君が大人になってしまう前に 2
「ウィル!遅いぞ!!」
「ハイ!」
陸軍の訓練時代は得意としていた基礎訓練も、BSOCの中では全く歯が立たなくなった。入隊してから一ヶ月が経とうとしている頃だった。
「もっと早く! そんなんじゃ敵に追いつかれるぞ!」
「はい!」
後ろからレイフが発破をかける。陸軍で一緒に訓練をしたときの面影はない。それもレイフなりに考えて、そう接するようにしているのだろう。
戦時を想定し、積荷を背負いながら坂道や階段を登る訓練は、ウィルが陸軍当時から不得手にしていた訓練の一つだった。それにしても最下位を取ることはなかったし、むしろ陸軍の中では殆どの成績が上位だったのに、ここに来てそれが全く通じなくなっている。
積荷は陸軍より重くなり、連日厳しい訓練で身体の疲労もピークを超えた。心身の疲れが精神の健康に影響を及ぼすとしたら、いまのウィルが極度に落ち込むのも無理のない話だった。
「エリオットさん」
「ん? どうしたウィル」
ロッカールームでちょうど二人きりになったタイミングを見計らい、エリオットに声をかけた。
「あの、少し相談したいことがあって……」
「……わかった。じゃあ着替えてお前の部屋に行こう」
そう言いながらエリオットは豪快に汗で重くなったTシャツを脱いだ。
「いえ、俺が行きます」
「あー、……いや、ちょっと外に出ようと企んでるんだ。俺の行きつけの店で話を聞くよ」
エリオットは優しい。きっとBSOCに関する話を内部でするのは憚られると思ったのだろう。
「ありがとうございます」
「じゃあ、一五分後に玄関に集合な」
「わかりました」
ウィルは一礼してその場を去った。
「で? どういったことなんだ、相談したいことって」
エリオット行きつけの店というのは落ち着いた大人の雰囲気のバーだった。そういったところにウィルが来るのは初めてで、店に入る前は少し緊張したがいまは店内に流れる緩やかなピアノジャズにその緊張も溶けている。
エリオットは慣れた様子でウィルの分の酒と料理もあわせて注文し、落ち着いたところでこちらに問うてきた。
「それが、訓練のことで……」
「その話をする相手は、俺でよかったのか?」
エリオットの真っ直ぐな視線を受け止めきれず、視線をそらす。
「ベックフォード隊長は、俺の直属の上司です。俺に厳しくしなくちゃと思ってるところがあるので、いま俺が隊長に相談したところで彼は迷ってしまうから……」
ウィルが俯きながらそういうと、エリオットはウィルの頭をくしゃくしゃと撫でた。
「お前のそういうところ、隊長もわかってると思うよ。本当にお前は訓練も頑張ってるし、みんなにも気を配ってるし、俺が若かった頃と比べものにならないな」
エリオットの豪快な笑いが、ウィルの心に灯をともしてくれる。
ウィルはなんて返していいか言葉が見つからなくなってしまった。それに気付いたのか、エリオットが慌てて助け舟を出してくれる。
「ああ、悪い、話を拗らせちまった。それで?」
「すいません……俺、自分にどんどん自信がなくなっていくんです。陸軍では通用していたことが、ここでは通じない。もう一ヶ月も経つのに……」
陸軍時代の訓練とは、またベクトルが違う。仮想敵を人間とするかクリーチャーとするかで全く戦い方も訓練の方法も変わってくる。このところ、ウィルは自分の居場所がなくなってしまったように感じて夜も眠れなくなっていた。
「せっかくベックフォード隊長が俺をここに呼んでくれたのに、隊長を裏切るみたいで……。俺は隊長が思うような人間じゃなかったんだって、自覚するのも、隊長にバレるのも、怖くて……」
ぽつりぽつりとウィルが落とす言葉にはここまで思いつめていた灰汁が淀んでいるようだった。ウィルが話しながら俯いていくのが、エリオットの目に辛く映ったらしい。
エリオットは少しの沈黙を保った後、ゆっくりと口を開く。
「お前は、どっちのが怖いんだ? 隊長に思ったような人間じゃなかったって思われるのと、自覚するのと」
エリオットは優しい口調で問うた。ウィルは少しの逡巡のあと、自分の率直な気持ちを口にする。
「隊長にそう思われたら、俺はここじゃ生きていけません」
「隊長にそう思われる方が怖いんだな。それなら心配しなくていい、あの人が人の本質を見間違えることなんてない。一〇〇%だ」
「どうして一〇〇%なんて……」
「アルファチームは隊長が引っ張ってきた奴らばかりだ。そいつらを見ていればわかるよ。それに、お前は気付いてないかもしれないが、入隊一ヶ月であそこまでついていけるやつはなかなかいない。前所属が海軍だったやつなんか、隊長の訓練に辛うじてついていけるようになったのは半年後だ。お前はあと一ヶ月もすれば、やっていけるよ」
エリオットの自信に溢れた表情に、少し気持ちが浮上する。エリオットは根拠のないことは言わないと、この短い付き合いでもわかるからだ。
「お前は少し真面目すぎるんだよ。もっと肩の力抜け」
「いや、俺なんかまだまだ……」
「お前陸軍の訓練で彼女いないって言ってたな? 今もか?」
「え、ええ。訓練もろくに出来ない奴が彼女にうつつ抜かしている暇はありません」
そうウィルが答えるとエリオットは唸りながら頭をかいた。何かがエリオットを悩ませているようだ。
「お前なぁ、そんな風に考えてるから煮詰まっちまうんだよ。女性との付き合いで少しは心も解れるだろ。ほら、あそこにいる女性に声かけてこい。一人だし、美人だ」
そういって指差したのはバーカウンターにいる一人の女性だった。二十代後半から三十代前半に見えるが、その容姿は端麗で、知的な雰囲気のある女性だった。
「い、いえ俺は……」
「いままで女と付き合ったことは?」
エリオットは女性から目を離さずに尋ねる。
「一度、高校のときに……」
「ならokだ。よし、俺が声かけて来るから、そのあとは任せるよ。幸い明日はオフだ」
「あ、エリオットさん!」
ウィルの声も届かないようで、バーカウンターへ向かって行ってしまった。そして少し何やら話してから、女性をこちらのテーブル席へ連れてきた。
「こいつがウィルフレッド・ブラッドバーン、20歳です。年下の男はお好きですか?」
エリオットが女性に尋ねる。その声にはどこか艶があって、ウィルはいきなりムードのある映画のスクリーン前に座らされた気分になった。
「素敵な目をしてるわ」
「でしょう。でも少し今悩んでいてね。優しい女性に愛されれば、少しは自信がつくんじゃないかと思いまして」
「わたしは優しくなんかないわよ。それでもよくて?」
そういってセシリーはウィルの手に手を重ねた。
「あ、……はい」
ウィルはどうしていいかわからずただ頷いた。エリオットはそれを目を細めて見ている。
「可愛い人」
「……男なのに可愛いと言われるのは、本意ではありません」
ウィルは少しむっとして答えた。だがそれも意に介さない様子でセシリーは微笑む。
「ウィル、彼女を家までエスコートして差し上げてくれないか? 俺はこれから用があって」
「……わかりました」
ウィルはエリオットに言われるまま席を立った。セシリーもエスコートされるべくして立ち上がる。
「あなたのお家はどこ?」
「エミール橋の向かいのアパートです」
「……そう。いいところね」
「セシリーさんは?」
「わたしはここから少し奥に入ったところにある一軒家よ」
二人はそのままバーを出てセシリーの家に向かって歩きだした。すっかり秋の夜霧に包まれ、街は静かに煌めいている。
「ねえ、少し遠回りしない? まっすぐ家には、帰りたくないの」
「……ええ。俺も歩きたい気分です」
それから公園や橋の上で色んな話をした。ウィルの生まれや育ち、エリオットのこと、いまウィル訓練で行き詰まっていることもすべてを話した。彼女はとても聞くのが上手で、ウィルが思ってもいない返答を寄越すのだ。
「あなたはきっと、素敵な男性になるわ」
「いえ、そんなことありません。セシリーさんこそ──」
「ねえウィル。セシリーって、名前で呼んで」
そういってウィルの頬を細いセシリーの手が包む。ウィルはこのとき初めて間近で彼女の瞳を見た。その瞳に宿る闇と不安に、ウィルは目を反らせない。
「……セシリー」
「うん。嬉しいわ」
セシリーがウィルの唇に軽くそのふくよかな唇を当てた。触れるような軽い口付けだった。その柔らかさに吸い寄せられるようにウィルがもう一度キスをする。何度も短いキスを繰り返し、次第に夢中になっていく。それが濃厚なものになるまでに、そう時間はかからなかった。
それから二人でウィルの部屋に向かった。まだ余韻が残っているようだ。その間二人の間に殆ど会話はなく、ただしっとりと濡れた空気だけが二人の間を縫うように流れていた。
「ウィル」
「なに」
「遠慮はしないで」
「……うん」
部屋に着いてからは、そのままベッドになだれ込み獣のように互いを貪りあった。言葉はなく、ただ彼女が時折発する声とベッドの軋む音だけが部屋に響く。
彼女が見せる艶のある表情は、ウィルの中に潜んでいた欲を駆り立てるには十分だった。
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