第十一話 青年の正体



 自分よりも冷たい指先が触れ合ったまま、連れられて来た先。そこは人界のどこかではなく、別の場所。翠雪ツェイシュエはその異様な雰囲気に表情を変えるでもなく、自分を連れ出した魔族の青年の横顔を見上げていた。


 彼が魔族であるなら、この場所も予想は付く。ここはおそらく魔界で、この部屋は青年の研究室だろう。薄暗いが所々に燈があるおかげで、どういう場所なのかが見渡せる。辺りを見回しながら、手を引いている青年の後をついて歩く。


 その部屋は、翠雪ツェイシュエが与えられている別棟の部屋とは比べ物にならないほどの広さがあった。部屋の中には、まるでどこかの蔵書閣かのように何列も並べられた背の高い本棚があり、綺麗に整理された膨大な書物や資料の数々が並べられていた。


「ここは、あなたの部屋ですか?」


 物怖じすることなく訊ねてくる翠雪ツェイシュエに、視線だけ向けて頷く青年だったが、いくつかある作業台のひとつを指差して無言で手を引き導く。


 指先と指先だけが触れているだけの状態で、強く握られているわけでもない。離れようと思えばいつでも離れられるのだが、なにか意味があるのだろうと思い、自分から手を離そうとは思わなかった。


「俺の研究は、蠱毒、魔物の合成、魔草まそうの調合、殭屍きょうしの制御を主としている」


 青年がぼそぼそと呟いた言葉に、翠雪ツェイシュエは翡翠色の眼を細める。どれも怪しい研究だが、わざわざそれを教える意図が読めない。自分が知りたいのは両親が殺されたあの事件の真相。それとこの場所になんの関係があるのか。


「ここに保管しているのは、俺の研究資料だけじゃない」


 ゆっくりとした暗い口調で青年は言う。その言葉が何を意味しているのか、勘の良い翠雪ツェイシュエは気付いてしまった。


「あの日、処分されるはずだった貴重な資料や書物は、ここにすべて揃っている」


「····やはり、そういうことでしたか」


 あの書庫にあった資料や書物は、すべて両親が揃えたもので、そのほとんどは自分たち以外が読んでもわからないように書き直されていた。それは悪用されないためでもあり、他の誰かの手に渡った時に不要なものと思わせるためでもあった。


 それを貴重だと言い切った目の前の青年は、あの膨大な量をすべて読み解いたというのだろうか。一冊一冊がそれぞれ別の暗号で読み解くような資料だ。そのまま読むとただの料理本だったりくだらない冒険譚だったり、まったく役に立たない言葉を並べた漢詩だったり、と様々なのだが。


「なぜ、魔族が私の両親を殺す必要が? 仮にあなたが関わっていたとして、目的はなんです? この研究資料を手に入れるため、ではないのでしょう?」


 確かに貴重な研修資料だった。

 だが、殺してまで奪う必要があっただろうか?


「俺は奴らに手を貸してやっただけ。奴らは奴らの欲しい物を手に入れ、俺は俺の目的を果たした。ある魔草まそうの被験。その結果が、今のお前。この資料たちは焼かれた顔の代償として俺が貰った。奴らにはその貴重さが理解できないようだったが、」


 薄緑色の右眼が翠雪ツェイシュエだけを映していた。その意味を、改めて思い知らされる。この青年から離れたいという気持ちと離れてはいけないという心の中の警告音に、眩暈に似た気持ち悪さを感じた。


 魔草まそうの被験。

 その結果。

 つまり、その結果を知るために自分をここに連れて来たと?


 長い前髪で隠れた左側の隙間から覗く青紫色に変色した皮膚が、なぜか気になった。母、翠霧ツェイウーが死の間際に青年にかけたと思われる呪詛の痕。


 魔族は魔力がある限り、受けた傷は治癒すると聞く。焼かれた、と彼が最初に言ったように、爛れたような痕はそこにはなく、変色したままの肌だけが残っているのは、呪詛自体は消えていないということだろうか。


「私があなたの言う被験者だとして、正直、その結果とやらがどういうものか自覚がありません。それよりも奴ら、とは誰の事です? 目的は煉丹術の秘伝書でしょうが、なぜ彼らはそれを奪わなかったのか。あなたはその理由も知っているのでしょう?」


 問いかけてみたものの、その答えが返って来るとは翠雪ツェイシュエも期待していなかった。彼らの間でどういう契約がなされているのかは知らない。それでも知る権利はある。そのためにこの魔族の青年ついて来たのだ。


「お前の偽りの記憶が、すべての真相を見えなくしている。それこそが、結果」


 触れている右手はそのままに、青年が左手で頬に手を伸ばしてくる。その手は翠雪ツェイシュエに触れることなく寸前で止まり、そのままゆっくりと下ろされた。


(まさか····あの日の私の記憶は、)


 俯き、何か考えるように翠雪ツェイシュエは瞼を伏せる。考えたくなかったこと、考えてしまえば、もう、戻れないと知っているからこそ。

 けれども、知らないまま生きていくなど、自分自身を否定するようなものだ。


「俺はずっとお前を見ていた。その経過を観察するために」


 翠雪ツェイシュエは怪訝そうに青年を見上げる。先程も似たような事を言っていた。それが本当だとしたら、正直、悍ましいと思う。

 彼にとって自分は被験者で実験体。それを観察していたという青年に対して、自分への強い執着心を感じる。


「この俺に消えない痕を残したあの女と同じ顔の、愛しい、実験体。特別な存在であるお前にだけ、良いものをみせてやる」


 青年は再び歩き出すが、その歪んだ感情に気味の悪さを覚え、翠雪ツェイシュエは上手く足が動かなかった。先程まで触れるだけだった指先を滑らせて手首を掴むと、痕が付くくらい強い力で手を引かれた。


「あなたは····誰ですか?」


 力なく呟いたその問いに対して、早足だった青年の歩がぴたりと止まる。瞳の色よりは濃い薄緑色の羽織が翻り、青年はにたりと笑みを浮かべた。


 その不気味さに翠雪ツェイシュエは何度も嫌悪感を覚えていたが、その笑みはそれ以上に得体の知れない不安を与えた。


「俺は、この魔界の第三皇子、緑葉リュイェ。魔物も妖魔も魔族も人間も、すべて俺の実験体。お前は、俺の大切な観察対象のひとりだ」


 その青年は、小動物を愛でるような眼で翠雪ツェイシュエを見下ろし、翠雪ツェイシュエはその真実に言葉を失う。そして今更ながら、選択肢がなかったにせよ、この青年について来てしまったことを後悔する。


「ここまで俺の手を離さなかったのは、褒めてやる。人間が魔界の瘴気に当てられれば、本来は生きてはいられないからな」


 言って、緑葉リュイェは再び歩き出す。痕が残るくらい強く掴まれていた指の力が先程よりも弱くなった。翠雪ツェイシュエが自分の許から逃げ出す理由がなくなったのを確信したからだろう。


 元々抵抗はしていなかったが拒否することもできないため、手を引かれたままついて行くしかなかった。壁の前で立ち止まり手を翳すと、隠されていた扉が姿を現す。その先からは異様に甘い香りが漂ってきて、焚かれている香木のせいか霧がかったように視界が悪い。


 しかし、奥に行くにつれ、甘い香りに混ざって腐臭のようなものが纏わりつく。虚ろだった翠雪ツェイシュエの瞳に映ったもの。


 部屋中に飛び散った血痕と生々しい肉片。

 黒焦げになった魔物のような残骸。

 封印符が何枚も貼りつけられた鉄の鳥籠。


 その鉄の鳥籠の中に囚われていたのは、透き通った翅を優雅に広げた、一頭の美しい紅い蝶だった。



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