地震過剰
小石原淳
第1話
信号待ちのとき、伯父が指差した先に目的の建物が見えた。
「話に聞いていたよりも、こぎれいですね」
真夏の太陽の眩しさに目を細めつつ、
「完成してまだ半年だからね。その上、チェックが厳しくなって、“前科”のあるグループは、新しいクラブハウスをなかなか使わせてもらえないでいるし」
「旧クラブハウスは、そんなに酷い有様だったのですか?」
「うむ。まあ、落書きがね。破損もあることはあるが、使えないほどじゃない」
信号が青になり、手は頭の上から離れ、車がスムーズに発進する。
「主に体育会系のクラブが、酔っ払った勢いでおいたをする。まあ、周辺住民に迷惑を掛けない程度なら、許すべきだろう。今だけなんだしね」
若い頃を思い出す風な横顔の伯父を、三鷹はじっと見つめていた。
「実験は伯父様が不在でも、支障ないのですか」
「問題ないよ。単純化して云ってしまえば、一人でひたすら計算をするだけだし、データは
三鷹の伯父、
だが、クラブハウスを借り切って行っている今回の実験は、授業やゼミの一環ではなく、行方本人のテーマに関するものである。実験に協力する参加者は、学内で募集した学生ばかり五名。これに行方自身を加えた六人で、一人ずつ個室に入り、簡単な四則演算の問題を連続――たとえば六時間ぶっ続けとか、五百問立て続けにとか――して解いていく。初日、二日と通常の状態で取り組み、基本データを収集。それ以降は様々な条件下で取り組むことになる。
「たとえば問題を右から左向きにしたり、視界が左右逆転する眼鏡を掛けたり、利き手でない手で記述させたりね」
「面白そうですけど、情報工学の名に似つかわしくない気がします」
「私の今の関心は人間に向いているんだ。人間の機能に」
角を右に折れ、比較的寂しい通りに入って、更にもう一度左折すると、クラブハウスの駐車場に乗り入れた。段差のせいで、買い出しの品物が袋ごと軽くバウンドし、かさかさと音を立てる。
「本当に、自分が見学してもよろしいのでしょうか」
降りる際、三鷹は心配顔になって尋ねた。中学生の彼女は行方の親戚というだけの理由で、見学する許しを特別に得た。実験三日目、買い物に出た伯父に、ついでに駅まで迎えに来てもらった形である。
「勿論、かまわない。珠ちゃんが機械いじり以外にも興味を持っただけで、私は歓迎したいね」
「皆さんは、自分のことをどう思っているのでしょう」
「そんなことまで気にしているのか。ははは。想像するしかないが、先生のかわいい姪が来る、ぐらいに受け止めてるんじゃないかな。ああ、あと、記憶力がいい子だということは伝わっているよ」
顳かみ辺りの縦巻き髪を右手の人差し指で弄び、聞き流した三鷹。そんな姪っ子に、行方は「先に、アイスクリームを持って行ってくれないか。すぐに食べたい者も多いだろう」と伝えた。
三鷹は素直に頷き、ドライアイス入りの箱を両手で持つと、胸元でしっかりと抱いた。
「入って真っ直ぐに行き、二つ目の角を左に折れた先に、誰かいると思う」
「分かりました」
買い物袋を両手に提げる伯父を置いて、三鷹は小走りになって建物の玄関を目指す。フランス人形が穿くような派手でごてごてとしたスカート姿だが、にも関わらず機敏に動けるのは、普段からの慣れだ。
正面にまで来ると、沈んだ調子の赤紫色をした絨毯張りが、自動ドアを通して向こうに見える。そのドアを抜けると、<受付>とプレートのある窓口が右手にあった。
「ごめんください」
頭を下げたが、返事はない。カウンター向こうの室内は薄暗い割に明かりが点ってなく、管理人?は不在なのだろう。
「では、失礼をします」
靴を脱ぎ、少しだけ迷ってから備え付けの緑のスリッパを履く。脱いだ靴は爪先を玄関口に向けて揃える……が、受付とは反対側にある巨大な木箱が下足入と分かり、途中で行動を変えた。
冷房がよく効いている。だが、もたもたしているとアイスが。気持ち、急ぎ加減になって三鷹は廊下を駆けた。
指示された通りに角を曲がると、談話室なる部屋があった。右側の壁にもいくつかドアが並ぶが、名称から推して、談話室に皆がいると判断。歩く速さを落として、一つ深呼吸。そしてノックを控え目に三回した。
「はい? どうぞ、開いてるよ」
男性らしき野太い声が返る。
ここまですんなり入って来られた過程を思い、防犯がなっていませんと胸中で呟いた三鷹だが、表情はそれとは真逆の笑顔を作る。
「失礼をします」
ドアを開けると、ピンクやクリーム色の丸テーブルがそこかしこに並び、白い壁や床とマッチしていた。ここは冷房が強いようだ。
中には男性が二人いて、最初から戸口を向いていた一人に続き、こちらに背中を向けていたぼさぼさ頭の方も振り向いて、目が合った。
「おっ。もしかして、君……というか、あなたというか」
ぼさぼさ頭(さっきの野太い声はこっちだ)がどう呼ぼうか迷っているようなので、三鷹はお辞儀しながら名乗った。
「今回の実験を見学させていただきます、三鷹珠恵です。行方先生の姪に当たります。どうかよろしくお願いします」
「ああ、矢張り。俺は
座ったままの伊倉とは対照的に、奥にいた男性は立ち上がり、近付いてきた。
「私は浮城山
「あ、あなたが助手を務められているという浮城山さん……」
「そうです。将来は教授のお手伝いをさせていただこうと、修行中の身分ですよ。ははは」
優しい口調だが、精気の余り感じられない空虚な笑い方だった。表情も、目が若干落ちくぼんで、青ざめたような感じを発している。実験を重ねて疲れが溜まっているのかもしれないが、その割に伊倉の方は快活だ。基礎体力の違いというやつかもしれない。
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