第2話
***
「ねぇ、美紅。将おじいちゃんの家に行って、この鍋返して来てくれない?」
母の提案に、リビングでのんびりしていた私は腹の底から絞り出すように「えー」と言う。明日から土日という金曜日の夜が一番ワクワクするという時間なのに、水を差された気分だ。
「いいじゃない。たったの五分、歩くだけなんだから」
「距離の問題じゃない」
――純粋に将おじいちゃんに会いたくないのだ。
私の内心を読んだように、母は溜め息を吐くと、
「別に無理して将おじいちゃんに会うことはないわよ。多恵おばあちゃんに渡すのでもいいし、玄関先に置いて来るだけでもいいから」
「はぁ、もう分かったよ。やっぱさ、多恵おばあちゃんから残り物なんて貰わなくてもいいんじゃない? 返すのだって面倒くさいし」
「嫌よ。いつか美紅も分かると思うけど、毎日ご飯作るのって大変なんだからね。ほら、夜遅く前にさっさと行って来なさい」
それが人に物を頼む態度かなぁ、と小さく文句を垂れながら、私は鍋を持つ。「まったく、前は自分から行ってたのに、どうしたのかしら……」どうやら小言を言うのは、お互いさまのようだ。
これ以上文句を言うことは止めにして、自宅の扉を開けると、雨が本降りになる前の、独特の臭いが鼻をついた。本格的に降り出す前に、早く用事を済ませた方が良さそうだ。私は両手で掴んでいる鍋をギュッと握ると、駆け足で将おじいちゃんの家へと向かった。
ものの数分も掛からずに、将おじいちゃんの家の門が見えた。私は門から全然離れた位置で立ち止まり、塀越しに母屋の影を見る。
いつ見ても、昔ながらの立派な家だ。母方の家系が何をした家かは分からないが、この地域ではそこそこ有名らしい。広い家に、祖父母はたった二人で暮らしている。
以前だったら、唯一の孫娘である私が来ると、二人とも優しく歓迎してくれたが、今はその優しさが重く感じる。
「……はぁ」
このまま引き返したい思いに駆られながら、とぼとぼと門に向かって歩き出す。すると、誰かが勢いよく門を飛び出して来た。
体格のいい背格好から、その人物が男だということは分かった。男はわき目も振らず、私が歩いて来た方向とは真逆の方向に駆け出していく。
「び、びっくりしたー」
私は心臓をドキドキとさせながら、両腕で鍋を抱きしめていた。
迷いのない足取りで遠ざかる背中を見つめながら考える。
一体誰だったんだろう。一瞬見えた横顔は、どこかで見覚えがあったような気がした。しかし、頑張って思い出そうとしても、私の頭の中にハッキリと浮かんで来る顔はなかった。
良くない噂が立っている今の将おじいちゃんに、わざわざ好き好んで会いに来る人がいるだろうか。
「あ、やばっ」
そんな失礼な自問自答を繰り返す内、小粒の雨が私の髪に触れたのが分かった。このままのんびりしていたら、家に帰る頃には本格的に雨に打たれてしまいそうだ。お風呂にまだ入っていないとはいえ、出来るだけ濡れたくない。
飛び出して来た人物に対する興味より、雨に打たれたくない思いが勝った私は、用事を済ませるために、門をくぐって玄関まで早足で進む。
「鍋返しに来たよ」
「あら、美紅ちゃん」
誰も反応しませんように。そう願いながら開けた玄関の先には、ちょうど自室へと戻ろうとしていた多恵おばあちゃんがいた。多恵おばあちゃんが満面の笑みを浮かべて私に出迎えてくれるのを、私は口元に意識を向けながら、玄関先で靴を脱がずに待つ。
「いつも鍋持って来てくれてありがとうね。お母さんが面倒くさがりだから、美紅ちゃんも困るでしょ」
「ううん、全然大丈夫だよ。家から近いし」
「なら、いいけど。たまにはお母さんに来させても良いんだからね」
「あはは、多恵おばあちゃんが今度から自分で来なさいって言ってたって、帰ったら言っておくよ」
他愛のない会話を交わしながら、多恵おばあちゃんに鍋を手渡した。綺麗に洗われた鍋を見た多恵おばあちゃんは、
「どうだった、今回の煮物は美味しかった?」
「あ、うん。美味しかったよ」
「あら、正直で嬉しいわ」
私の味気のない感想に、多恵おばあちゃんの機嫌は更に良くなっていく。
「将おじいちゃんが育てた野菜があるから、今度はそれで料理をするね」
「……っ」
将おじいちゃんという単語が出て来て、体にも心にも妙な緊張が走ったのが自分自身でも分かった。
変に意識していることを多恵おばあちゃんに悟られないように、「そ、そういえば、将おじいちゃんは今日はいないの?」と空気が変わらない内に問いかける。少しだけ声が上擦ってしまった。
「あら、外で将おじいちゃんに会わなかった? 美紅ちゃんが来るちょっと前に、家を出て行ったんだけど……」
「ううん、見なかったよ。知らない人は見かけたけど……」
多恵おばあちゃんは、「美紅ちゃんの知らない人? でも、さっきいたのは……」と記憶を掘り起こすように、こめかみに指を当てている。
どうしても気になるわけではなかった私は、多恵おばあちゃんの次の言葉を待たなかった。
「それにしても、将おじいちゃんは夜遅くにどこへ行ったの? コンビニ?」
「ううん、お花の様子を見に行くって言ってたわ」
夜も遅くなって、雨も降りそうだというのに、何でわざわざ行く必要があるのか。別に今日無理をしなくとも、明日の朝、晴れた時にでもやれば問題はないだろう。
将おじいちゃんの行動に、ふつふつとした思いが浮上して来る。
そんなんだから――、
「――周りの人に、幽霊だとか何だとか言われちゃうんだよ」
溜め息と共に、自然と口をついて言葉が出ていた。
多恵おばあちゃんは複雑な表情を浮かべていたが、私は見て見ぬふりをした。迷惑を被るのは、結局身内である私達なのだ。将おじいちゃんが変な行動をするせいで、中学校での私まで、似た扱いになっていくのは勘弁してほしい。
ふと家を叩く雨の音が耳に入った。まだ雨のリズムは途切れ途切れではあるが、少しずつ早くなっている。あと少しで本降りになるのは明白だった。
帰るのに、丁度いい頃合いだ。
「雨強くなりそうだし、私、そろそろ帰るね」
「ねぇ、美紅ちゃん」
しかし、帰ろうとした私の背中に、多恵おばあちゃんの声が注がれる。取っ手に伸ばしていた手を止め、「ん、どうしたの?」と振り返った。
「明後日の日曜日、多恵おばあちゃんに付き合ってくれない?」
「え、うん、別にいいけど。どこに行くの?」
そう訊ねると、多恵おばあちゃんは目を細めて、顔をしわくちゃにさせた。
「言ったら面白くないでしょ。デートコースは、当日まで楽しみにしないと」
悪戯っぽく言う多恵おばあちゃんに、もう何を言っても答えてくれないなと確信した私は、「う、うん」とやや不満げながらに頷いてみせた。
「当日、雨降らないといいけどね」
週末の天気を憂う多恵おばあちゃんに、「たぶん大丈夫だよ」と軽く言葉を返して、私は扉を開いた。
数日先の天気よりも心配だったのは、雨脚が急に強くならないかどうか――、ただそれだけだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます