第7話 暴力の果て
ベルク城の地下。
普段は誰も近づこうとしないその場所から、肉を打ち付けるような音が断続的に響いていた。
エリアスは鎖で天井から吊るされ、目の前にはモーゼズがいた。
エリアスの全身は、すでに赤黒く変色していた。
激しく殴打されたことで肉が潰れ、皮膚の中に血が溜まっているのだ。
モーゼズは血のこびりついた鉄の棒を片手にいった。
「……どうですか、エリアス殿。少しは考えも変わりましたか」
「……何度もいわせるな。お前には何もしゃべらん」
エリアスはモーゼズをにらみつけた。
すでにエリアスの全身は悲鳴をあげている。
身動きがとれない中、鉄の棒で殴打され続けるのは想像以上の苦痛といえた。
それでも、エリアスの心はまるで揺らいでいなかった。
モーゼズは、冷たい笑みを浮かべた。
「いいですねえ。そうこなくては」
モーゼズは、鉄の棒をエリアスの脇腹に思いきり叩きつけた。天井から吊るされたエリアスの体が大きく揺れる。それでもエリアスはうめき声ひとつあげない。
「まだまだいきますよぉ」
モーゼズは執拗に同じところを何度も打ちつける。皮膚が破れ血が吹きだしてもモーゼズは止まらない。
エリアスは歯を食いしばり、懸命に耐えていた。
狂ったようにエリアスを殴打し続けたモーゼズだが、しばらくすると息があがったようだ。
「ふう、どうですか、エリアス殿。少しは堪えましたか」
「……無駄なことだといっているだろう」
エリアスの胆力は、相当なものだった。
その意志の強さは、モーゼズでも舌を巻くほどだった。
モーゼズは鉄の棒にこびりついた血を丁寧にぬぐい取りながら、少し考えた。
「……ふうむ、エリアス殿。私にはあなたのことがよく理解できませんよ。そのイストリム人とは、昨日あったばかりの関係でしょう。なぜそこまで、かばいだてをするのでしょうか」
「……彼は、俺にとっての恩人だ。月日の短さなど関係ない」
「また、それですか。しかしね、エリアス殿。どうも解せないんですよねえ」
モーゼズはそういうとエリアスに近づき、くんくんとそのにおいを嗅いだ。
「ああ……やっぱりです。近づいてみると、よくわかりますよ。エリアス殿、あなた臭いですねえ。私の鼻はね、特別なんですよ。こう……嘘をついている者がいると、ぷんぷん漂ってくるのです。エリアス殿、あなた、私に嘘をついていますね」
モーゼズが、ギョロリとした目でエリアスを覗きこむ。
だがエリアスは表情ひとつ変えない。
「くだらんな。それはお前の思い込みであろう」
「いいえ、違います。私の鼻は確かです。ふむ……こうやってちゃんと嗅いでみると、エリアス殿、あなたは臭くてたまりませんね。そのイストリム人が恩人? 嘘ですね。あなたは本心では、そのようなことは露にも思っていない」
エリアスは、何もいわない。ただ冷めた目でモーゼズを見ているだけだ。
「ではなぜ、ここまでかばおうとするのでしょうか。……ああ、わかりましたよ。ヴィルヘルミナ様ですね。あなたはヴィルヘルミナ様を守りたくて、こうして耐え忍んでいるのですね」
「……ミーナの名を、口にするな」
エリアスの表情が、はじめて変わった。
モーゼズは、笑った。
「うれしいですねえ。はじめてあなたが人間らしい反応をしてくれました。となると……私にはもう理解できましたよ。そのイストリム人を助けたがっていたのは、実はヴィルヘルミナ様ただ一人。大方あなたは、彼女に頼まれて協力しただけなのでしょう。だからイストリム人の話になると、こんなにも臭いのです。本当は、どうでもいいと思っているから」
「……くだらないな。勝手にいっていればいい」
そういいながらも、エリアスの表情にはわずかな焦りが見えはじめていた。
「ふふ、また臭いが強くなりましたよ。それにしても……なぜヴィルヘルミナ様はそのイストリム人にそこまで肩入れするのでしょうか。いや……わかりましたよ。そういえばあの方は、イストリム人との混血です。ということは、これまでさぞ辛い思いをしてきたことでしょう。そんな時に、同じ境遇を持つ若い男性が現れた。くふふ、特別な感情を抱いてしまっても、何ら不思議はないですねえ」
「妄想で語るのはやめろ。お前にミーナの何がわかる」
「おやおや、動揺しているのですか。いや……この臭いは、少し違うのでしょうか」
モーゼズはエリアスの首筋に鼻をくっつけると、思いきり息を吸い込んだ。
「嫉妬……ですね。エリアス殿、あなたは今、そのイストリム人に嫉妬をしておりますね。間違いありません」
「貴様……ふざけるなよ」
エリアスは、モーゼズをにらみつけた。
勝手なことをベラベラとしゃべり続けるモーゼズが不快でたまらなかった。
「そう怒らないでください。私はね、あなたのためにいっているのですよ。しかしそうなると……ヴィルヘルミナ様が心配ですね。同じ苦しみを共有できる若い男女が二人きりでいる……これは危険な香りがしますよ。何も間違いなど起こらなければいいのですが」
「バカをいうな。そのようなことがあってたまるか」
エリアスが、はじめて感情的になった。
「はい、その通りです。そのようなことなどあってはなりません。しかしですね、エリアス殿。現にヴィルヘルミナ様は、そのイストリム人に騙されてしまっている。その男は、大変な危険人物です。今すぐにでも、ヴィルヘルミナ様から引き離さなくてはならない。私のしていることを、分かっていただけましたでしょうか。エリアス殿、そのために、あなたの協力が必要なのです」
モーゼズは、じっくりと諭すようにいう。
エリアスは、考え込んでしまった。
「ここでヴィルヘルミナ様を救えるのは、エリアス殿、あなただけです。それと……今こんな話をするのは下世話ですが、私は本国の上層部の方々とも繋がりがあります。あなたが反逆者の捜索に多大な貢献をしてくださったことは、正しく伝えさせていただきます。もしあなたが望むのであれば、新たな爵位を与えるよう進言してもいい。そうすればあなたはこのしがらみの多い土地を出て、新たな場所でヴィルヘルミナ様と一緒に暮らすことができる。そこでは、ここでは決して許されなかったことも可能となるでしょう。例えば……ヴィルヘルミナ様をあなたの妻にするとか」
「ミーナを……俺の妻に……」
エリアスは、想像してしまった。
ここではないどこかで、ミーナを妻とし、幸せに生きる人生。
それはどんなに願っても叶わないと思っていた夢だ。
「さあ、エリアス殿、ご決断ください。ヴィルヘルミナ様をたぶらかすその悪しきイストリム人を、私と共に裁こうではありませんか」
モーゼズは、満面の笑みでいった。
この男は落ちた。
モーゼズはそれを確信していた。
だが――。
「……嘘だな」
エリアスが、ポツリといった。
うつむいているため、モーゼズからはその表情が見えない。
「……はい? 今なんと」
「嘘だといったのだ。モーゼズといったか、俺を見くびるな」
エリアスが顔をあげた。そこに動揺の色はない。
「お前は先ほど俺にいったな。自分は嘘を見抜けると。どうやら俺にもそれができるようだ。モーゼズ、お前のいっていることは嘘ばかりだ。ミーナを救いたい? ふざけるのも大概にするんだな。お前は彼だけでなく、ミーナも処刑するつもりだろう。それも、残酷な方法で」
エリアスが騙されることはなかった。
狼狽えはしたが、モーゼズの嘘に引っかかるほど愚かではなかった。
「お前のつまらない嘘のおかげで、俺の意志はより固まったよ。モーゼズよ、断言してやる。お前には、絶対に二人を渡さない。死んでもだ」
エリアスは強い言葉でいった。
こうなった時のエリアスは、テコでも動かない。
モーゼズから笑みが消え、すっと表情が抜け落ちていく。
「……馬鹿な男だ。私は、あなたのためにいってあげたというのに」
それは、おそろしく冷たい声であった。
モーゼズは目を細めると、エリアスを正面から見返した。
「エリアス殿。口は災いのもとという言葉を知っておりますか。私の前では、決して口にしてはいけない言葉がある。それは『絶対に』と『死んでも』です。あなたは、きっと後悔することになる」
「……やれるものなら、やってみるがいい」
エリアスは引かなかった。
そのような選択肢など、もう残っていなかったのだ。
(この男にだけは、絶対にミーナを渡してはならない)
「ではエリアス殿。覚悟してください。しゃべらないというのなら、もうそれで結構です。どうぞ、その意志を最後まで貫いてください。それでこそ張り合いがあるというものですよ」
モーゼズが鉄の棒を高く振り上げた。
エリアスの長い一日は、まだはじまったばかりだった。
それから、どれくらいの時間が経ったのだろうか。
エリアスはぐったりとうなだれていた。
壁一面はエリアスの血で赤く染まり、床にもおびただしい量の血だまりができていた。
おそらく、長い時間が経っている。数時間か、あるいはもっと。
その間も、モーゼズはずっとエリアスを暴行し続けていた。
「……ふむ、まだ折れませんか。あなたの心はまるで鋼でできているかのようだ」
エリアスの髪をつかみあげ、その目を確認しながらモーゼズがいった。
「……何をしたところで……無駄なんだよ……」
エリアスはかすれた声でいった。
この状況になっても、エリアスの目は死んでいない。
エリアスは、何一つとして諦めていなかった。
「いやはや、お見事ですよ、エリアス殿。ここまでしても音を上げないとは。あなたは口先だけの男ではなかったようだ」
モーゼズが感心したようにいった。
エリアスは、何も言い返さない。
口の中がぐちゃぐちゃに切れていて、しゃべるのがひどく苦痛だったのだ。
「だがさすがのあなたも、少しお疲れのようだ。どうでしょう、エリアス殿。ここらで一つ小休止としませんか」
「小休止……だと」
エリアスがくぐもった声でいった。
それだけをいうにも、何度も口の中の血を飲み込む必要があった。
「頑張るあなたへのご褒美とでも思ってください。私もね、鬼ではないんですよ」
モーゼズは、張り付いたような笑顔でいった。
この男は――また何かを企んでいる。
エリアスは警戒した。
エリアスはモーゼズのことを一切信用していない。
この男は、どこか異常だ。
クルスがあれほど恐れていたのも、今ならわかる。
モーゼズは言った通り、エリアスから距離を置いた。
「どうぞ、エリアス殿。少し楽にしてください。私はね、嘘はいいませんよ。お休みといったらお休みなんです。もっと気楽な気持ちで、見学なさってください」
「……何を、いっている」
エリアスは懐疑の目を向けた。
しばらくすると、通路の奥から叫び声が聞こえてきた。
誰かが抵抗しているような声だ。
やがて、声の主がわかった。
ミーナの母――メリサがモーゼズの部下に引きずられてきた。
「おい、何をしている。何の真似だ」
エリアスの顔色がにわかに変わった。
「何って、お休みの間ショーをご披露しようと思いましてね。奥の部屋からこちらをうかがっておりましたので連れてきました。この女のことは、もちろんご存じですよね。ヴィルヘルミナ様の母親です。あなたにとっては義母にあたるのでしょうか」
メリサを、モーゼズの部下たちが数人で床に組み伏せた。
メリサは必死に抵抗しているが、身動きが取れないでいる。
「この女のことはね、私もよく覚えていますよ。美しい女だと思っておりましたが、この数年でずいぶんと変わったようだ。汚いし……それに臭い。まるで豚ですよ」
モーゼズはメリサの髪をつかみ、まじまじとその顔を見ている。
メリサは何かをわめき散らしているが、モーゼズは意に介さない。
「その人は関係ないだろう。放してやるんだ」
「関係ないことはありません。反逆者を連れ出した娘の母親でしょう。娘の罪は、母親の罪でもあるのです。この女がいなければヴィルヘルミナ様は生まれてこなかったのですから」
そしてモーゼズは、笑みを浮かべ、エリアスを見た。
「――時にエリアス殿。豚の解体をしたことはありますか」
「な、何をいっている」
嫌な予感が、エリアスの中で急速にふくれあがった。
「私はね、得意なんですよ、豚の解体が。これからそれをお披露目します。目をそらしてはいけませんよ。これはあなたのためのショーなのだから」
モーゼズは懐からナイフを取りだすと、突然メリサの胸に突き刺した。
メリサの絶叫が響く。
メリサは暴れまわるが、モーゼズの部下たちが体重をかけて床に押しつぶす。
モーゼズは笑いながら、何度もメリサの胸にナイフを突き立てた。
「やめろ――やめてくれ!」
エリアスは叫んだ。
「こういう元気のいい豚はね、適度に弱らせる必要があるんです。ほら、暴れなくなったでしょう。そうしたら、次はこうです」
モーゼズはメリサの首にナイフを当てがった。
「首をね、切り落としてやるんです。あっさりやってはいけませんよ。豚の命を噛みしめながら、ゆっくりとやるんです。ほら、このブチブチという音が聞こえますか。首の筋肉をね、私が断ち切っているんです」
それは、地獄絵図だった。
メリサは狂ったような叫び声をあげ、血しぶきは天井まで届いた。
モーゼズはわざとエリアスに見せつけながら、時間をかけてゆっくりとメリサの首を切り落としていく。
「はい、豚がね、ようやく死にました。あとは簡単なものですよ。腹を裂いて内臓を取りだし、肉を小分けにしていくんです。ああ、駄目ですよ。目をそらしてはいけません。この豚はあなたのために殺したのですから。しっかりと目に焼き付けてください」
エリアスの愛した義母が、目の前で解体されていく。
それは現実のこととは思えない、あまりにも残酷なショーだった。
「……やめろ……何でそんなことをするんだ……」
エリアスはうわ言のように呟き続けた。
エリアスは、悟った。
――この男は、人ではない。
「豚の解体が終わりましたら、エリアス殿、次はあなたの番ですからね。一応いっておきますが、ここからが本番です。この豚のように楽に死ねると思ったら大間違いですよ。あなたのことは、じっくりと可愛がって差し上げます」
そしてモーゼズは目を見開き、狂気の笑みを見せた。
「楽しみですねえ。『絶対に』『死んでも』いわないんですよねえ。期待しておりますよ」
モーゼズの笑い声が、閉ざされた地下でこだまする。
エリアスからは、すでに余裕が失われていた。
(ミーナ……俺は――)
エリアスの絶望は、誰にも届かない。
城を抜け出したセイとミーナは、旧市街へとたどり着いていた。
旧市街はベルクの外壁部にあり、壊れた家屋の立ち並ぶ寂しい場所だった。
二人が城から出た後、すぐに街中に兵士たちがあふれかえった。
二人は本当に間一髪のタイミングで脱出することができたのだ。
ただ兵士たちの目をかいくぐることは難しく、何度も迂回しながらの道のりだったため、旧市街にたどり着いた時にはずいぶんと時間が経ってしまっていた。
「……このあたりに人は住んでいないのか」
セイはミーナに聞いた。
「今は無人です。かつては多くの浮浪者や貧民が住んでいたそうですが、父がその方たちに住む場所を与えたためこうなりました。今では滅多に人も近寄らない、ベルクの中でも忘れられた場所になります」
そう語るミーナは、セイと同じようにフードを深くかぶり顔を隠している。
ミーナは、旧市街の奥へと迷うことなく進んでいった。
入り口付近ではまだ壊れかけだった家屋も、奥の方では更に荒れ果て廃屋に近い状態であった。
淀んだ溜池のような川を渡ったところで、ミーナは足を止めた。
「……ここです。中に入りましょう」
そこには、数軒の廃屋が立ち並んでいた。
ミーナはその中の一軒の裏手に回ると、壊れたドアをガタガタと器用に外した。
中は埃まみれで、床のあちこちが腐り穴が開いていた。だが人の住んでいた名残もわずかながら残っていた。
「……よく、こんなところを知っていたな」
セイは廃屋の中を見ながらいう。中は、光がほとんど差しこまないためひどくうす暗い。
「……ここは母が、かつて暮らしていた家なんです。母にとっては思い出深い場所らしく、幼いころに連れてきてもらったことがありました。それ以来私はお城で嫌なことがあるとここに来ておりました。ここなら、一人になれますから……」
察するに、クルスから虐待されたときの隠れ家だったのだろう。
「ここのことを、他に知っている者は?」
「母と、エリアス兄さまだけです。他は誰も知りません」
「……そうか」
隠れるにはうってつけの場所というわけだ。
ミーナは城から持ってきた麻袋からランタンを取り出すと、火を灯した。
「あまりよい環境ではありませんが、エリアス兄さまが迎えに来てくださるまでの辛抱です」
「……どんなところだって、俺はかまわないさ」
セイは汚れた床にそのまま座った。
劣悪な環境など、慣れたものだった。
ミーナは床の埃を軽く手で払うと、そこにぺたりと座った。そして、小さく息をつく。
少し疲れているようだ。
しばらくの間、沈黙があった。
二人ともあまりしゃべるタイプではないし、状況も状況だ。
やがてミーナが、ポツリといった。
「……エリアス兄さま。ご無事でしょうか」
「……大丈夫だといったんだ。信じるしかないだろう」
それ以外、セイにはいえなかった。
二人はそこで、ひたすら無為な時間を過ごした。
エリアスがその頃、どんな目にあっているかも知らずに。
その日の夜、兵士から報告を受けたクルスは、急いで地下へと向かった。
狭い通路の途中、ちょうど引き上げようとしているモーゼズと出くわした。
「おや、クルス卿」
悠然と歩いていたモーゼズは、クルスを見つけるとうす笑いを浮かべた。
「素晴らしいですね、彼は。私もいろいろと手を尽くしたのですが、とうとう何もしゃべりませんでした。今日のところはね、私の完敗ですよ。はりきりすぎて少し疲れましたので、私は休ませてもらいます。続きはまた明日と、彼にお伝えください」
気味が悪いほど上機嫌な様子で、モーゼズは去っていく。
クルスは不審に思ったものの、今はそれどころではなかった。
地下の入り口には、二人の兵士がいた。
青白い顔をしていて、クルスに気がつくと、見ないほうがいいとでもいうように首を振った。
「どけっ!」
クルスは兵士を押しのけると、地下へと続く階段をかけおりた。
地下は、むせかえるほどの血の匂いが充満していた。
鉄格子の先、暗闇の中に、何かが転がっているのが見えた。
それが人であると――エリアスであると気づくのに一瞬の時間がかかった。
「エリアス!」
クルスは鉄格子にしがみつき叫んだ。
血の海の中、エリアスがもぞりと動いた。
「あ……兄上……ですか」
かすれた声。
そこでようやくクルスは、エリアスの状態に気がついた。
そして――あまりの悲惨さに言葉を失った。
エリアスは逃げられないよう両足をへし折られ、更に両腕の肘から先がなくなっていた。
それも、指先から細かく切断していったのだろう。その肉片と思しきものがあたりに無造作に散らばっていた。
「ひどい……あんまりだ……」
クルスは、エリアスを助け出そうとした。
だが鉄格子には新しい錠前がつけられていて、どうやっても開けられなかった。モーゼズがつけていったのだ。
「くそっ!」
クルスは錠前を壊そうとした。だが壊せるはずがなかった。
「兄上……そこに……いるのですか。もう前が……見えません」
エリアスは空洞になった目で、必死にクルスを探していた。
その目はモーゼズの手でえぐりとられていた。
「エリアス、なぜしゃべらなかった、こんな姿になってまで!」
弟の変わり果てた姿に、クルスの目には涙がにじんでいた。
「俺がしゃべったら……奴はミーナにも、きっと同じことをします。それだけは……いけない」
「あいつのことなんかどうだっていいだろうが!」
クルスはあらん限りの力で叫んだ。
クルスにとっての家族はエリアスただ一人なのだ。
「ダメです……俺はミーナと……約束しました。必ず……守ると……」
エリアスは途切れ途切れに言葉をつむぐ。
「兄上……痛いです、苦しいです。俺は奴を……甘く見てました。同じ人間だろうと……勝手に思い込んでいました。でも、違った。奴は……人じゃなかった」
モーゼズは、人間ではない。
人の皮をかぶった――鬼畜だ。
「エリアス、お願いだ。モーゼズに二人の行方を話してくれ。でないとお前が……」
それは、懇願だった。
クルスはその場に膝をつき、必死に訴えた。
モーゼズはエリアスがしゃべらない限り、ずっとこれを続ける。クルスはもう耐えられそうになかった。
エリアスは、返事をしなかった。
ただうわ言のように、ミーナの名を呟き続けるだけだった。
結論からいえば――エリアスは何もしゃべらなかった。
しゃべらずに、すべてを終わらせたのだ。
その日の夜遅く、エリアスはただ一人で、舌を嚙み切って死んでいた。
それが、エリアスにできる唯一の選択だった。
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