怒れないメディソンオブメディソン

麦酒豚

第1話 序章

 そろそろだろう、と心構えをしていたつもりであったが、実際にその時になってしまえばやはり多少は動揺するらしい。

 島嶼部への補給が先細りになって久しく、毎日の敵襲に怯えながら死ににいく戦友を見送る日々が続き、明日は我が身と思っていた矢先に、我々の小隊が司令部に呼び出されたのだ。

 否も応もあるわけがない。

 形式上は志願という体をとりつつも、前に出ないものなど居る訳がない。

 断ったところで結局は飛ぶ羽目になるのだから、どうせなら残してきた家族に累の及ばぬよう、潔く死んでいく方がいくらかマシと殆どの者は考える。

 実際のところ、兵にそのような決断を下させる上層部は狂っていると思わなくもない。

 ただ、飛び方を学んだだけの――階級こそ下士官扱いであるにせよ――兵卒と変わらぬ存在に逆らえる手段などあるはずがないのだ。

 幸か不幸か、自分には死後を憂う家族はいなかった。

 祖父母はとうの昔に他界していたし、父は既に大陸で戦死、母もいつぞやの空襲で亡くなったと知らされている。

 小隊の仲間は家族に手紙を書いたりしているようだが、こちらはその点では至って気楽なものである。

 心残りが無い、といえばそれは勿論ないわけではないのだが、敢えて誰かに遺すものが無いという事は寂しいと思う反面、後ろ髪を引かれない分、戦友たちと比較すれば心の軽い部分ではあるのだろう。

 今更整理するほどの物品も無く、早々に出撃までの時間が手持ち無沙汰になる。

 折角の残り少ない時間ではあるのだし、何か有意義に使いたいと思ったのだが、結局何も思いつかず、諦めてごろりと横になった。そのまま出撃の朝になった。


 滑走路に並んだ機体を見て、なんとも言えぬ複雑な気分になった。

 事前に知らされていたとはいえ、自分の乗る機は偵察機に爆弾をくくりつけただけの、なんとも急ごしらえ丸出しのものであった。

 せめて爆撃機や攻撃機であれば格好のつくものの、自分が乗りなれた機体であるとは言え、ここまでしなければならぬのか、と思わないでもないのだ。

 更にもう一つ言及すれば、わざわざ編隊を組んで南西島嶼部に展開する敵機動部隊に攻撃をしかけるという、誰が考えたのかと言いたい作戦についてである。

 機動部隊である。

 敵の戦闘機が大量にいるのは間違いないし、近頃の敵機動部隊は周辺を護衛のハリネズミが守りを固めているのだ。

 レーダーに引っかかればまたたく間に撃墜されてしまうであろうに、纏まって移動するのは一体どういうことなのかと問い詰めたい。

 兎もあれ、決まったからにはどうしようもない。ただ、現場裁量でどうにかさせてもらえるだろうとは思っていたのだが。


 滞りなく離陸し、隊長機と僚機の位置関係に気をつけながら飛ぶ。いつもより鈍重な感じがするのは、間違いなく腹に抱えた本体のせいであろう。

 機器故障で一機引き返した以外に特に問題もなく、目標海域に到達する。

 明朗な天候と穏やかな波が恨めしい。

 通常の飛行であれば南の青い空、蒼い海に癒やされるのだろうが、これから航空攻撃をしましょうかという時に雲一つ無い空というのは厄介極まりない。

 無線で隊長機に連絡を取ろうとするも、案の定ノイズを吐き出すのみで無線機は全く役に立たない。まぁ、傍受されればそれも危険ではあるのだが。

 目視で大海原を往く艦を見つけるのは困難である。しかるに敵さんは高性能なレーダーでもってこちらを見つけてくれる。

 わざわざ七面鳥になる必要もあるまい、と自分で勝手に判断して高度を下げた。

 凪いだ海面が風防越しに近づく。気流が乱れていればあっというまにお陀仏だろうが、墜落して死のうが撃墜されて死のうが墜ちて死ぬのに変わりは無い。

 好き勝手にやらせてもらおう、と視線を巡らせた瞬間、見えた。


 水平からの視線では全容を把握する事は難しい。だが、上空から敵の主力艦めがけて突入など、作戦当初ならば兎も角、既に”この類の作戦”が知られている以上、成功率は極端に低いだろう。ならば、少しでも敵の数を減らすという意味で、外周にいる奴らにぶつかればいい。そう思った。

 みるみるうちに敵影が近づく。対象の艦、恐らく大きさから見て駆逐艦であろうそれは、砲火を上空に向けて必死にばら撒いている。

 結果的に仲間を囮に使ってしまったことを少し申し訳なく思いながら、更に高度を下げて真っ直ぐに突進する。こちらに気づいたのか、一部の対空砲が照準をこちらへ向けようとするのが見えた。だが、もう遅い。

 艦影の最も高くなっている部分へと迷いなく突っ込む。

 迫る艦橋。最期の咆哮を上げる発動機。操縦桿に固着したかのような自分の拳。風防越しに視える青、白、黒。音の消えた世界の中、突撃目標の中にいる人間の、驚愕した表情まで見えた、気がする。



 死とは無である。

 坊主の言う六道もなければ牧師や司祭の説くヘヴンもヘルも無い。

 生物が必死に死から逃れようとするのはそれを本能から理解している故であり、死後の世界があり、功徳を積めば来世で良い思いが出来る、などというのは体の良い信者集めの方便であり、それを宣う当人達ですら、本気であの世があるなんてことは信じていない。

 死とは意識が無くなる事である。

 人がものを考え、経験から判断し、時間を認識し、感情を動かすのは意識があるからである。

 意識がなくなれば?当然、何も残らない。無は無である。

 暗黒ですらない。色もついていないのだ。透明ではない無色。色の無い闇。

 当然、闇などという概念すら理解できない状態こそが死すなわち無である。

 そう、思っていた。


 この”死”には色がある。

 見えるわけではないのだが、感じるのだ。

 最初は黄色が多かった。次いで桃色が視えるようになり、そこからまた様々な色を感じるようになった。

 視覚として認識しているわけではない。が、生前にそう認識していた色を確かに『感じる』のである。

 死んでいるのにおかしな話だと訝しんだところで、また矛盾に気付く。

 死んでいるのに『訝しん』だ?

 動揺し、身じろぎする。感覚のない深みに沈んでいるようだ。

 ああ、これは南方の海の底か。生命の誕生した場所。生命の回帰する場所。

 自ら納得し、安心したところで、唐突に光の奔流が近づいてくる。光とは様々な色の合成。安心できる場所から引きずり出される感覚。嫌だ、もう戻りたくない。

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