六、動揺〈一〉

 翌朝、宵珉シャオミンは早起きしていた。

 いや、早起きというよりも、全然眠れなかったという方が正しいか。寝不足はもはや日常と化しているので、特段辛くはない。


 宵珉シャオミンが台所に行ってぼんやりと朝食を食べ、部屋に戻ってくると華琉ホァリウが来て居た。


宵珉シャオミン、今日は早いじゃないか。レイ師兄に説教されて反省したのか?」


 華琉ホァリウは腕を組んで入口の柱に寄りかかる。宵珉シャオミンを起こしに来てくれたのだろう。


華琉ホァリウ、聞いて驚け。俺は決めたんだ。今日から真面目に授業を受けるぞ!」


 昨夜は無礼なことをしてしまった。今日こそ名誉挽回に勤しむべきだろう。

 

「ふん、大した意気込みだな。昨日まで毎日怠そうにしてたってのに」

「まぁまぁ、昔の俺とは違うんだよ」


 宵珉シャオミンは怪訝な顔の華琉ホァリウと並んで歩き、今日の講義を受けるべく書院へ向かった。


◇◇◇


 昨日と同じ一番前の右側の席について、苓舜レイシュンを見上げる。

 宵珉シャオミンたちが着いた頃には、苓舜レイシュンはもう来ていた。

 一度だけ目が合ったが、なんとなく気まずさを感じてしまい、すぐに目を逸らしてしまった。苓舜レイシュンも何も言ってこない。


リン派教書・百二十頁を開きなさい。今日は錬気期から築基期への突破について解説する」


 そのまま講義が始まった。

 宵珉シャオミンは机の上に置かれた教書をぱらぱらと捲る。そこには、ご丁寧に図解付きで"修行のイロハ"が連ねられていた。


(ほほう……大体は俺が考えてた内容と一緒だな。霊力の吸収法と修行段階、そしてリン派の基本的な仙術……)


 宵珉シャオミンが教書に夢中になっている間、華琉ホァリウはピンと背筋を伸ばして、苓舜レイシュンの講義を聞いている。おそらく、後ろに座っている他の同輩も同じだ。

 リン派は比較的硬派で真面目な者が多いから、阿珉は余計に出た杭だったのだろう。


「君たちは皆、まだ練気期の段階だ。座禅を組み、霊気を吸収して霊力を蓄えることが修行の主軸である」

 

 苓舜レイシュンが講義を進めるが、宵珉シャオミンは徐々に上の空になっていく。


苓舜レイシュンといえば……)


 そういえば、『桔梗仙郷伝』ではメインカップルの他にも数組のカップリングを作っているが、苓舜レイシュンの伴侶となる人物はまだ登場させていなかった。


 とはいえ、苓舜レイシュンのカップリングについても設定を考えてはいた。次の章辺りで伏線を張ろうと思っていたのだ。


(たしか、こんな感じだったな……)


 "座学を真面目に受ける"という覚悟をすっかり忘れてしまっている宵珉シャオミンは、頬杖をついて、苓舜レイシュンの顔をぼうっと眺める。

 そして、前世の記憶を手繰り寄せた。



 苓舜レイシュンは、修仙者となる以前に霊力の暴走により道端で倒れてしまったことがあった。

 このままでは霊力が身体を裂き、死に至ってしまう……そんな危険な状況だ。


 苓舜レイシュンが死を覚悟したその時、ただならぬオーラを纏った男が登場して、苓舜レイシュンを助けるのである。


 男は苦しむ苓舜を救うために、苓舜レイシュンに口付け、彼の体内に自分の霊力を侵入させて、暴走した霊力を抑え込む。

 すると、苓舜レイシュンの身体はみるみるうちに回復した。


 その後、苓舜レイシュンは青年にお礼がしたいと引き留めるが、青年は意味深な言葉を残して去っていく。


(そうだったそうだった。こんな感じの設定を考えていたんだ……)


 純粋無垢な苓舜レイシュンはそれが初めてのキスであり、自分を助けてくれた男に恋をした。

 しかし、男は名乗らなかったために、苓舜レイシュンは男の居場所が分からない。会いたくても会えないのだ。

 そうして、苓舜レイシュンはいまもずっと忘れられない初恋を抱えている──。


 などという、皆(主に宵珉シャオミン)が大興奮する設定を思いついたのだ。

 当時の宵珉シャオミンは、苓舜レイシュンの初恋の相手をどの立場に置いて、どのように登場させるかを悩んでいた記憶がある。


(最終的にはどうなったんだっけ……)


 この設定を考えていた時、宵珉シャオミンは酒に酔っていたために記憶が曖昧だ。ネタ帳も前世に置いてきてしまった。


 これは困った。

 一番肝心な苓舜レイシュンのカップリング相手の正体を思い出せないのである。


(まぁでも、これはまだ先の話で小出しにする予定だったから……)


 原作で、=苓舜レイシュンの過去に関する情報はまだ出していない。

 ということは、この世界の苓舜レイシュンに【=苓舜レイシュンの初恋イベント】が実装されているか、分からないのだ。


(それじゃあ、今から苓舜レイシュンの隣を俺が奪っちゃっても問題ないんじゃないか? なーんて)


 宵珉シャオミン苓舜レイシュンに一目惚れしてしまった。

 加えて、宵珉シャオミンのミッションは苓舜レイシュンから餐喰散サンハンザンを倒す秘術を伝授してもらうこと。

 好感度を上げて、苓舜レイシュンに振り向いてもらえれば、そのミッションだってクリアできる。


(少々不純な動機だけど……せっかくBL小説に転生したんだから、俺だって好みのイケメンとイチャイチャしてもいいんじゃない!? カミサマもそう思うだろう!?)


 そんなことを考えていると、突然、左隣からコツンと頭を小突かれる。


「いだっ! なに!?」

宵珉シャオミン!」


 宵珉シャオミンが小突かれた方向を向くと、呆れ顔の華琉ホァリウが腰に手を当てて立っていた。


宵珉シャオミン、おまえの決意はハッタリだったみたいだな?」


 =華琉ホァリウは口を尖らせて、宵珉シャオミンを睨みつける。


「え、えっ!?」


 宵珉シャオミンはそこで気がつく。

 いつの間にか座学は終わり、書院には宵珉シャオミン華琉ホァリウ、そして苓舜レイシュンしか残っていなかった。|


「うそっ!? いつの間に!?」


 空は茜色に染まり、はやくも月影がうっすらと見える。

 宵珉シャオミンは慌てて苓舜レイシュンを見上げた。すると、苓舜レイシュンはちらりと宵珉シャオミンに一瞥を残して、去っていこうとする。


(ううっ、やばい、好感度上げるどころか、絶対下がったじゃん……俺のバカ!)


 宵珉シャオミンは項垂れる。

 昨夜、苓舜レイシュンの腕を振り払って逃げ出してしまった上に、今日は苓舜レイシュンの話を聞いていなかった。いや、苓舜レイシュンのことを考えてはいたのだが。


レイ師兄〜っ! 待ってください!」


 宵珉シャオミン苓舜レイシュンを追いかけるため、書院を走って出ていく。

 華琉ホァリウが「おい! どこにいくんだ!」と困惑しているが、宵珉シャオミンは「ごめん、先に戻ってて!」とだけ告げて、苓舜レイシュンの背を追いかけた。


「あいつ、どうしたんだ……?」


 残された華琉ホァリウは、どこか様子のおかしい宵珉シャオミンに対して、首を傾げるのだった。


◇◇◇


「はぁ……はぁっ……苓舜レイシュンってばどこに……」


 宵珉シャオミンは宿舎の廊の壁に手をついて、深呼吸する。

 苓舜レイシュンの後を追っていたはずだが、彼が角を曲がった瞬間、どういうわけか姿を見失ってしまった。


宵珉シャオミン

「ひっ!?」


 後ろから名を呼ばれ手振り返ると、そこには前方に居るはずの苓舜レイシュンが立っていた。


「しっ、ししし師兄!?!?」

「君の探している"苓舜シャオミン"はここにいるぞ」


 苓舜レイシュンの蒼い瞳が宵珉を捕える。その顔は笑っていない。


(呼び捨てにしたのを聞かれていたのか……。というか、どうして俺の後ろに……!?)


 宵珉シャオミンは突然のことに混乱する。とにかく、今は謝るのが定石だ。


「師兄……その、昨日はすみません……」

宵珉シャオミン、私は君が逃げたことも、座学に集中していなかったことにも怒ってはいない。修行のやり方は人それぞれだ」

「師兄……」


 どうやらその言葉通り、苓舜レイシュン宵珉シャオミンに対して怒っていないようだった。

 しかし、どうも様子がおかしい。


(なんか、動揺してる……?)


 宵珉シャオミン苓舜レイシュンから感じる違和感について感がていると、苓舜レイシュンがおずおずと口を開いた。


宵珉シャオミン、君は……あの時の仙人様なのか?」

「へっ?」


 苓舜レイシュン宵珉シャオミンの手をぎゅっと包み込んで、眉を下げた。頬はほんのりと上気しており、瞳が潤んでいる。普段の澄ました表情とは正反対だ。


(え!? 何この状況!? 苓舜レイシュンはなんでこんな顔で俺を見つめて……というか仙人様って!?)


 宵珉シャオミンもつられて頬が紅く染まる。握られた手から苓舜レイシュンの冷たい体温が伝わり、ドキドキして鼓動が速くなる。


「私はずっとあなたを探してたんだ! あなたに会うために仙郷に入り、あなたに追いつくために修行を積んできた……」


 宵珉シャオミンは目を見開く。苓舜レイシュンがこんなに取り乱すなんて。

 作中では華琉ホァリウが死の間際に陥ってしまう場面でくらいしか、こんな苓舜レイシュンは見られない。


苓舜レイシュンは俺を誰かと勘違いしてる……? ダメだっ、頭が回らない!)


 宵珉シャオミンの背中が壁にぴたりと付いてしまうほど詰め寄られ、苓舜レイシュンとの距離がすごく近い。

 しかも、苓舜レイシュン宵珉シャオミンの手を握る方とは違う方の手を、宵珉シャオミンの横の壁に添えている。つまり、宵珉シャオミンは所謂"壁ドン"をされているのである。


苓舜レイシュンは無意識なんだろうけど……)


 宵珉シャオミンはごくりと唾を飲んで、苓舜レイシュンを見上げる。苓舜レイシュンは、宵珉シャオミンの奥に別の誰かを見ているようだった。


「師兄っ、人違いじゃないでしょうか……師兄のいう仙人様は俺よりもずっと歳上なのでは……? 第一、俺はまだまだ仙人には程遠いし……」


 宵珉シャオミンがおずおずと口を開くと、苓舜レイシュンはハッとして宵珉シャオミンの手を離す。


「……っ、自分でもおかしいとは思ってるんだ。君は数ヶ月前まで修仙したこともなかったのだから、私の探しているあの方であるはずがない……だが、」


 苓舜レイシュンはなにかを言いかけたが、やがて額に手を当てて、ゆるゆると首を振った。


「すまない、私がどうかしていた……」

「師兄……?」


 苓舜レイシュンはふらふらと宵珉シャオミンから距離を取り、彼の自室へと戻っていく。


「えっ、は……!?」


 宵珉シャオミン苓舜レイシュンの背中を呆然と見送る。

 突然距離を詰めて迫られて壁ドンされたのに加えて、苓舜レイシュンの意味深な言葉に宵珉シャオミンの脳はぐちゃぐちゃだ。


(ちょっ、ちょっと待って! 「だが……」の後はなに!? もっと肝心なところを教えて……!!)


「あーもうっ! 苓舜レイシュンの言葉足らず……!!」


 宵珉シャオミンは熱い頬に手を添えて、小さく嘆く。

 「どうやって苓舜レイシュンを堕とそうかな♡」なんて考えていたのに、すっかり苓舜レイシュンに振り回されてしまっている。


(仙人様って誰なんだ……!? 俺、そんなやつ知らないんだけど!)


 ここは『桔梗仙郷伝』の世界であるが、登場人物がそれぞれ生命と意思を持って生きている。小説に描かれてあるのは、その生のごく一部分にすぎない。

 どうやらこの世界には、作者である宵珉も知らない事情がたくさんあるらしかった。

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