第10話 手料理
「うん。だからね、ここはこの公式を当てはめるの――」
隣から巴が健二に問題の解き方を教えている。
右手で髪を抑え、左手の人差し指を教科書の問題文に走らせながら解説をしているのだが……。
先程から健二は別のことが気になっていた。
そっと隣を見ると、巴の整た顔立ちが目に飛び込んでくる。
艶やかな唇に血色がよいのかほんのりと朱が差した頬。学校でも美人で有名な女性がこの距離で話をしているので、普通の少年なら気にならないわけがないのだが、健二が注目しているのは巴の姿だった。
彼女は何やらエプロンを身に着けていたのだ。
白のフリルに桃色の生地で作られているエプロンは巴の可愛らしさを強調し、家庭的な面をいやでも意識させる。
巴が身体を動かすたび、何やら甘い香りが漂ってきて健二の胃袋を刺激するので、なかなか説明が頭にはいってこない。
「聞いてます? 岡崎君?」
健二が気を取られていると、巴が琥珀の瞳を覗かせ健二に問いかけてきた。
「ああ、うん……ここの答えはつまり……こう?」
かろうじて聞いていた解説を基に問題を解くと、どうにか進めることができた。
やがて解答までたどり着くと……。
「うん、正解です。よく頑張りましたね」
問題を解くと、巴は心の底から嬉しそうな笑みを浮かべ健二を褒める。
元々勉強が好きではなく、わからない箇所があると集中力が切れてしまう健二。
巴は健二が何度間違えても言葉を変え、理解できるように根気よく説明をしてくれる。
そのお蔭で嫌な気分になることなく、問題の解き方がわかったので、健二は巴に感謝をした。
「それじゃあ、次はこの問題ですね。この公式を使えば解けるはずです。今の問題とそう変わらないので、やってみてください」
巴はそう言って教科書に丸を付ける。
次の問題を指示した巴は、健二が真剣な表情で問題を解き始めたのを見て席を立つ。
そして音を立てないようにドアノブを回すと静かに部屋を出て行った。
「さて、そろそろ容器に流し込んで……」
勉強会が始まってから何度も応接室とキッチンを行き来している巴。
彼女は朝早くに起きてからずっと料理を作っていた。
生地を流し込みオーブンにセットする。この時ばかりは普段見せないような真剣な表情を浮かべている。
「岡崎君。喜んでくれるでしょうか?」
オーブンで生地が焼けているのを確認した巴は、そんな不安そうな声を出した。
ダーツの練習を見てもらうようになってから、2人は昼食を一緒に摂るようになった。
健二はいつも同じ購買のパンを買っているので、好みが良くわからない。
「せっかくだから、栄養をつけてもらわないと……」
巴が見る限り、健二は健康に悪そうな食事ばかりしている。
静香からスーパーで会った状況を聞いたところ、家でもカップ麺やレトルトばかり食べているのだという。
このまま放って置いたら体調を崩すのではないかと心配になった巴は、この機会に食生活を改善できないかと思っていた。
「味付けは薄目だけど、そこは調整すればいいかな?」
朝から頑張っていたせいで、静香から生暖かい目を向けられたが、ダーツを教えてもらっている恩義に報いてるだけなので、特に何かあるわけではない。
健二のアドバイス通り、調理の合間にもフォームのチェックとして動画を流しているので、無駄な時間もなく気が付けば昼時になっていた。
「そろそろ、お昼休憩にしませんか?」
応接室に戻り話し掛けたところ、没頭していたのか、少し遅れて健二が顔を上げる。
「えっ? もう?」
元々ダーツをやっていただけあってか、健二の集中力には目を見張るものがある。
目標を設定し、それを達成しようとする時の真剣な表情を見ているのが巴は好きだった。
「気付いてます? 岡崎君が勉強を始めてからもう3時間経ってるんですよ?」
時計を見ると既に13時近い。健二が来たのが9時頃なので、実に4時間近く集中していたことになる。
「いつの間に……?」
時計をみた健二は、まさか自分が嫌いな勉強をしていて時間を忘れるとは思わなかった。
「やっぱり、岡崎君は集中力ありますね」
驚いている健二に、巴は口元に手を当てると楽しそうに微笑んだ。
「一応、こっちで勝手に用意しちゃっいましたけど、苦手な料理があったら言ってくださいね」
巴はそう言うと、健二を連れてリビングに移動した。
「沢山作ったから一杯食べてくださいね」
テーブルには所狭しとばかりに料理が並べられている。
唐揚げやポテトなどの揚げ物、パスタやスープなど、他にはサラダも山盛り盛り付けられている。
「凄げえ」
家でレトルトしか食べておらず、外食などしない健二にしてみればこのような御馳走を見るのは実にひさしぶりだった。
「いただきます」と律儀に言ってから食べ始める健二を、巴は暖かい目で見守る。
唐揚げにポテトや揚げ物、他にも巴が用意した料理を次々に食べては幸せそうな顔を見せる。
これまではダーツでしか関わることがなかったので、そのような表情を見ることがなかった。
こうして美味しそうに食べているのを見ると巴は胸が暖かくなるのを感じた。
しばらくの間、生暖かい目で健二が料理を食べるのを見守っていた巴だが……。
「あっ、岡崎君。野菜もちゃんと食べないとだめですよ?」
当初の目的でもある食生活の改善を思い出し、健二に注意をする。
「んぐっ?」
喉に詰まったのか、健二は食べていたものをお茶で流し込んだ。
「わ、悪い……こんな美味しいのひさしぶりだったから……」
「そう言ってもらえると嬉しいです」
健二に褒められた巴は笑顔を見せると自分も食事を続ける。元々、誰かを喜ばせるのが好きなので気分が弾んでいた。
巴に注意された健二はというと、素直にサラダに手を付け食べ始めた。
プチトマトが苦手だったのだが、ここで巴の笑顔を曇らせたくないと思い必死に飲み込む。
巴は浮かれていたのでそのことに気付くことがなかった。
小一時間程かけて、健二は用意されていた料理を全部平らげた。
「本当に、美味しかった」
満足してお腹をさする健二。
やや食べ過ぎた感はあるが、このような家庭的な料理を食べるのは約一年ぶりである。
健二が久々に安らぎを覚えていると、巴がお茶を運んでくる。
「ふふふ、お粗末様です」
健二の前にティーカップを置くと、エプロンを外し、正面に座る。
「余ったら家の夕飯にするつもりだったんですけど、綺麗に食べてくれましたね」
「あっ、悪い……俺……」
よく考えて見れば、あの量が二人分なわけがない。出されたから残すわけにはいかないと思い込んでいた健二だが、そのことにいまさら気付いて頭を下げる。
「いえいえ、私の作った料理をあそこまで美味しそうに食べて下さって嬉しかったんです」
健二の食べっぷりは見ていて気持ちが良いので、あの顔を見れただけでも巴は満足している。
「家は父親との二人暮らしだからな、俺もまともに料理できないし。懐かしい……味がしたんだ」
そう呟いた健二は、少し寂しそうな顔をしてみせた。
「岡崎君?」
急に黙り込む健二に巴は話し掛ける。
心配そうな顔をしており、巴と目が合った健二は表情を取り繕おうとするのだが……。
「いや、何でもない」
巴の前だとどうにも感情の制御が上手くできず失敗してしまう。
「ちょっと、母さんの料理を思い出しただけだ」
自虐の混じった寂しそうな表情を浮かべる健二に、巴は胸が締め付けられるのを感じると、身体が自然に動いていた。
「えっ?」
巴が隣の席に座り健二の両手を握っている。
顔を上げると琥珀の瞳を潤ませた巴と目が合った。
「良かったら、また作りますから」
その言葉に、健二は先程まで感じていた胸の痛みが和らいできた。
「まあ、機会があったら……」
自分を包み込むように優しく接してくれる巴に、健二はなんとかそう返事をするのだった。
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