七、動揺〈二〉

 苓舜レイシュンは早足に自室へと戻り、着の身着のまま寝台に横になる。


(らしくない……)


 とても取り乱してしまった。しかも、弟弟子に対して怖がらせるようなことを……。


 苓舜レイシュンに手を握られた宵珉シャオミンは、怯えたように眉を下げて大きな紅い瞳を揺らしていた。

 きっと突然師兄に詰め寄られ、困惑していたことだろう。


 苓舜レイシュン宵珉シャオミンに接触したのは、確認したいことがあったからだ。

 座学の後、宵珉シャオミン苓舜レイシュンの後を追って来ていることに気がついた時、昨夜から胸の奥に燻っていた衝動に突き動かされてしまった。


宵珉シャオミン、私は君のことが分からない……」


 苓舜レイシュンは瞼を閉じ、腕を顔の上に乗せて完全に視界を遮る。今は暗闇が欲しい。


 苓舜レイシュンはこれまで、宵珉シャオミンに対して特別な感情を抱いていたわけではない。

 やる気のない、怠惰な弟弟子というくらいでむしろあまり良く思っていなかった。


 しかし、昨夜、宵珉シャオミンに触れたあの瞬間から、苓舜レイシュンの頭は彼のことでいっぱいになってしまった。講義にも集中できない。


「君は、あのなのか……?」


 苓舜レイシュンは五十年以上前の出来事を思い返す。

 それは、苓舜レイシュンの修仙者としての人生を決定する出来事であり、長い間ずっと苓舜レイシュンの脳に焼き付いて離れない刻印のような記憶だ──。


◇◇◇


 あれは、苓舜レイシュンが仙郷に入る前のことだ。

 ある日、当時十六歳の苓舜レイシュンは、体内に眠る霊力が暴走してしまった。

 その類稀なる資質から、自然と霊気を大量に取り込んでしまったのだろう。


 そして、その巨大に膨れ上がった霊力に身体が耐えきれず、苓舜レイシュンは道端で倒れてしまった。


 その時、まだ微かに意識の残っていた苓舜は、自分の身体がふわりと浮かぶのを感じる。

 苦しみに震える瞼を少し持ち上げると、自分よりも幾分か歳上に見える青年が、苓舜レイシュンを抱えていた。

 青年は苓舜レイシュンを抱えたまま運び、寂れた民家の壁に寄りかからせる。


「だれ……?」


 苓舜レイシュンが声を絞り出すと、青年はしいっと口元に人差し指を立てた。漆黒の艶めいた長い黒髪が揺れる。


(綺麗な人だけど、少しこわい……)


 彼の纏う独特なオーラとひしひしと伝わってくる強い霊力に、「仙人様だろうか」と苓舜は思う。


「あっ……」


 青年は呆然とする苓舜レイシュンの頬に手を添える。

そして何かを唱えた後、苓舜レイシュンに顔を寄せて口付けた。


「んっ!?」


 苓舜レイシュンは自分が何をされたのか分からなかった。ただ、唇から伝わる生ぬるい暖かさに翻弄されて、頭がくらくらする。息ができない。


 やがて数秒が経ち、青年は苓舜レイシュンから離れていく。

 青年は濡れて艶めいた唇をぺろりと舐めて、口角を上げた。


 対して、苓舜レイシュンは初めての経験にぼうっとしていた。

 やがて、体内で暴走していた霊力が鎮まり、身体が軽くなったことに気がつく。


 俺が回復したのは、あの口付けのおかげだ。

 苓舜レイシュンはそう思い慌てて青年を見上げると、身を翻して去っていく姿が目に映る。


「仙人様、待ってくださいっ! な、なにかお礼を……」


 苓舜レイシュンが立ち上がり、青年に向かって必死に手を伸ばす。


「ははっ、俺が仙人か! ふふ、たしかに、ではあるな」


 すると、青年は肩を揺らして、おかしげな笑い声をあげる。

 そして、苓舜レイシュンの方を振り返って言った。


「おまえはいい才を持っている。くく、果実は熟してこそだ。お礼とやらは、おまえが仙郷に入り、修仙者となった後にでもいただこう」


 青年は艶めかしく笑って見せた。

 苓舜レイシュンが青年の言葉の意味を考えているうちに、青年の姿は跡形もなく消え去ってしまっていた。

 残された苓舜レイシュンは、唇が触れ合う感覚と体内に残る青年の香りが焼き付いて離れず、ドクドクと脈打つ胸をぎゅっと押さえた。


◇◇◇


 宵珉シャオミンがあの時の仙人様であるはずがない。

 そう思う一方で、苓舜レイシュンの本能が宵珉シャオミンこそが仙人様であると訴えている。


 苓舜レイシュンは瞼を持ち上げて、顔の前に翳した右手を見つめる。


 昨夜、書斎で宵珉シャオミンの肩に触れた時の痺れ。

 それが苓舜レイシュンの霊根まで届いた時、苓舜レイシュンの中にずっと残っていた仙人様の霊力の痕跡が、強く呼応したのだ。


 宵珉シャオミンの身体から伝わってくる気と、仙人様の霊力から感じとれる気が同じなのである。

 これは幻覚などではない。瞬時に"宵珉シャオミンこそが仙人様である"と苓舜レイシュンは認知したのだ。


 ずっと会いたかった人。

 苓舜レイシュンの命の恩人であり、初恋の人だ。


 命を助けてくれた恩、口付けされた衝撃、ニヤリと笑う綺麗な顔、微かな甘い匂い……。

 苓舜レイシュンは修仙者を多く排出する一族に生まれたから、元々修仙には興味があったが、その道を決定したのは仙人様に会うという動悸があったから。

 あの出会いが、今の苓舜レイシュンを形作っているのである。


宵珉シャオミン……」


 考えてみれば、二人の雰囲気は似ているようにも感じられるが、その力量が違いすぎる。


 あの仙人様は他人の霊力を抑え込めるほどの強大な力を持っていた。

 たとえ彼が仙人ではなかったとしても、初めて出会った約百年前の時点で、少なくとも百数十年の修行を積んでいたはず。


 一方、宵珉シャオミンは一度も修仙経験のない者である。宵珉シャオミンはまだ修行の初期段階であり、なんの術も使えない。仙人様とは実力が違いすぎる。


 さらに、彼は半年前に人間界から仙郷に移ってきたので、実年齢と容姿年齢が一致しているはず。たしか、宵珉シャオミンは十六歳だ。


 二人が同一人物なら、この矛盾はありえない。それに、宵珉シャオミンが仙人様ならばなぜ未熟なふりをして、リン派に入門したのか。……別人だと考えた方が筋が通る。


(なのに、)


 先程、宵珉シャオミンのその紅い瞳を覗いた瞬間、宵珉シャオミンの奥に仙人様の姿が映った。


 やっと、会えた。やっと、あの時のお礼ができる。恩を返すことができる。そして……。


 あの時、苓舜レイシュンはそう思った。

 かの青年に対するどうしようもない熱を、ずっと燻らせてきたのだ。

 それはもう、今にも泣いてしまいそうなくらいに嬉しかった。


 けれど、どうしても確信が持てない。決定打に欠けるのである。

 なにかが足りないと、苓舜レイシュンの心が訴えていた。


「……確かめなければ」


 苓舜レイシュンは決意を固める。

 修行を通して、宵珉シャオミンが本当に仙人様なのかどうか確かめよう。

 何か目的があってリン派の弟子のフリをしているならば、いくら仙人様といえど、いつかは隙ができるはずだ。


 命の恩人かもしれない者に対して、弟弟子のように接するのは少し気が引けるが……。

 しかし、せっかく会えたのだ。この機会をみすみす逃すわけにはいかない。


「たとえ、本当に仙人様だったとしても……私のことを覚えてくれているのだろうか」


 もしも、彼が忘れてしまっていたら。

 苓舜レイシュンにとってはかけがえのない人でも、仙人様にしては道端の草に過ぎない可能性だってある。


「……それでもいい」


 苓舜レイシュンはそう呟き、静かに拳を握りしめたのだった。

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