パン・ドゥ・ミ

パン・ドゥ・ミ

「バレンタインのプレゼント。来てくれたからあげる」

　って君が出してきたのは巨大な紙袋。

　その向こうでは目黒川がきらきらと輝いている。君の行きつけだっていう古民家カフェのテーブルの上に置かれた大きな荷物。

「何この食パン」

　大きすぎて、おしゃれカフェに全然溶け込まない紙袋。

　その中の、多分切られていない一斤の食パン。

　袋ごしにも小麦の香りがふわふわと漂っている。

「違うよ、これは食パンじゃない」

「じゃあ何」

「私の全てだよ」

　そう言って悪戯っぽく笑う。

　君は頭の回転が速いから、時々置いていかれそうになる。

　何これ。私の全て？

　そんなことないよ、たまごサンドの価値くらいはあるよ。って笑うのか。

　私を食べてちょうだいって意味？　って本気で怒られそうな冗談で返すのか。

「パン・ドゥ・ミ。知らないか、キミみたいな人は」

　何も答えられない僕を、君は笑う。

　150cmの君が両手で抱えてようやく持てる巨大な紙袋は、その偉そうな名前と不釣り合い。

「教えてあげるよ」嬉しそうに言う。

「バゲットって知ってるよね」

「硬いパンだよね。フランスパン」

　って言うと。

　フランスパンって。昭和の生き残りみたいな呼び方。って笑われる。

「あれは皮の味と香りを味わうパンなんだ。ぱりぱりのクラストが魅力。でもこれは逆だよ。パン・ドゥ・ミって、パンの身のこと。中身の甘さ、やわらかさを味わうパン」

　これはね。私が本気で作ったはじめてのパンだよ。

　ぜんぶ北海道産。

　小麦粉も卵も牛乳も生クリームもバターも。

　友達に送ってもらったんだ。水もだよ。結局、私にはそれが一番おいしかった。

　東京に来れば、私の知らない凄いパンがたくさんあると思ってた。見た目は確かに良かったんだけど、何か違った。

　実家にはもう何年も帰ってないけどさ。東京のパンは結局、実家から徒歩5分の小さなパン屋を超えられなかったんだよ。

　私が作りたいのは、きっと、昔からこういうパンだった。

　だから、これはわたしの全て。

　私の過去、未来、北海道も東京も、全部だよ。

　つらつらと。何だか嬉しそうに言う。

「そんな凄いもの、もらっていいの？」

　さっきから、どう反応すればいいのか分からない。

「別にあげるなんて言ってないよ」

　頼んでいたコーヒーが来て、君はありがとねーって店員に手を振った。見たことない笑顔。

「作ったから味見してよってだけ」

　こっちに向き直った時に少し目が鋭いのは何故。

「味見にしては、凄い量だけど」

「食パンはこの量で焼くからふっくら焼き上がるんだよ。焼いたことない人が適当なこと言わないでよ」

「でも切って配らずに、全部くれたんだよね」

「切ったら冷めちゃうでしょ。焼きたての熱々だからおいしいんだよ」

　君はコーヒーをマドラーで混ぜて、そして牛乳を注ぎ込む。くるくると、水と牛乳が渦を描く。

「せっかく、おいしいのを食べさせてあげようって親切心だったのに。何、その変な勘違い。なんかすっごく、めんどくさいんだけど」

ふぅ。

コーヒーを飲んで君は息をついた。

こんなに近くにいるのに、食パンの香りしか感じない。

「別にさ、誰でも良かったんだよ」目黒川の水面を、君は目を細めて見遣る。

「適当に色々な人に電話かけて、捕まった人にさっさとあげよう、って思っただけ」

　私はね。オトモダチが多いんだよ。

　キミなんてさ、何十人いるオトモダチのひとりなんだから。絶対に勘違いしないで。

　二人で会うことに、特別な意味なんて無いんだから。

　会うたびに君はそう言う。

「ただ、今日最初に電話に出たのがキミだった。それだけ」

「運が良かったね」

　君の全てなんて他の誰にも見せたくない。

　のだけど。本当に喜んでいいのか。段々分からなくなってくる。

　味見なんだから。早く食べて感想を聞かせてよ。って促すから、袋を開けて端っこをちぎり取る。

　少し硬い皮の向こうに見える、白くて、やわらかくて、まだ熱いパンの中身。

　そして押し寄せる濃密な甘い香り。遠い町で、君がずっと感じながら育ってきた香り。

「でも、私は今日、キミにしか電話してないんだよ」

　君は自分で首を傾げる。「この意味、キミには分かる？」

　私には分からないや。

　なんでなの。

　って、

　釈然としない顔で覗き込んでくる。

　それはまるで、睨まれているみたいで。

　そういえば、今日はいつものカラコンを入れていない。

　だけど、別にそんなの入れてなくても目は大きいじゃん、そう思う。

　何故だか目の奥がいつもよりもきらきらと輝いて見えるのは、窓の向こうに見える川が眩しいからなのか。

「それ、深い意味に取ってもいいの？」

　ちょっとだけ踏み込んだ僕に、

「本当にバカみたい」大きなため息。「いつもそうだよ。どうして一人で勝手に話を進めるかな」

　焼きたてのパン・ドゥ・ミの甘い香り。

「おいしい」

　僕は言う。「もらうよ、君の全てを」

「あげなきゃ良かった。いっつもそう。すぐ調子に乗るから」

　また君はため息をつく。「適当なチョコ買ってきて渡せば良かった」

　やわらかくて熱くて甘いパン。そんな君の全てを食べる様子を、つまらなさそうに頬杖をついて眺めながら。

　ため息をついて、小声で呟いた。

「もっとさ。中身を食べてよ。皮じゃなくて中身のほうがおいしいんだから」