屋根のない部屋
八六
屋根のない部屋
新生活も始まって、浮足立つ春。
私の住んでいる家には、屋根のない部屋があった。部屋の中央には、昨日降った雨で出来た小さな水たまりが一つ佇んでいた。御覧の通り雨も平気で降り注ぐ。
なんでこんな家に住んでいるのかは私にも分からない。でもこの部屋に住んで、もう二週間も経つ。借りてきた張本人である詩はあどけなさを残したような寝顔でクッションの上ですーすーと気持ちよさそうな寝息を立てている。当初はこんな家おかしいでしょと思ったけれど、人間の適応能力には驚かされる。
洗濯物を終えて、ほっぺにつんつんと触れても少し寝息が乱れるだけで起きる様子は全くない。相変わらず綺麗な顔してるなぁ。
「そろそろ夕ご飯の準備をしなきゃ」
私は寝顔を眺めるのもそこそこにして、仕度を始めた。まな板を取り出して、人参をトントントンとリズミカルに切っていく。今日は、テキトーにカレーでも作ろうかな。下ごしらえを終えて、鍋で具材をぐつぐつ煮込んでいく。カレーのルーが溶けだして、スパイスの効いた匂いが部屋を満たし始めた頃、ごそごそっとリビングの方から音がした。
「おはよー、今日の夜カレー?」
眼をこすりながら、寝ぼけたままの詩が夕飯のメニューを尋ねる。
「そうだよー。あんまり昼寝すると、夜寝れなくなっちゃうよー」
「大丈夫だよー。光のおいしいカレーをお腹いっぱい食べれば自然と眠くなるからさぁ」
「はいはい。あと少しでできるから、ランチョンマット敷いといてー」
「あいよー」
そう言うと、ランチョンマットを持って、屋根のない部屋に消えていった。
あの部屋でご飯を食べたいときは決まってそうするのだ。二人分のカレーとサラダを器用に部屋まで運んでいく。学生の時に飲食店でバイトをしていた経験がこんなところで活きるなんてね。
水たまりを避けるようにしておかれたローテーブル。その上に置かれたカレーライスから立ち上る白い湯気はふわりと空へと消えていく。春になったとはいえ夜になれば少し肌寒い。でも、この寒さもあと二週間もすればなくなってしまうと思うと、少し寂しい。
「早く食べよ食べよー」
「そんな急かさないでよー。はい、じゃあ手を合わせてー」
「「いただきます」」
ふーふーと息を吹きかけて、ぱくりと口に運ぶ。聡美がそうするのを見てから、私も一口食べてみる。
「今日も中辛と辛口のミックス?」
「そうだよ、詩好きでしょ」
「うん」
パクパクと食べ進めていく。詩はいつも食べるのが早い、そしてよく食べる。私が半分くらいを食べ終えたところで、詩はおかわりーと言って皿を持って部屋を出ていった。ふと視線を下げると、水たまりに映る星空が目に入った。顔を上げて、空を見る。闇の只中で光る星々、その間を抜けていく飛行機までもが鮮明に見えた。
「おぉ、今日は綺麗に星が見えるねー」
カレーライスをスプーンで持ち上げながら、詩は呟く。
「そうだね」
食べ終えたカレーは、今日も思ったより辛かった。
お皿洗いを二人で済ませて、屋根のない部屋に戻る。水たまりを挟んで二人で寝転がる。空気にさらされているフローリングは少し冷たい。
「ねぇ、そろそろなんでこの部屋借りたのか教えてよ」
「秘密―」
「そろそろ教えてくれてもいいじゃん」
「でもなぁ」
「もう。じゃあ、いいよ」
ふん、といじけてみる。押してダメなら引いてみよ、だ。
「わわ、ごめんごめん。まぁ、ね。この部屋、冷暖房効かないし、雨は入ってくるし、快適には程遠い部屋だけどさ、一秒一縷留まることなく変わってく世界のことを感じ取れるでしょ。そんな世界をね、家の中でも二人で感じていけたらな、なんて。それになんか特別な感じするでしょ。まぁ上手く言葉にできてるか分からないけどさ、そんな理由かな」
てへへと照れくさそうに笑う。
詩は時々ロマンチストみたいなことを口にする。
「ふふふ」
笑みがこぼれてしまう。
「あ、笑ったなぁ! だから言いたくなかったのにぃ」
今度は詩がへそを曲げてしまった。
「ごめんごめん。詩のロマンチストぶりは健在だったんだなぁって。でも、嬉しかったよ。確かにいつも二人でいる時はこの部屋だもんね」
四畳半ほどの空間を見回す。私が体をぶるっと震わせると、
「やっぱりまだまだ寒いね」
詩がにひひと笑って、羽織っていたブランケットをひらひらさせて、私を招き入れる。
詩が口を開く。
「光はさ、初給料が入ったら何買うか決めてる?」
「え、特に何も決めてないかなぁ。詩は?」
「私はね、おっきいハンモックを買うんだー。それでね、この部屋に掛けて、二人で一緒にゆらゆらだらだらしたいな」
「まぁ、詩らしいね。でもさ、この部屋に置いといたら雨降ってびしょびしょになって、すぐカビちゃうかもよ?」
「確かに……。まぁ、その時考えればいいでしょ。光もこれからのこととか色々考えといてよー」
「はいはい」
私達は再び空を見ていた。星は変わらぬ光度で輝いている。冷たかったはずのフローリングはいつの間にか温かくなっていた。
ベッドの上で目を覚ます。
「おはよう、光」
「おはよう」
いつも通りの朝の挨拶を交わす。ゆったりと着替える詩を横目に私はささっと朝の仕度を済ませる。
昨日の残りのカレーを温めている内に、詩は欠伸を噛み殺しながら寝室から出てきた。
「詩、今日仕事あるんだから早く!」
「うわぁん、仕事なんて行きたくないよー」
「ハンモック買うんじゃないの?」
「はっ、そうだった。頑張らないと」
詩はそう言うと、カレーを食べ始めた。
「私、先に出るからお皿洗っといてねー。あと戸締り忘れないでよー」
私は玄関口から詩に声をかける。
「はいはーい」
返事が返ってきたことを確認して、玄関の扉を閉める。鍵を指で回しながら坂を下り始める。春の陽気な風が頬を掠める。昨日よりも暖かくなったことを肌で感じる。少し歩いたところで振り返る。今出てきたばかりの家が目に映る。
私は微笑みを浮かべながら再び春のあたたかな空気の中を歩き始めた。
待っていてね、私の帰る場所、そして私達の箱庭。
屋根のない部屋 八六 @hatiroku86
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