第一話 女子医官、村里にゆく⑧


 杏花舎に戻った翠珠を真っ先に出迎えたのは、紫霞だった。出迎えといっても詰所に入ったら、紫霞が診療録を眺めていただけの話だが。

 がいとうも脱がずに入ってきた翠珠に、紫霞はげんな顔をする。

「どうしたの? 直帰していいって言ったのに」

 女子医官の官舎は内城にあるから、皇城の杏花舎に戻るとなると回り道をすることになる。勤務時間との兼ね合いもあって、特に何もなければそのまま帰ってよいと言われていたのだ。

「気になることがあって……陳中士はどこに?」

シージエなら後宮のほうに行っているわ。少し前に出たばかりだから、半こくは戻ってこないと思うわ」

「そうですか」

 一瞬は消沈した素振りを見せはしたものの、こうなれば指導医の紫霞に相談するしかないことは分かっている。

「陶怜玉のことなのですが──」

 翠珠は今日診てきたこと、そして見たこともすべて話した。

 話を聞き終えた紫霞は信じがたいという顔をした。

「え、それって……」

 翠珠は大きく首肯する。

「おかしいですよね。だって九つの女児ですよ。陳中士が診察したときは、こういう所見はあまり顕著ではありませんでした」

「それは私も診療録を見たから覚えているわ。ちょっとその傾向はあったけど、正常範囲だと思って気にしていなかった」

 とはいえ陳中士も引っかかるところがあったから、翠珠に往診に行かせたのだろう。病状が浅いうちは、その日によってムラもあるので診断はつけにくい。今日は特にその症候が顕著に出ていたのかもしれない。

 だからといって九つの女児にこの証は考えにくい。それゆえ自分の未熟さからくる誤診ではないかと翠珠は疑ったのだ。

「それに陶怜玉にかんしては、師姐も服毒の有無を中心に診察をしていたから──」

 紫霞の口から出た服毒という物騒な単語に、翠珠は思いきって尋ねる。

「この所見が毒の影響ということは考えられませんか?」

「そうなると毒は、そのあたりの露店や酒家(飲食店)で毎日のように提供されていることになるわ」

 皮肉っぽく紫霞は言ったが、その通りだと翠珠も思った。それなら仕女が提供していた生水のほうがよほど怪しい。しかしそれが怜玉の現状に影響しているとは思えない。そもそも彼女が陶家に入った時期と、上の二人の子供達の死亡時期が一致しない。

「陶怜玉の現状と、兄姉の死はなにか関係があるのでしょうか?」

「気になるのは分かるけど、それは危険よ。いまは患者だけに注意──」

 たしなめるように語っていた紫霞が、急に口をつぐむ。彼女はなにかを思いだそうとするようにしばし思案していたが、やにわに立ち上がると外に飛び出した。翠珠は急いで後を追いかける。紫霞が飛び込んだ先は書庫である。比較的新しい冊子型の書籍、加えてこれまでの症例をまとめたものが棚に整理されている。貴重な古典は、研究施設も兼ねる太医学校で保管されている。

 そのうちの一冊を引き抜くと、紫霞はぱらぱらと頁をめくりはじめた。目を皿のようにして紙面を眺め、ようやく彼女の手が止まった。

「あった」

 紫霞の口から漏れた言葉に、翠珠は素早く彼女の傍に回りこむ。そして「これよ」と言って紫霞が指さした先を熟読した。



 その日から翠珠はさまざまな文献や書物を読みあさった。

 紫霞はもちろん、陳中士とも意見をすり合わせて次の陶家の訪問のために備えた。

 そうして迎えた当日、翠珠はふたたび陶家に足を運んだ。大通りをしばらく南下してから左折すると、やがて閑静な小路に入る。そこをしばらく歩いていると、小さなつじのところで夕宵と鉢合わせた。

 予期せぬ再会に二人は驚きあう。

「陶警吏の家ですか?」

「陶警吏の家か?」

 方向からして目的はそこしかないので、問いが重なったことには驚かない。二人はうなずきあって、それからは並んで歩いた。

 あの騒動ののちのことをくと、陶警吏は謹慎になったということだった。前々から問題視されていた枯花教捜査の単独行動に、今回の騒動が決定打となった。

「だいぶ焦っているから、放っておいたらなにか大きな問題を起こしかねない」

「焦ってとうぜんでしょう。すでにわが子が三人も亡くなっているのですから」

「そうだな」

 夕宵は同意した。二人とも親の立場ではないが、普通に人の心を持っていればそれぐらいの想像はつく。だからこそ陶警吏の暴走を恐れて、彼を謹慎処分にした警吏局の判断は正しいと思う。

「鄭御史は、警吏を見舞いに行くのですか?」

 官吏の監察と弾劾という御史台の役割を考えると、夕宵が不始末を起こした陶警吏を訪ねる理由は大体想像ができるが、見舞いという柔らかい言葉で翠珠は尋ねた。

「ああ、ちょっとな」

 夕宵は言葉を濁したので、翠珠はそれ以上追及しなかった。予想通りだったらはっきりとは言いにくいだろうし、そうでなかったとしても御史台官という職種上、他言できないこともあるだろう。

「李少士は、陶怜玉の診察か?」

「はい。今日は陶警吏も在宅なのですね。ちょっと緊張します」

「そういえば、あの仕女はくびになったらしい」

 思いだしたように夕宵は言った。札のことはおいておいても、生水の件を考えればとうぜんだろう。

「あ、教えたんですか? 生水のこと」

「どのみち陶家には、もう居づらくなるだろうしな」

 夕宵ははっきりとは答えなかったが、苦笑いが答えのようなものだった。

 そろそろ陶家の門が見えてくるというところで、夕宵が独りごちるようにつぶやいた。

「結局、三人の子供の死は偶然だったのだろうか」

 その言葉に翠珠は応じなかった。

 まだ分からない。今日の様子を診て、可能性があればすぐに宮廷医局に連れてくるように陳中士にも紫霞にも言われている。ただ色々と家の名誉の問題もあるので、可能性の段階ではかつに口には出せない。

 それにたとえ確定しても、口外できないときはある。

 今年の夏に後宮を去った河嬪の、美しくも哀しいあのひとみ。半年近く過ぎた今でも、思いだすたびに胸が引き絞られるような痛みを覚える。そのとき翠珠とともにいた夕宵が、どの程度の痛みを共有したのかは分からない。けれどここで追及しないということは、ある程度は察してくれているのだろうか。

 門扉の前で訪問を告げようとしたときだった。奥から女の悲鳴が聞こえてきた。翠珠と夕宵は顔を見合わせ、夕宵が勢いよく門扉を押し開けた。かんぬきがかかっているものと思っていたが、そういえば今日は陶警吏が在宅だった。まして翠珠の訪問は分かっていたのだから、昼の日中にそこまで用心深くはしていなかったのだろう。

「怜玉、怜玉っ!」

 覚えのある夫人の悲鳴が聞こえる。翠珠はくちもとを押さえた。陶怜玉に異変が起きたことはまちがいない。ちょうどそのとき正房の扉が開いて陶警吏が出てきた。

 ひどく青ざめた彼は、翠珠と夕宵の姿に虚をつかれたような顔をする。

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