D/D/D

1/Dye of evening

1-1


 彼女の笑い声が嫌いで仕方がなかった。


 教室で響く彼女の声、それに合わせてはじけるような笑い声が嫌いで仕方がなかった。他人から見れば別にどうというわけでもない笑い声だと思う。下品かどうか、という話においての彼女の笑い声はどちらでもない。普通の笑い方をしていると思う。はじける、なんていう表現を使ったけれど、彼女の声が大きいわけでも耳障りなわけでもない。個人的な感覚として、僕は彼女の笑い声が嫌いだった。おそらくそれは生理的なものだった。


 声を吐くとき、いつも咳払いをしてから彼女は言葉を出す。咳払いの時には右手の角度を少し曲げて、そうして喉をさすりながら声の調子を確かめるように。特に違和感のない行動のはずで、それは普遍的な行動ともいえるものである。僕も声を出すときは、もともと持っている喘息の症状のせいで喘鳴が響いて仕方がないときに咳払いをするし、喉の調子を確かめる。咳が酷い時には喉の奥にあるスポンジに穴が空いたような感覚を覚えるけれど、流石にここ最近に至っては特にそんな痛い思いをした記憶はない。でも、彼女は言葉を話すときには必ず喉をさする。僕と話しているときも、誰かと話しているときも。教師から指名を受けて発表をするときにはそういったリアクションは起こさない。ゆっくりと席を立ちあがって、こほん、という咳払いの一つもせずに、ただ黒板に書かれている問題に対して、もしくは教師がひけらかした豆知識に対する正答を言い当てる。それが僕は気に入らなかった。


 彼女のことは嫌いではない。そもそも嫌いと言えるほどの関係性を僕は持っていない。


 嫌うということは、興味というベクトルが向くほどに関わる必要があるわけで、僕と彼女が話したことは事務的な連絡を除けば両手で数えるほどしかない。それこそ、今のような、休み時間、何かやることも見いだせないような短い休み時間の中で、携帯の中身を漁りながら、ユーチューブに表示される動画について、適当な独り言から会話が始まるような、そんな具合。


 彼女の細い指がスマホをタップした。一瞬、携帯が反応しなかったのか、首をもとの位置から三十度程傾けた後、また短く二回ほどタップした。そんなどうでもいい所作を見ながら、僕はなぜ彼女の笑い声が嫌いなのだろう、と思考を巡らせる。


 彼女との出会いは高校生に入ってからである。現段階で僕は二年生ではあるけれど、彼女との出会いは二年のクラス替えと同時であった。それまでは見かけることも少なかったし、見かけたかもしれないが見かけたところで感情を抱くような要素はない。彼女は彼女としてふるまっていて、それは周囲に紛れる行動だったように思う。おそらく僕としては彼女のことを風景と同じようにとらえていて、それ以上の何物でもない。だから、特に気持ちを抱く必要はないとわかっているし、抱いたところで不思議な気持ちになってしまうというのも悪くはないはずだ。


 傍らにある窓から世界を見つめる。青い空に穴をあけたような小さい白い雲に、継ぎ接ぎとして存在しているひび割れのような鉄塔、そこから線を伸ばしている電柱の高さ、やはり何かを思う要素は何一つない。そう、こんな世界と同じように彼女はただの風景でしかない。


 ……それでも気持ちを抱いてしまうのだ。その理由はいつまでも分からない。俗にいう恋心というやつなのかもしれない、とどこかの恋愛漫画のような想像を働かせたけれど、自身の中で分かるのは、それはない、という五文字の、一言で済む感情であった。





 瀬里奈には遅れると連絡をしておいた。遅れる事情について彼女は特に気にしないだろう。詳細を入れるのはやめておいた。


 未だに高校生活に慣れることができていない。そんな自覚を生むほどに、僕は日直というものをこなすことができないでいる。


 今日で連続二日目の日直である。昨日については日直であるという自覚を朝くらいに持っていたものの、後半に至ってはその意識はどこかに消えてしまった。学級日誌は机の奥底に沈んでしまい、担任に言われるまでそのまま机という名の深海の中にいた。深海から取り出せば、まるで……、いや、実際に圧縮された様な分厚い本の塊が出てきた。


 そしてそれ以外にも黒板を消すことを忘れていたり、放課後に教室の机の整頓をしなかったり、そんなことが所以してしまった故に、僕は放課後という時間を犠牲にして二日目の日直を謳歌しようとしている。謳歌、というと響きはよく聞こえるが、響きがいいだけで単純な残業だ。もしくは居残りというほうが適切かもしれない。


 学級日誌を背後にある予定表の黒板と交互に見比べながら記入していく。学習した内容については覚束なくて、それっぽい単元名だけでも入れておくことにした。圧縮されてしまった学級日誌にシャープペンで記入することは困難を極め、何度か芯が折れたりした。筆箱の中から替えとなる芯を取り出すものの、それでさえも折れてしまった。嫌になる気持ちを隠しながら周囲を見渡せば、教室には僕しか残っていなかった。そちらの方が安心できるな、という気持ちで改めて学級日誌に向き合うことにした。


 注目されるという環境が苦手でしょうがない。それを昔、転校していった男の幼馴染から指摘されたことがある。


 お前はあがり症なんだから、とか、りんご病か、とかよくからかわれたりした。それほどまでに人に注目されることに僕は向いていない。


 よく関心を集めるタイプの明るいキャラクター性を持つ人間を見ると敬礼したくなる気持ちになる。自分にはできないことをきちんとやりのけている、それを尊敬のまなざしで見ることがとても多いのだけれど、当人らはそれを嬉しく思っていないらしい。僕が彼らを見つめると、途端にいやそうに視線を逸らしてくる。さらには、何見てるんだよ、という台詞付きで態度が返ってきたこともあった。


 人には感情を伝えづらいな、そんなことを改めて思ったところで、だいたいの学級日誌の始末をつけられた。記入するべき本日の所感の欄には、とりあえず学級の生徒をほめたたえるような文章を書きこんだ。


 それでやり過ごせるなら安いもんだ。思ってもいないことを書くことには抵抗があるけれど、大抵の読む人間というものはそれを考えて読んでいないだろうから、適当な嘘を吐くことにも慣れてしまった。


 ふう、と一仕事を終えたため息をついてから、今から行く、と瀬里奈に一言のメッセージを送る。スタンプが返ってくるかと思えば、単純に僕のメッセージに対してリアクションが来た。親指マーク。まあ、把握したということなのだろう。


 それを見届けたところで、僕はとりあえずと言わんばかりに職員室に行く。書いた学級日誌を出さないことには日直という仕事は完了しないのだから。

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