり、まだぜーぜーあえいでいるぼくに声をかけて、立ち去った。

「おい、だらしないの、生きてるか?」

「死んでる」

 持久走なんて種目、一体誰が作ったんだ?

「そろそろ全体終礼だぞ。託生、回復力にも問題があるんじゃないのか」

「祠堂にマラソン大会がないのが、せめてもの救いだ」

「今年からあるってさ」

「何だって!?」

 ぼくはガバッと起き上がった。

うそだよ」

 ギイがニヤリと笑う。ギイの肩越し、朝礼台に先生が立ち、ホイッスルをくわえると、ピリピリと鋭く鳴らした。

「集合の合図だ」

 立とうとするぼくの腕をつかんで、ギイは素早くキスをした。

「────!?」

「託生、応援、うれしかったよ」

「だ、だ、だ」

「機関銃の真似か?」

「誰か見てたら──!」

「誰が?」

 キョロキョロ周囲を巡らせたが、生徒たちは朝礼台の前へクラス毎に並ぶのでごった返していた。誰も、気に留めてない。

「けっこう、盲点だろ? 勝利の祝いに、キスはつきものさ」

「ギイって、大胆なんだね」

「いまさら何言ってるんだ。──自分で立てるか?」

「任せといて」

 ぼくは、両手を地面に突いて(我ながら情けないポーズだ)立ち上がった。まだひざがガクガク笑ってる。

「ホラ」

 ギイがひじを差し出した。「つかまれよ」

「ううん、いい」

 そんな目立つこと、できるものか。「それよりギイ、松本先生って外見に似合わず、割と鋭いんだね」

「神経がワイヤー並みの太さに見えるけれどな」

 ギイが言う。申し訳ないと思いつつ、ぼくはつい笑ってしまった。

「──あ、ところで」

 ぼくは今頃、気がついた。「ところで、野崎さんのタイム、いくつだったの?」

 ギイはおもむろに立ち止まると、それこそあきれたように腰に片手を当てて、

「あのね、いいかげんにしろよ。そんなことも知らずに応援してたのか」

 空いた片手で、ぼくの頭を軽くこづいた。「ま、託生らしくていいか」

 ニッコリ笑う。

 今日の天気と今の気分に劣らない、すがすがしい笑顔だった。そして、くるりときびすを返すと、列に混ざりに行ってしまう。

「あ、ギイ、タイム!」

 ギイは走りながら、派手な投げキッスをよこして、

「ここまでおいで、かわい子ちゃ

「ちょっと、ギイってば!」

 きれいにはぐらかして、教えてくれやしない。

 彼はけっこうに、意地悪なのである。

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