第一話 女子医官、村里にゆく⑨

「怜玉さんが倒れたのですね」

 翠珠は訊いた。

「あ、ああ」

「宮廷医局に連れて行きます。なんでもいいから馬車を用意してください」

 そう言って翠珠はあつに取られる陶警吏と入れ替わるように正房に飛びこんだ。前庁を抜けて居間に入ると、床に倒れた怜玉とその傍らで泣き叫ぶ母親の姿があった。がいとうえりひもほどきながら、翠珠は怜玉の傍に駆け寄る。

 土間に半分伏せた顔は、汗まみれだった。半開きの目は焦点があっていない。うっすらと開いた唇から、はっはっと短く息を吐いている。ほっそりした身体は小刻みに震えていた。

 ──間違いない。

 脈を診る余裕などない。外套を脱ぎ捨て、斜め掛けにしたぬのかばんの中を探る。探りながら母親に指示をする。

「娘さんの頭を、お母様のひざの上にのせてください」

 小柄な子供をこの程度動かすぐらいは、婦人一人でも造作無いことだろう。

 翠珠は鞄から目的のものを取り出した。このときのために準備していたそれはてのひらほどの袋に入れていた。

「娘さんの口を開けてください。できるだけ大きく」

 もうろうとしていることが怖いが、事は一刻を争う。もたもたしているうちに意識が完全に失われてしまうかもしれない。母親は翠珠の指示に従い、怜玉の小さなあごつかんで、こじあける。なにか問うこともしない。考えることができないのか、若輩とはいえ医師にすがる気持ちなのかは分からない。

 翠珠は袋の中のものを、怜玉の口の中に入れた。そのうえで今度は慎重に顎を閉じさせる。

「しっかりして、怜玉さん」

 耳元で叫ぶと、怜玉は半ば反射的に頰や顎を動かしはじめた。一度安心したものの、すぐに緊張を持って観察をつづける。

「どうなったんだ」

 声に顔をあげると、いつのまに入ってきたのか夕宵と陶警吏が見下ろしていた。

「馬車は荷馬車を準備している。隣家が所有していたし、寝かせたまま連れて行けるからそのほうが良いと思って。風が当たらないものがよければ、いまから手配してくるが」

 夕宵が言った。陶警吏は普段のこわもてが噓のように、泣きそうな表情で娘を見下ろしている。三人も子供を亡くしていれば、どれほど気丈な親でもそうなるだろう。

「ありがとうございます」

 やがて怜玉の身体の震えが止まった。短かった呼吸がゆっくりと穏やかになり、目が焦点を取り戻して、自分の顔をのぞきこむ翠珠と視線をあわせる。

医師せんせい?」

 母親と陶警吏があんの息を漏らす。それで怜玉は、はじめて自分が母親の膝に抱かれていることに気づいたようだった。

「お母さま、お父さま?」

 活気のある声に夫妻は歓喜の声を上げ、次いで深々と頭を下げる。

「ありがとうございます、医師」

「李少士。まことにかたじけない」

「いえ、これはあくまでも緊急処置です。話は通してありますから、いまから宮廷医局に連れてゆきますのでよろしいですか?」

「もちろん」

「では暖かくさせて、馬車にのせてください。それからもしものときのために一泊できるぐらいの準備をしておいてください」

 てきぱきとした翠珠の指示に夫妻はうなずき、怜玉は陶警吏に横抱きにされていったん奥に下がっていった。あとに残された夕宵は、翠珠が手にしている紙袋を指さした。

「それは、なんだ?」

 翠珠は黙って袋を手渡す。夕宵はにおいをぐように鼻を近づける。そのうえで人差し指を突っ込んで、指先についたかけらをめる。

あめ?」

 自問のような夕宵の問いに、翠珠はうなずいた。

「固形の飴を細かく砕いたものです。それでなくても子供はのどが細いので、大きいままだとつまらせる危険がありますから」

 そもそも形体がなんであれ、意識が朦朧としている者に食べさせること自体が危ないのだが、背に腹はかえられなかった。なにも対処しなければ、亡くなっていたかもしれないのだから。

「なぜ飴で、意識が回復したのだ?」

 夕宵のその問いに答えることに戸惑いはあった。患者の病名は基本として迂闊に他言してよいものではない。

 けれどこの件は、まちがいなく陶家の子供達の死に関係している。であれば御史台官という立場の夕宵には伝えてもよいだろう。なおかつ彼は翠珠が絶対に他言しないようにと誓わせた、河嬪の病の件をいまだに黙している信頼できる人間だった。

 翠珠は息を吐き、呼吸を整えた。

「陶怜玉は、しようかち(糖尿病)を患っています」



「消渇って、太った美食家がかかぜいたく病ではないのですか?」

「それもだいたい中年の、そうだ、私くらいの年頃の男が罹る病だと」

 宮廷医局で陳中士から娘の病名を告げられた陶夫妻は、軽く混乱していた。さもありなん、消渇の患者に対する世間一般の印象は、彼らが訴える通りである。九つの、しかも人よりもせたわが娘が患者だと言われても納得できまい。

 翠珠は助手として席に着き、診療録を記していた。

「確かにそういった特徴を持つ患者が多いのは事実です。けれど質素で無欲な生活をしているにもかかわらず、過剰な仕事量などの精神的負担や元々の体質により消渇を発症する患者もいますので、全員が全員贅沢病というわけではありません」

 翠珠はその手の消渇の患者を診たことはないが、文献で読んだことはある。公務が忙しくなった役人が、やたらと水が飲みたくなったことを不審に思って医者の診察を受けたところ、消渇の診断がついたという内容だった。とはいえ一般的には生活の習慣に起因するところが多い病ではある。

 陳中士の説明を聞いてもなお、陶夫妻は信じがたい顔をしている。

「でも、九つの娘が消渇だなんて……」

「娘さんの病は成人が罹るものとはちがい、ひんの不足による生まれつきの消渇です」

「稟賦?」

 夫人がその単語をつぶやいた。

 稟賦とは生まれつきの性質を言うが、医学の場においては体質というか、もう少し固い言葉でこの病にかんして使うのなら「先天性の不足」というべきだろう。

 数はけして多くないが、子供の消渇の症例は報告が見つかった。

 症状は大人のそれと似通う部分も多いが、過食や生活の質の問題ではなく、普通に過ごしていてもある年齢に達したところで誘因なく発症する。

「この病の発作は、激しい運動や空腹によって引き起こされることが多いのです」

 あ、と夫人が声をあげた。思い当たる節があるのだろう。そもそも翠珠が気づいた理由のひとつが、自分の訪問によって怜玉が菓子を食べなかったことだった。あそこまでひどい発作は起こさずとも、空腹による気分不良は何度か訴えていたのかもしれない。

「しかも子供の場合、大人のそれより急激に増悪することが多く、すぐに対応しなければ生命にかかわることもあります」

 その陳中士の説明を神妙な面持ちで聞いていた夫妻だったが、やおら陶警吏の顔が青ざめてゆく。

「まさか……」

 気づいたかと翠珠は思った。筆を止めて夫妻の反応をうかがう。最初は不審気に夫を見ていた夫人もはっとしたようにくちもとを押さえる。

「では、亡くなった子供達は……」

「おそらく他のお子様達も、消渇を患っていたのではと思います」

 夫婦は衝撃で色を失う。見ていられずに、翠珠は紙面に視線を落とす。

 様々な思いはあるだろう。けれど衝撃の後に来るであろう思いは、そのほとんどは後悔と自責であるはずだ。

 もっと早く気づいていれば。あのとき子供がなにか言っていなかっただろうか? なぜあのときもっと注意深く見ていなかったのか? なにより──。

「ああ……」

 夫人は顔をおおい、陶警吏は唇をかみしめている。やがて彼はしぼりだすように言った。

「なんだって、そんな因果な病に……」

 そのつぶやきに背を突かれたかのように、夫人ががばっと顔をあげた。

「私のせいなのですか!? 私がちゃんと産んであげられなかったから」

 陶警吏にそのつもりはなかったのだろうが、子供に難治性の病が判明した場合、かなりの確率で母親が自分を責める、または周りが責任を押しつける場合が多い。

「人の身体は何者であろうと、両親から半分ずつじんせいを受け継いで成り立っています。稟賦が原因で起こる病は、両親のどちらかだけが悪いということはありません」

 ここにかんしてはきっぱりと陳中士は断言した。しかしこれは聞きようによっては両親がともに悪いというふうに聞こえる。

 混乱する夫婦をなだめるように、陳中士はさらにつづける。

「お二人はもちろん御長男も発病していないのですから、どちらかの腎精が悪かったということでは、けしてありません」

 そこで陳中士は一度言葉を切り、短い間を置いたあと「持論ですが」と前置いて、おもむろに語りだした。

「人間というものは程度の差はあれ、みな病の因子をどこかに抱えているものと考えています。親が子に自分の腎精を半分ずつ分け与えることで、うまくいけば使われなかった半分の腎精とともに病の因子を永遠に葬りさることができる。いっぽうで残念ながら受け継がれ、それが表面化してしまうこともある。御長男と他の御子さん達の差異には、こういった要素が影響しているのでしょう」

 陳中士の話を聞く翠珠の脳裡に、河嬪の姿が思い浮かぶ。

 母方の祖母や伯母おばと同じ眼病を抱えていた彼女は、それゆえあまりにも過酷な決断を強いられた。しかし彼女の母や兄弟姉妹は、誰もその病を発症していなかった。

「これは人の手でどうこうできる問題ではありません。ですから私も含めて健やかに生まれたことは、本人の徳や資質ではなく極上の幸運にすぎない。ゆえに己の運の良さだけを理由に、病を抱えた者を責めるようなごうまんな真似は誰にもできないのです」

 切々とした陳中士の訴えは、思った以上に翠珠の心に響いた。

 もちろん不摂生や不用心で病を得たり、怪我を負ったりする者もいる。けれどそうではなくどうにもならぬ理由で病人となった患者も多数いることを、自分は医師として人々にけいもうしていかなくてはならない。そうすることで人々は病を得たことを恥とせずに、胸を張って治療を受けられるようになるのだから。

 陶夫妻は複雑な表情で話を聞いていた。おそらく釈然とはしていないだろう。けれどことわりも道も知らぬ傲慢な者が「因果」とか「不徳」とかのくそのような言葉を振りかざして病人とその家族を非難したとき、いまの陳中士の言葉は彼らを支えるだろう。

「李少士、あれをお渡ししてちょうだい」

「は、はい」

 陳中士に言われて、翠珠は引き出しを開けた。中には二つの封書が並んでいる。しよほうせんと、先日まとめた消渇患児のための生活指導書きが入っている。

 陶夫妻にそれを渡そうとすると、二人はけんせいしあうようにたがいに目をむける。まだ頭が整理できていないのかもしれない。いくら陳中士が訴えたところで、なぜ自分の子供がそんな病にという衝撃と怒りは容易には消えないだろう。まして亡くなった三人の子供に対する罪悪感は、あるいは生涯消えないかもしれない。

 その混乱を受け止め、受け入れるには時間が必要だ。だから彼らは翠珠が差し出した封書をなかなか受け取ろうとしない。受け取ってしまったら、子供の病を認めなければならないから──。

 翠珠は封書を持ったまま立ち尽くす。しばらく様子を眺めていた陳中士がそっと息をつき、静かに告げた。

「たびたび申し上げましたが、お子さま方の病にかんしては、ご両親が悪いわけではありません。しかし悪くなくても、親は未成年の子供を保護する責任があるのです」

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