クライヴと観劇(前編)

 リラは廊下の奥の柱の陰でひとり涙を溢していた。

 必死に堪えようと思うものの、涙はリラの意思とは反し止めどもなく溢れるのだった。


 自分の無力さが虚しかった。

 愛しい人が困っているのに、クライヴを助けることもレベッカに怒ることもできずに、ただただ蒼ざめ言葉もでない自分が心底情けなかった。


 そんな気持ちと裏腹に、もしクライヴが一言でもレベッカに逢うことを教えてくれれば、こんな悲痛な想いにはなかったのだ。

 そんな怒りと悲しみが沸々と湧き上がきた。


 やはり、リラとクライヴは所詮ただの『恋人』だ。


 そんなことを一々相手に話すほどのことでもないのだろう。

 男性経験のないリラには、これが普通なのかそうでないのかわからず、そう思い納得するしかなかった。


 けれど、リラは誠意をもって今日の観劇にロイドがいることをクライヴに伝えたのだ。


 クライヴもレベッカに逢うことを伝えても良いのではないだろうか。

 それをなぜ伝えなかったのだ。


(やはり、私とは遊びだったのでしょうか…。)


 リラにとてつもない不安が押し寄せ、それを肯定するようにリラの脳裏にレベッカの言葉が思い出された。


『そのご様子ですと、クライヴ様から何もお伺いしていないようですね。やっぱり、ただ遊ばれていただけでしたのね。』


 リラの不安は益々膨れ上がった。


 もしかしたら、リラがアベリア学園で授業を受け不在の間にクライヴは他の令嬢とこのように観劇や食事を行なっていたのかもしれない。


 一瞬、リラは良からぬ妄想をしたものの、慌てて首を大きく横に振った。


(そんな筈はない。)


(クライヴ様は、いつも私を愛してくださっている。)


(信じたい…。)


(でも、自信がない…。)


 リラは拳を強く握りしめた。


(悔しい…。)


 こんなことなら、躊躇いも恥じらいも全て捨てて、早々に婚約してしまえば良かったのだ。

 そしたら、このような現場に居合わせても、文句のひとつやふたつは容易く言えるのだ。


 そんなことを思うものの、やはりリラはクライヴが大好きで、愛しくて仕方がなかった。


 不満を並べながらも、一方でこんな醜態を見られてはクライヴに嫌われてしまうかもしれない。

 今度は違う不安が、リラに襲いかかった。


 早く涙を止めて、早く呼吸を整え、早く冷静になって、早くクライヴと話さねばならない。

 そう思っても思っても、涙は止まることなく流れ続けた。




「リラ嬢…。」


 ロイドは、泣きじゃくるリラの姿を見つけると慌てて声をかけた。

 リラは、その声にビクリッとし、慌てて涙を拭い振り返った。


「す、すみません。と、取り乱してしまいまして。少し落ち着くまで、こ、こちらにおりますので、皆様は、先にお席でお待ちいただけますか。」


 リラは、必死に取り繕ったぐちゃぐちゃの笑顔でロイドに答えた。


 こんなときでも気丈にも冷静に振る舞おうとしているリラをロイドは思わず抱きしめた。


「無理はしないでくれ…。」


 ロイドは気の利いた言葉などひとつも浮かばなかった。

 けれどリラがつらい状況にも関わらず、気丈に振る舞おうとする姿が痛々しく、それでいて愛らしくて仕方がなかった。


 リラは突然のロイドの行動に驚いた。


 リラの胸に、恋人がいながら他の男性に抱きしめられるのは裏切り行為ではないのかと、そんな不安が押し寄せた。


 けれど、ロイドの優しい腕は、リラのぐちゃぐちゃになった心には温かく包み込み、押し除ける気力さえ奪っていくのだった。


 リラは堪らず、堪えていた涙がまた溢れ出し嗚咽を溢しながらリラはロイドにクライヴの不満をぶちまけたのだった。


「なんで…クライヴ様は…何も…おっしゃって…くれなかった…でしょう…。」


「私は…クライヴ様に…今日のこと…お話ししましたのに…。」


「私、クライヴ様と…恋人ですのに…。」


「私は…クライヴ様…とって遊びだった…で…しょうか…。」


 ロイドは優しく頷きながらリラの頭を撫でるのだった。


「リラ嬢、私ならそんな悲痛な思いは一度たりともさせないと誓う…。だから…。」


 そうロイドが言いかけた、そのとき、クライヴが廊下の向こうからこちらに駆け寄ってきた。


「リラ!」


 クライヴは抱き合うふたりを見て慌ててそう叫んだ。


 リラは、その声を聞くとロイドから直様離れ、ぐちゃぐちゃの顔でクライヴに駆け寄っていった。


「ひどい…です。」


 リラはそう口にしながらもクライヴに震えながらしがみつくように抱きつくのだった。


「すまない…。」


 クライヴは大粒の涙を流すリラを力強く抱きしめた。


「なんで…言ってくれなかったの…ですか。」


「すまない…。」


「私とは…遊びだったの…ですか。」


「まさか、愛してる。」


 クライヴはそう言うと悲痛な表情を浮かべながら震える手でリラのの頬に触れ、リラの泣き腫らした潤んだ瞳を見つめた。


「本当に、すまない…。」


 リラはそんな苦しそうなクライヴに見つめられては、言い返すことなどできなかった。


 クライヴもまた愛しいリラがこんなにも泣き崩れているのを目の当たりにしつらいのだ。

 クライヴは今、自分の不甲斐なさを恥じ、悔やんでも悔やんでも悔やみきれないのだ。


 リラは、そんなクライヴの想いが痛いほどに伝わり、先ほどまで浮かんだ文句や不満を言葉することができなかった。


「ずるいです…。」


 リラはそう呟くと、今度はクライヴを強く優しく抱きしめるのだった。

 クライヴはリラのその行動に少し安堵したかのように、優しく抱きしめ返すのだった。


 ロイドは、そんなふたりから静かに立ち去っていった。




「あとで、ちゃんと言い訳聞かせてくださいね。」


 リラはすっかり落ち着きを取り戻すとクライヴにそういった。


「ああ。本当にすまない。」


 クライヴは頼りなく頷いた。

 そんなふたりの様子を伺いながら、駆け寄ってきたのはデイビッドだった。


「殿下、リラ嬢。お話ししてもよろしいでしょうか。ユングフラウ侯爵のことでご報告がございます。」


 デイビッドのその言葉に三人は玄関ホールに戻ることとなった。


 玄関ホールに戻ると既に、レベッカとその父であるユングフラウ侯爵それに野次馬たちはいなくなり、いつの間にか皇室警備隊が訪れロイドたちと何やら話し混んでいるようだった。


 リラは、想像もしていなかった事態に驚いた。


「ああ。アクイラ国皇子、リラ嬢お戻りですか。」


 ロイドは三人の姿に気づくとレナルドと共に駆け寄った。


「アクイラ国皇子、この度はユングフラウ侯爵とその娘のレベッカ嬢が大変失礼いたしました。先ほど、皇室警備隊を迎え、ふたりは馬車で調書を取るため移送しております。ふたりの処遇については、我々と皇室警備隊が責任を持って調査し、しかるべき処遇をさせていただきます。」


 ロイドはそう言うと、ふたりは深々と頭を下げるのであった。


「いや、アベリア国皇子が詫びることではないだろう。これはユングフラウ侯爵の問題だ。」


「いえ、アクイラ国皇子は国賓としてお越しいただいております。もし、その御身に何かございましては、責任の取りようがございません。」


 ロイドはそういうとリラにチラリと目をやった。


「リラ嬢。申し訳ないのだが、私は後始末があるので共に劇を観ることは叶いそうもなさそうだ。」


「そうですか…。」


 リラはロイドの言葉に悲痛な表情を浮かべた。


「また、日を改めて是非行きましょう。」


「ああ。もちろんだ。」


 ロイドはそう微笑むと懐からチケット取り出した。


「もしよければ、アクイラ国皇子、こちらの席でリラ嬢とおふたりでご覧になってはいかがだろうか。」


「ありがとう、ロイド殿下。」


 クライヴは優しく微笑むとロイドからチケットを受け取った。


「では、クライヴ殿下。私は後始末がございますので、こちらで失礼させていただきます。」

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