第一話 女子医官、村里にゆく④


 たまには顔を見せろと呂貴妃が言っていた。

 そう紫霞から伝言を受けたので、翠珠は彼女の殿を訪れることにした。

 後宮の中心には皇帝宮と皇后宮が南北に並ぶ。皇后宮はたんきゆうと称されており、これら二つの宮の東西のそれぞれの区に、ひん達の殿が六つずつ並んでいる。

 東六殿と呼ばれる建物は、もくれん殿、しやくやく殿、そう殿、すいれん殿、もくせい殿、とう殿。

 西六殿はきく殿、ばい殿、ろうばい殿、おん殿、殿、よう殿となる。

 呂貴妃が住む芍薬殿は、東六殿の中でも特に格の高い殿のひとつである。

 翠珠の担当は紫霞にならって西六殿なので、よほどのことがないかぎり東区には顔を出さない。本来であれば紫霞もそうなのだが、彼女は特別に呂貴妃の担当をしているのでちょいちょいと足を運んでいる。

 そんな事情で、翠珠はまあまあ久しぶりに芍薬殿の門をくぐった。灰白色の化粧石を敷き詰めた院子にわを抜けて前庁(ホール)に入ると、奥から呂貴妃付きの女官・りんじようが出てきた。青灰色のおう(上着)に深緑色のくんは、高等女官のお仕着せである。

「李少士、やっときたわね。ちょっとあんまりが過ぎるんじゃない」

 相変わらずのこちらの都合を考えない発言だが、それでもなぜか憎めない人柄ゆえもはや怒りもわかない。

「いろいろと忙しいんですよ」

「それは妟中士からも聞いているけど、呂貴妃様が寂しがっておいでよ」

「ありがとうございます」

 などと話しながら奥の部屋に誘われる。ほうろう細工のたまを連ねたすだれをかきわけると、窓際でしゆう針を動かす呂貴妃がいた。刺繡のような細かい作業を首尾よくこなすには、採光はひつ条件だ。

 足音が聞こえたのか、呂貴妃はすいっと顔をあげた。

 濃い化粧が似合う彫の深い面差しは、窓から差し込む光を受けて以前より和らいで見える。かけどりもんを表したすいいろしよくきんの華やかなおおそでさんが、威厳のあるぼうを際立たせている。三十八歳の後宮第一位のきさきにふさわしい風格の持ち主だった。

「おお、李少士か」

「呂貴妃さまにごあいさついたします」

 ひざをついた翠珠に、呂貴妃はすぐに椅子を勧める。女官が翠珠のための丸椅子を運んでくる。呂貴妃は刺繡枠を窓際に置き、奥の長椅子に移動する。

「息災のようだな」

 ゆったりと呂貴妃は言った。医者がかけられる言葉としては変な気もするが、翠珠はおかげさまでと笑顔で返した。

「冬大士と晏中士から聞いておりましたが、呂貴妃様も近頃はお健やかだと──」

「それこそおかげさまでだな。二人の提案を受け入れて、後宮の差配を他の妃にも任せてみたが、それがだいぶん良かったようだ」

 呂貴妃は苦笑した。皇后不在の後宮での第一位の妃。しかも唯一の妃の位にある存在として、彼女は後宮の秩序を守るために尽力していた。

 そんな重責も一因だったのだろう。今年になって呂貴妃は次から次へと病を併発してしまった。どれも生命にかかわるものではなかったが、だからといって楽なものではなく患者を著しく疲弊させることはまちがいない。

 責任感の強い呂貴妃にはなかなか勇気がいる決断だっただろうが、現状の呂貴妃の様子を見るかぎり、彼女のためには正解だったようだ。

「西六殿のほうは、紫苑殿のそんひんに一任している」

 呂貴妃が口にしたその妃嬪は、序列では第三位にあたる。話をしたことはないが、西六殿の方なので顔は知っている。もちろんむこうは翠珠のことなど知らぬだろう。三十代半ばほどだが子には恵まれず、すでにちようあいも衰えているので権勢のある妃嬪とは世辞にも言えない。

 その彼女に西六殿をまとめる役目を与えたことは、呂貴妃の思いやりだったのかもしれない。それでなくとも西六殿は、寵愛の深かったひんの出家もあり臨月のえいひんがあいかわらず横暴を働いている。あれでも紫霞に言わせれば、以前よりだいぶましとなったというから驚きだが。

「あのは、私とほぼ同じ時期に入宮した。この年になれば以前のように親しく話すこともなくなったが、変わらず真面目でよい人間だ」

 呂貴妃は信頼を置いているようだが、そういう人が栄嬪を抑えることは、並大抵の苦労ではなかろうと、翠珠は孫嬪を気の毒に思った。

 こちらの近況も訊かれたので、先日の北村での話をした。枯花教の話題ではなく、とうびよう製造のために出向いたという内容だった。

「天花の兆しがあるのか?」

 不安げに呂貴妃が訊いた。

「軽い天花ですし、収束しつつありますので、さほど不安になることはありません。それにだいぶ田舎ですから人の往来も少なくて、病が広がる可能性も低いものと存じます。念のために医官局が、症状が治まるまで村民達に村を出ぬよう命令を出してはおります」

 翠珠の説明に、呂貴妃はあんした顔をする。

「とはいえ天花はやはり恐ろしい病だ。そなたも気をつけるのだぞ」

「ありがとうございます。けれど私は痘苗を接種しておりますので」

「ならばよかった。実は私の子供達も接種しているぞ。二日後に熱が出て軽い天花を患ったが、後遺症もなく数日で治まった」

「成功したということですね」

 などと話しているところに女官がきて、先程話題にしていた孫嬪の訪問を伝えた。話のきりも良かったので翠珠はいとまを告げた。呂貴妃も別に引き留めず、土産に菓子を持たせたうえで「また、顔を出すがよい」と親し気に言った。

 前庁に出ると、孫嬪が待っていた。女官を一人連れている。

 ふっくらとした頰に、れんいろの大袖衫がよく似合う優し気なようぼうの婦人だった。翠珠の挨拶に型通りに返す反応を見ても、認識はされていないようだった。官服で女子医官というのは分かるだろうが。

 芍薬殿の門を抜けて宮道に出る。路面にはどこからか飛んできた枯葉が散っている。景京は北村よりは温暖なので、樹木にはまだ紅葉が残っている。雑役に従事する宮女やかんがんが頻繁に掃き清めても、この季節はどうしたって追いつかない。軒端を延ばした屋根付き塀の内側には、落葉の樹木が多数植えられているからやむないことだった。

 てくてくと足を進めていると、少し先に人影を見つける。塀にもたれるようにして一人の少女が立っていた。朱色の襖と桃色の裙というかわいらしい組み合わせは、若い女官のお仕着せである。

 あんなふうに壁に背をつけたら服が汚れるのにと思ったが、翠珠が注意することではない。目礼して通り過ぎるさいに少女の顔をちらりと見る。年の頃は十六、七歳くらいと思われた。あどけなさは残るが人目をく美しい乙女だった。すねたような表情が頼りなげで、年下らしいこともあってなんとなく気になってしまうが、だからといって通りすがりの相手に声をかけるほど翠珠もお節介ではないから、どこの女官なのかと思いつつ、そのまま無言で通り過ぎた。



 その二日後。杏花舎の診察室を、珍しい患者が訪れた。

 九つのその女児の名はとうれいぎよく。あの陶警吏の娘だった。

 宮廷医局は官吏とその家族の診察も請け負うから、怜玉の診察は管轄外ではない。しかし陶警吏のような中級官吏の家族が、その制度を利用することはあまりない。それは彼らの大半が、宮廷から距離のある場所に住んでいるからだ。かん街となる内城やその近くにやしきを構えられるのは上級官吏ばかりだった。つまり官吏本人はともかくその家族は、外城にある医療院を使った方が早いのだ。

 担当はちん中士が請け負った。十歳の男児を筆頭に三人の子の母であるこの医官は、紫霞の親友だ。三十代半ばの色白で優し気な雰囲気の婦人で、子供を担当するには適任だろうと女子医局長が指名したということだった。

 その日の翠珠は診察室の当番だったので、陳中士に助手として付くことになった。ちよの内暖簾のれんをかき分けて待合室をのぞくと、先日北村で見かけた役人が座っていた。

(やっぱり、この人が陶警吏だったんだ)

 むこうは翠珠の事を認識していないようで、隣に座る四十歳ぐらいの婦人とともに黙礼しただけだ。彼の妻であろう。彼女の横には桃色の襖裙をつけた小柄でせた女児が並んでいる。陶怜玉でまちがいないだろう。

「どうぞ、中にお入りください」

 翠珠の呼びかけで、三人が揃って立ち上がる。婦人から背を押されるようにして怜玉は入ってきた。あんのじょう婦人は診察室で、自分は陶警吏の妻で怜玉の母だと挨拶をした。

「ここに座って」

 患者用の椅子を示すと、怜玉は素直に座った。痩せているが顔色は悪くない。ただ九つの子供にしては活気がないようにも思う。しかし独身で兄弟もいない翠珠は子供と身近に接したことがないので、彼らの実態がよく分からなかった。単に緊張しているだけかもしれないが、そのあたりの判断は三人の子の母である陳中士は得意であろう。

 陳中士は彼女らしいおっとりとした語り口調で、怜玉に問診を行う。はたから見れば母が娘に接するような態度の裏で、熟練なこの女医は、患者のあらゆる面に神経を研ぎ澄ませているはずだった。

 単純な見た目や、何気ない所作を観察するぼうしん。声や話し方、呼吸音、口臭や体臭のにおいを聞くぶんしん。脈を診るなど、実際に患者の身体に触れて行うせつしん。この三つに問診を加えた四診は、治療の指標となるしよう(東洋医学における身体状況の評価)をたてるためのひつ事項である。

 その陳中士の問いに、怜玉と母親がかわるがわるに答えている。父親である陶警吏は険しい表情でその様子を見守っていた。

 診察を終えた陳中士は、両親のどちらに対してともなく語った。

「現状では心配なさっていたようなことはないかと思います。けれどちょっと痩せ気味ではありますね。娘さんは食が細いのですか?」

「いいえ、きちんと食べています。大人顔負けとまでは言いませんが、同じ年頃のしんせきの子供と比べても多いほうかと思います。ですから──」

「それは体質もありますから、一概に異常とは言えません」

 夫人の訴えを途中でさえぎり、陳中士は陶警吏に目配せをする。陶警吏は察したようにうなずき、妻と娘に待合室に行くように言った。

 母親として追い出されることに不満を述べるかと思いきや、夫人はあっさりと夫の命に従った。夫唱婦随の考えであればそれが正しいが、世の女性は妻としては従順でも母としては我を通す者がわりと多いので珍しい。加えて外で働く父親は、母親ほど子供のことをわかっていない場合が多いので、多少横暴な夫でも子供にかんしては妻に従う者が大半だった。そんなちょっとした違和感を覚えて、翠珠は内暖簾をくぐる母娘おやこの背中を目で追っていた。

「懸念なされていた毒物のたぐいは、現状ではないと言ってよいでしょう」

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