始まりは青い色

前編

 思い出したのは、夏の終わりだった。

 誕生日にほど近い8月の明け方、終電だか始発だか分からない弱冷車の肌寒さに小さく息を吐きながら、思考はぐるぐると“あの日の記憶”に沈み込んでいく。アルコールが抜けた時特有の虚脱感だ。

 気分の悪さを誤魔化すために、止まった駅で途中下車をした。外は熱帯夜で、蒸し暑い風に虫の声が響き続ける。太陽がこの嫌な空気さえも覆い尽くす前に、向かおう。


 近くのコンビニで水とレジ横の和菓子を買うのが習慣になっていた。大体がどら焼きだ。あの日食べた物には遠く及ばないが、舌で感じる柔らかい甘みはよく似ていた。

 記憶の中の彼女は、私が渡したどら焼きを美味しそうに頬張っている。きっと手土産に餡子あんこを両手いっぱいに注いでも喜ぶと思うくらいには好んでいた。彼女と遊ぶ時は地元の和菓子屋で軽い手土産を買うのが当時の私のルーティンで、客観的に見れば餌付けか貢物のようにも見えるかもしれない。それでも、手土産の入った紙袋を目敏く見つけた時にキラキラと輝く瞳を前にすると、次に会うときも渡そうという気分になるものだ。


 降りた駅からは少し歩くが、目的地までのルートは身体に染み付いていた。切れかけた街灯の明かりが錆びた遊具を照らす、小さな公園。正式名称はナントカ自然公園とかナントカプラザのような名前だったが、ここに集まる子ども達は往々にして別の名前で呼んでいた。敷地の中央に青い鳥の像が鎮座しているから「青い鳥公園」。今にして思えば安直すぎる。

 ガーデンベンチに腰掛け、周囲を見渡す。温い風と薄明の空が太陽の訪れを予感させる時間だ。もうすぐ隠れる月は、半分に割ったレモンによく似ていた。

 老朽化によって撤去された遊具の中には、私たちの思い出に深く根ざした物もある。入り口近くに置かれていたスプリング遊具は、確か狐と兎を模していた。私たちが初めて出会った場所だ。


『きつねち。今日からきみはきつねちだよ』

『……急だね?』


 まるで本物の兎のようにスプリング上で跳ねる彼女は、いつも何かを企んでいるかのように笑う。

 当時の青い鳥公園は今より活気があり、その中で出会った同年代の少女だ。家の近所で見たことがないのは学区が違うからで、そういった事情も含めて私とは住む世界が違うようにも思えた。俗世とは違うルールで動いているかのような、不思議な女の子。まるでどこかのプリンセスだ。初めて会った時から、彼女のことを「ひめ」と呼ぶのはそんな理由だ。

 お互いに本名は知らない。知るつもりもない。賑やかな公園で一緒に遊ぶだけの、ただの友達。だから何だって言えた。どんな感情もぶつけられた。軽口も、日々の理不尽への憤りも、くだらない恋の悩みも。


『ここからここまで、地面に足ついたら死んじゃうってことね! よーい、スタート!!』

『待って、ひめ!』


 三角形に組み合わされた肋木を地面に足がつかないよう器用に渡りながら、ひめは私の方を振り返る。足下を泳ぐサメや流れるマグマを物ともせず、軽業師のように綱渡りを終えてしまう。そういうバランス感覚に優れた子だった。

 危なっかしく片手を離したり、足を上げたり。スリルを楽しんでいるようで、「私は失敗しない」という大きな自信に裏打ちされた行動のようにも見えた。私とは真反対だ。

 一方の私は、一歩踏み出す勇気が出ない。そこに居ないはずのサメやマグマは彼女がもたらす障壁で、ゲームを楽しむためのお遊び要素だ。そこに無いはずの恐怖は、なぜか私の足を竦めさせている。


『ひめ、待ってよ……あっ!』


 バランスを崩し、膝から着地する。砂地で擦りむいた膝に血が滲み、私はひめに気づかれないように立ち上がった。

 今にして思えば、何が怖かったのだろう。肋木の跡地を眺め、記憶を辿る。


 中学生になる頃には、青い鳥公園から子どもたちが減っていた。他の娯楽に優先順位を奪われたのか、そもそもこの公園自体に魅力がないのか。変わらず放課後に通っていたのは、私とひめくらいになってしまった。

 夕暮れの影が差すブランコを漕ぎながら、彼女は『寂しくなるね』とだけ呟いた。錆びたブランコの軋む音が耳の奥で響き続ける。


『きつねちさぁ、学校では友達多いんでしょ? 今度何人か呼んで一緒に遊ぼうよ』

『あれはイジられてるだけだし! でも、うん……考えとくね』


 私は制服で、ひめはピンクのウサ耳パーカーだ。最初は私服で通える私立校に進学したのかと思ったが、彼女が自らの学校の話をしないので聞くタイミングを失った。お互いの深い事情を詳しく潜在しないのが暗黙の了解になっていたのかもしれないし、若しくは私が訊ねるのを自分自身で恐れていたのかもしれない。

 ひめは明るくて好奇心が強く、とにかくフットワークが軽い。私に向かって語る土産話はどれも面白く、私以外にも親友ができそうだな、と思う。だから、この公園に他の相手を呼びたくなかったのだ。

 嫉妬と言われればそうかもしれないが、それが彼女と友達のどちらに対してかは自分の中で曖昧だった。私の友達を奪い去って人気になっていくひめの姿を想像し、その笑顔が私以外の友達に向けられる姿を懸想する。このままここが錆びついていけば良いのに、と思った。


『きつねちは……ずっとここに居てね。居ないと寂しいから!』

『見送るのには慣れても見送られるのには慣れてないんだよねー……』

『あはは、ウチもそうだよ!! じゃあ、ずっと一緒にいる?』


 ひめは拾った棒で地面に“永遠”と書くと、私たちの周囲を四角く囲う。約束ね、と悪戯っぽく笑う表情を今でも覚えている。


 昔話の狐と兎の性格は、だいたいがステロタイプに描かれる。純粋で騙されやすい兎と、狡猾な狐。

 それなのに、私たちは誰が見ても逆だ。騙されやすい狐の側にいるのは、嘘吐きの兎。


「何が約束だよ、嘘吐き」


 約束の1ヶ月後に、ひめは忽然と姿を消した。

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