第二十五話 兄弟



 風獅フォンシーは文机に向かい、ゆっくりと筆を置いた。


 夕刻を過ぎても戻って来ない氷鷹ビンインの動向が気にはなっていたが、今更なにが起こっても驚きはしない。翠雪ツェイシュエにはああ言ったが、彼が氷鷹ビンインと関わらないようにしようとも、あれが勝手に関りに行くだろうということはわかっていた。


 この数年、いくつかの修仙門派が衰退したという噂を何度となく耳にした。その原因は、魔族の襲撃ももちろんあるが、その裏である人物が暗躍している事を知っている。


 なんのために、そんなことをしているのか。理由はただひとつ。ある門派の名を五大門派のひとつに並べるためということに気付いた時、風獅フォンシーはひとり頭を抱えるしかなかった。


「ただいま、兄さん。今戻ったよ」


 後ろから投げかけられた声と同時に、そっと懐に文を忍ばせる。変化を悟られないように、いつも通りの態度で、風獅フォンシーは座したまま声のした方へ身体を向けた。


「悪かったね。戻って来て早々、門下弟たちの修練に付き合わせてしまって」


「俺は全然かまわない。道士たちとも交流を深められたし、久々に他人と言葉を交わせたから楽しかったよ、」


 十年ほど閉関し、誰もと関わらずに山に籠っていた氷鷹ビンイン。しかしその交流能力は健在で、少しも衰えてはいなかった。


 彼と会話を交わした者たちは、きっと彼のことが好きになったに違いない。そいういう才能というか、多くのひとを心酔させる資質を持ち合わせており、誰からも信頼される要素を昔から備えていた。


「すでに耳に入っているかもしれないが、私はこれを機に掌門しょうもんの座をお前に譲ろうと思っている。もちろんこの先も門派のために力を尽くすつもりでいるが、道士たちを纏める大事な役割をお前に任せたいんだ」


 氷鷹ビンインは表情を変えることはなかったが、半分だけ身体を後ろに向けていた風獅フォンシーの正面に座った。


 文机は壁側の大きな円状の格子窓の下に置いてあり、風獅フォンシー氷鷹ビンインと向かい合うように座り直すと、彼の反応を確かめるように「お前はどう思う?」と訊ねた。


「それは、兄さんの意思? それともあの爺さんの命令? それによって答えは変わるかもね、」


 少しだけ、ほんの少しだけ氷鷹ビンインの瞳に陰りが生まれる。


 爺さん、とは門派の頂点である老師のことだろう。掌門しょうもんが道士たちを実質上纏める役職だとすれば、老師は基本なにもしないが門派の最高責任者として座する者であり、ふたりの祖父でもあった。


氷鷹ビンイン、お前が戻って来てくれて本当に心強い。今までは私ひとりですべてをこなしていたが、限界を感じていた。私を助けるつもりで、この提案を受け入れてもらえると助かる。もちろん、お前さえ良ければ、だが」


「俺は、兄さんが望むことを叶えたい。それを兄さんが望むなら、もちろん受け入れる気でいるよ。でも、まだ戻って来たばかりで門派のみんなの気持ちもあるでしょ? そういうのもちゃんと消化してからの方が、みんなのためにも良いと思う」


 先程とは逆に、まったく曇りのない表情と柔らかい声で、氷鷹ビンインはもっともらしい理由を並べて風獅フォンシーを諭す。彼の本質を知らない者がこの会話を聞いたら、仲の良い兄弟の会話であり、兄と門派を想うできた弟の提案にしか聞こえないだろう。


 しかし風獅フォンシーにはわかっていた。


(そうやって、今までもこれからも他人を欺いて生きていくのだろう)


 彼の本質は、ただひとつ。


(私の"望み"を叶えるためならば、なにをしてもいいと思っている)


 兄の望みを叶えるためという、一見立派な理由に思えるが、彼のそれ・・は異常なのだ。文字通り"なんでも"する、していいと思っているのだから。それは閉関し、三十代になった今もおそらく変わっていない。本当に十年もの間、閉関していたのかという疑問を投げかける勇気もなかった。


「あの子、別棟で生活してるんだね。ついさっき挨拶をして来たよ。思った通りの美人さんに成長してた。でも残念。俺のことは全然憶えていなかったみたい。まあ、あの時はまだ小さかったし、幼い頃の記憶なんてそんなものなのかな」


 氷鷹ビンインは名前こそ出さないが、翠雪ツェイシュエに逢ってきたことを事後報告してきた。十年前のあの事件の後、ふたりを保護したことまでは氷鷹ビンインも知っている。そのすぐ後に閉関すると言い出し、それ以来戻ってくることはなかった。


 彼の言っている『幼い頃の記憶』というのはそのさらに前のことで、父に連れられて行った、あの場所での出来事のことを言っているのだ。翠雪ツェイシュエを保護した時に風獅フォンシーも本人に訊ねたが、やはり憶えてはいなかった。あの時の思い出が、すべての始まりだったというのに。


「それに、あの子の傍にいた子に睨まれちゃったよ。あの子もあの時一緒にいた子でしょ? 記憶が戻ったの?」


「どうだろうね。十年前にふたりを保護した時は、お互いにまったく反応がなかったし、興味もない感じだったから、無理に一緒に行動させないようにしていた。師の肩書を与える前に、時々だが私が率いる討伐隊の編成で同じ隊に組み込んだこともあるが、ひと言も会話を交わさないし、近寄ろうともしなかった」


 ふたりの記憶を戻すのは難しいだろうと思い、それ以降は別々に話をするようにした。


 翠雪ツェイシュエは最初の頃は警戒していたが、いつからか信頼してくれるようになり、日常的な会話もしてくれるようになった。天雨ティェンユーも基本は無口だが、自分の前ではよく話をしてくれるようになり、時々顔を出してやるとなんだか嬉しそうで、慕ってくれているのが伝わってくる。


 そんなふたりがいつの間にか弟子と師の関係になっており、どうなることかと思っていたが意外にも仲良くやっているようだった。


「兄さんは、どう? あの子とは上手くいってる?」


「上手くいくもなにも、」


「ごめんごめん、俺の言い方が悪かったみたい。兄さんを困らせる気はないんだ。今のはなし。忘れてくれていいよ」


 氷鷹ビンインはふっと口元を緩めて笑みを浮かべると、風獅フォンシーが言いにくいことを言わずにいいように、自ら話題を取り下げた。


「あの子たちすごく仲良さそうだったから、記憶が戻ったのかなって思ったんだ。もしかしたら、昔の俺たちのことも思い出してくれるかもね、」


「たった数日の出来事を、ずっと憶えていられる者などいないさ」


 あの時の思い出が、風獅フォンシーにとっては淡い思い出で、あの日の出来事を今でも繰り返し夢に見る。ある者にとってはすぐに忘れてしまうようなどうでも良い思い出。しかしある者にとっては、忘れがたい大切な思い出なのだ。


 風獅フォンシー氷鷹ビンインとの駆け引きに似た会話に付き合いながらも、生涯忘れることはない大切なあの日の思い出に、想いを馳せるのだった。



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