桔梗仙郷伝〜転生作家の絶命回避術〜

祈月 酔

一、転生〈一〉

 若手小説家、宵珉シャオミン、二十二歳。

 ファンタジーBL小説『桔梗仙郷伝ききょうせんきょうでん』をWebサイト上で連載中である。一応書籍としても出版しており、そこそこの売れている。


 作業場は小さなボロ屋敷で、執筆道具はノートパソコン。そろそろ腱鞘炎になりそうで怖い。


「終わらない!」


 そんな若手小説家・宵珉シャオミンは、年季の入った机の上に凭れ掛かって嘆く。久々に大声を出したので、喉が擦れて痛い。


「このままじゃ間に合わない……!」


 宵珉シャオミンが嘆いている理由。それは、今日投稿する予定だった『桔梗仙郷伝』の最新話のデータが消えてしまったからである。

 その結果、過去の記憶を辿りに最新話を再度執筆することになった。


 絶体絶命、規定投稿時刻まであと三時間しかない。データ復元に手を付け始めてから、今日で三徹目。その努力が無駄になるなんて、絶対に嫌だ……!


「あと三時間、いけるか……!?」


 三徹の意地とは別に、投稿を間に合わせなければならない理由がもうひとつあった。

 今日投稿する予定の最新話では、ラスボス・妖魔王の秘密が明かされるのである。先週からの盛り上がりを考えても、今日休載するわけにはいかない。


「よし、頑張れ自分! これを書き終わったら、ご褒美に高級焼肉でも食べようじゃないか……!」


 宵珉シャオミンは自分を鼓舞して、タイピングの手を必死に動かす。


 ああ、まずい。頭がクラクラしてきた。

 今すぐ寝たい。水が飲みたい。カップ麺食べたい。外の空気を吸いたい……。


◇◇◇


「で、できたぁ……!」


 食欲や睡眠欲、様々な欲望を抑え込み、タイピングし続けること約二時間。

 宵珉シャオミンは活字がずらりと並ぶノートパソコンの画面を覗き込み、安堵の表情を浮かべる。


 ついにやり遂げた。元のデータ通りとはいかないが、なんとか最新話の原稿を復元することができたのだ。


「よし!」


 投稿時間まで、あと一時間余裕がある。校正する前に、まずは水分補給をしよう。

 宵珉シャオミンはそう思い、硬い椅子から立ち上がる。ずっと座っていたからか、肩と腰がとてつもなく痛い。


 そして、冷蔵庫にペットボトルを取りに行こうと足を踏み出す。

 しかし、悲劇はその瞬間に訪れた。


「うわっ!」


 ガンッ!!!

 突然、くるりと景色が反転し、部屋の照明の光が正面に来る。


「い゙ッ!?!?」


 数秒遅れて頭に鈍痛が走り、宵珉は状況を理解した。

 なんと、宵珉シャオミンは徹夜の疲労からくる眩暈に襲われ、床に足を滑らせてすってんころりん! 盛大に頭から転んでしまったわけである。


(いったぁ! 痛いってか、なに!? めちゃくちゃクラクラするんだけど……!)


 宵珉シャオミンは仰向けに転んだ状態のまま、のそのそと自分の頭に手を伸ばす。すると、なにか生温いものがべチャリと触れた。

 手を顔の前に翳すと、赤黒い液体が指先に絡みついている。


「は……」


(えっ、なにこれ、血!? 頭打った!? 頭蓋骨割れた!? 死ぬ!?)


 鉄の匂いが漂うべチャリとした液体の正体が血であると認識した瞬間、視界が一段と暗くなり、キーンと耳鳴りが聞こえ始める。

 加えて、薄く開いた状態の口からは「はっ……」と変な息が漏れるだけで、声らしい声が出ない。


(し、しぬ……!!)


 宵珉シャオミンは救急車を呼ぼうとするが、手はびくりとも動かない。


(あ、これダメなやつだ……)


 一周まわって冷静になった宵珉シャオミンは潔く死を悟る。そしてそのまま、意識がプツンと途切れてしまった。


◇◇◇


「──珉、宵珉シャオミン。起きなさい」


 頭上から宵珉シャオミンを呼ぶ声が聞こえ、急速に意識が浮上する。

 網膜を突き刺す眩しい光に、ゆっくり瞼を持ち上げると、宵珉シャオミンの顔を覗き込む綺麗な瞳と目が合った。


 深い海のように蒼い瞳、長い睫毛、高く真っ直ぐ通った鼻筋。


(誰だ……? すごく綺麗な人だな……)


 宵珉シャオミンが目の前の青年をぼんやりと眺めていると、青年の小さな口がもう一度開き、「宵珉シャオミン」と紡ぐ。

 その澄んだ低音を耳にした瞬間、寝惚けていた脳が完全に覚醒した。

 

「だ、だだだ、誰っ!?!?」


 宵珉シャオミンは咄嗟に仰け反る。


 一体これはどういう状況なのか。

 なぜか、史劇ドラマで見るイケメン俳優のような美しい青年が、宵珉シャオミンの寝顔を覗き込んでいたのだ。

 おかしなことに、この青年は全く知らない他人である。


 青年は宵珉シャオミンが目覚めたことに気がつくと、すっと一歩後ろに下がった。


 青年は、肩口からさらりと流れる黒髪が美しく、古めかしい紺の深衣を纏っている。その手には褪せた色の書物を持ち、何を考えているか分からない無愛想な表情で立っていた。


 宵珉シャオミンはその青年の立ち姿に見蕩れてしまう。正直言って、容姿がドタイプなのだ。


(な、なんでこんな美人が俺の目の前に……!? ていうか、ここどこ!?)


「……宵珉シャオミンは頭を打ったのか? レイ師兄シーションに向かって、"誰"とはなんだ」


 宵珉シャオミンが状況を掴めず困惑していると、今度は左隣から呆れた声が降ってきた。


 宵珉シャオミンが垂れた涎を拭って隣を見ると、ピンと背筋を伸ばして正座している黒髪の少年が、目を吊り上げて宵珉をキッと睨みつけた。少年はまだ年若く、顔立ちがあどけない。


(えっ、次は美少年!? 猫目の気の強そうな美少年だ……!?)


 この少年も古めかしい衣装を纏い、長く伸びた髪を高い位置で纏めていた。やはり、史劇ドラマでよく見るような容姿である。


(一体どういう状況なんだ……? 俺は自分の屋敷で原稿を書いて……そして、そして……)


「そうだっ! 俺の最新話は……!?」


 宵珉シャオミンは自室で座って最新話のデータ復活作業をしていたはずだ。そして、転んで、頭から血が……。


 先程、隣の美少年が宵珉シャオミンに聞いた『頭を打ったのか?』という問いに答えるならば、『Yes』だ。まさしく、宵珉シャオミンは頭を打ったのである。


 しかし、ここはどう見ても自分の部屋ではないし、病院でもない。

 現在自分が座っているのは、とても綺麗で開放感のある知らない部屋だ。


「……宵珉シャオミン、居眠りするのはこれで何度目だ。反省しなさい。罰として、後で私の書斎に来ること」


 困惑したままの宵珉シャオミンに、蒼い瞳の青年がピシャリと告げた。


(えっ、居眠り……?)


 宵珉シャオミンは呆然とする。青年の台詞の意味が、ひとつも分からなかったからである。


「うわっ、レイ師兄に呼び出されるなんて!」

「フッ、シャー宵珉シャオミンも今日で終わりだな」


 後ろから宵珉シャオミンを嘲笑う声が聞こえてくる。


(はぁっ!? シャー宵珉シャオミンってなんだよ! バカにしやがって!)


 ここがどこかは分からないが、後ろのやつらに馬鹿にされたってことは分かる。

 宵珉シャオミンが心の中で怒る一方で、青年は「静かに」と宵珉シャオミンを笑う男たちを注意した。そして続ける。


「講義を再開する。教書の百五頁を開きなさい」


(講義って……うわ、右も左も知らない人ばかりだ)


 宵珉シャオミンはぐるりと室内を見渡す。


 横に二列、縦に五列。宵珉シャオミンを入れて計十名の男が、書物の詰まれた低い机の前に正座していた。宵珉シャオミンが座っているのは、その一番前の右の席だ。

 全員知らない男。しかも、ドラマの仙人のような格好をしている美形揃い。


(ここは学校……じゃないよな)


 学校はもう卒業したはずなのだが。しかも、学校といっても、このような私塾みたいな場に通った覚えはない。


(ん? んんん……!?)


 ふと、部屋の壁に視線を向けると、何かの紋章が描かれた掛け軸が、等間隔で壁に垂れているのが目に映った。

 宵珉シャオミンはそれを見て驚愕し、机を勢いよく叩いて立ち上がる。


「り、リン派の紋章!?」

宵珉シャオミン、静かにしろ……! 講義中だぞ!」


 すると、隣の美少年がまた睨んできた。

 しかし、宵珉シャオミンに美少年を気にする余裕はなく、掛け軸の紋章のことでいっぱいであった。


(これは……どういうことだ)


 宵珉シャオミンは唖然とする。

 青い炎が輪を作り、薔薇の花弁のように美しく、リン派の高潔さを表すデザイン。


 この紋章のデザインを考案したのは、紛れもない宵珉シャオミンだ。これは、自作小説『桔梗仙郷伝』に登場するリン派という仙門の紋章である。


 宵珉シャオミンはますます混乱する。

 ここにいる者たちは俺のファンなのか。これはファンの集いなのか。俺はファンに誘拐されたのか……!?


(いやいやいや、そんなバカな……)


 挙動不審な宵珉シャオミンに、"レイ師兄"と呼ばれた青年の視線が突き刺さる。


(やばい、また怒られるっ!)


 とりあえず座ろう。

 宵珉シャオミンは大人しく自分の席に縮こまり、できるだけ目立たないように頭を縮こませる。

 そして、情報を整理していく。


リン派……レイ師兄……レイ……、苓舜レイシュン……!?)

 

 宵珉シャオミンはハッとする。

 極限状態で冴えた脳が、あるひとつの結論にたどり着いてしまったのだ。


(まさか……)


 改めて周囲の状況をよく見てみると、それはもう、宵珉シャオミンの思い描いた異世界──『桔梗仙郷伝』の世界と合致している。

 古風な深衣を纏う長髪の美しい男たちと、整った風流な書院。


(皆、俺が思い描くキャラクターそのものだ……! もし漫画化されるならば、このような美麗な描画で表現して欲しいっ!)


 このように美しい少年たちが共に修行し、妖魔を祓う中で恋に落ちていく……。その耽美なさまを想像するだけで、米十杯はいける。


(いやいや。宵珉シャオミンよ、今はそんな想像をしている場合ではない……)


 変な方向にエンジンをかけてしまう頭をブンブンと振り、意識を引き戻す。


 "リン派"と"レイ師兄"。

 そのどちらも『桔梗仙郷伝』に登場するキーワードだ。そして、この広い書院で弟子が師に学ぶという今の状況も、宵珉シャオミンが『桔梗仙郷伝』の中によく登場させる場面のひとつだった。


(もしかして、これがご都合展開の異世界転生ってやつなのか!? 俺は転んで頭打って死んで、転生してしまったのか……!?)

 

 宵珉シャオミンは自分の頬を思い切り抓って見るが、ただただ鈍い痛みが返ってくるだけであった。


「マジか……」


 どうやら、これは夢ではないらしい。

 母さん、父さん。俺は、自分の小説『桔梗仙郷伝』の世界に転生してしまいました。

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