桔梗仙郷伝〜転生作家の絶命回避術〜
祈月すい
一、転生〈一〉
若手小説家、
現在、ファンタジーBL小説『
作業場は小さなボロ屋敷で、執筆道具はノートパソコン一つのみ。そろそろ腱鞘炎になりそうで怖い。
「やばいっ、原稿が終わらない……!」
そんな若手小説家・宵珉は、年季の入った机の上に凭れ掛かって嘆く。久々に大声を出したので、喉が擦れて痛い。
「このままじゃ間に合わないぞ! このバカ!」
宵珉が嘆いている理由。それは、今日投稿する予定だった『桔梗仙郷伝』の最新話のデータが消えてしまったからである。
その結果、過去の記憶を辿りに最新話を再度執筆することになった。
絶体絶命、規定投稿時刻まであと三時間しかない。データ復元に手を付け始めてから、今日で三徹目。その努力が無駄になるなんて、絶対に嫌だ……!
「残りあと三時間、いけるか……!? いや、俺ならできる。できるぞ……」
宵珉は己を鼓舞して奮い立たせる。三徹の意地とは別に、投稿を間に合わせなければならない理由がもうひとつあった。
今日投稿する予定の最新話では、なんと、桔梗仙郷伝のラスボス・妖魔王の秘密が明かされるのである。先週からの盛り上がりを考えても、今日休載するわけにはいかない。
「よし、頑張れ自分! これを書き終わったら、ご褒美に高級焼肉でも食べようじゃないか……!」
宵珉はぽんっと頬を叩き、気合を入れて、タイピングの手を必死に動かす。
ああ、まずい。頭がクラクラしてきた。
今すぐ寝たい。水が飲みたい。カップ麺食べたい。外の空気を吸いたい……。
◇◇◇
「で、できたぁ……!」
食欲や睡眠欲、様々な欲望を抑え込み、タイピングし続けること約二時間。
宵珉は活字がずらりと並ぶノートパソコンの画面を覗き込み、安堵の表情を浮かべる。
ついにやり遂げた。元のデータ通りとはいかないが、なんとか最新話の原稿を復元することができたのだ。自分はバカではなく、天才だったらしい。
「よし!」
投稿時間まで、あと一時間余裕がある。推敲する前に、まずは水分補給をしよう。
宵珉はそう思い、硬い椅子から立ち上がる。ずっと座っていたからか、肩と腰がとてつもなく痛い。
そして、冷蔵庫に水の入ったペットボトルを取りに行こうと足を踏み出す。
悲劇はその瞬間に訪れた。
「うわっ!」
ガンッ!!!
突然、くるりと景色が反転し、部屋の照明の光が正面に来る。
「い゙ッ!?!?」
数秒遅れて頭に鈍痛が走り、宵珉は状況を理解した。
なんと、宵珉は徹夜の疲労からくる眩暈に襲われ、床に足を滑らせてすってんころりん! 盛大に頭から転んでしまったわけである。
(いったぁ! 痛いってか、なに!? めちゃくちゃクラクラするんだけど……!)
宵珉は仰向けに転んだ状態のまま、のそのそと自分の頭に手を伸ばす。すると、なにか生温いものがべチャリと触れた。待て、なんだこれは。まずいのではないか。
恐る恐る手を顔の前に翳すと、そこには、赤黒い液体が指先に絡みついている。
「は……」
口から乾いた声が漏れる。
(えっ、なにこれ、血!? 頭打った!? 頭蓋骨割れた!? 死ぬ!?)
鉄の匂いが漂うべチャリとした液体の正体が血であると認識した瞬間、視界が一段と暗くなり、キーンと耳鳴りが聞こえ始める。
加えて、薄く開いた状態の口からは「はっ……」と変な息が零れるだけで、声らしい声が出ない。
(し、しぬ……!!)
宵珉は慌てて救急車を呼ぼうとするが、悲しいかな、手はびくりともしない。足もダメだ。
(あ、これダメなやつだ……)
一周まわって冷静になった宵珉はその時、潔く死を悟った。そしてそのまま、意識がプツンと途切れてしまった。
◇◇◇
「──珉、宵珉。起きなさい」
頭上から己を呼ぶ声が聞こえ、急速に意識が浮上する。
網膜を突き刺す眩しい光に、ゆっくり瞼を持ち上げると、こちらの顔を覗き込む綺麗な瞳と目が合った。
深い海のように蒼い瞳、長い睫毛、高く真っ直ぐ通った鼻筋。
(誰だ……? すごく綺麗な人だな……)
宵珉が目の前の青年をぼんやりと眺めていると、青年の小さな口がもう一度開き、「宵珉」と紡ぐ。
その澄んだ低音を耳にした瞬間、寝惚けていた脳が完全に覚醒した。
「だ、だだだ、誰っ!?!?」
脳が覚醒した宵珉は、思わずその場で仰け反る。
一体これはどういう状況なのか。
なぜか、史劇ドラマで見るイケメン俳優のような美しい青年が、宵珉の寝顔を覗き込んでいたのだ。
おかしなことに、この青年は全く知らない他人である。
宵珉が目覚めたことに気がつくと、青年はすっと一歩後ろに下がった。
青年は肩口からさらりと流れる黒髪が美しく、古めかしい紺の深衣を纏っている。その手には褪せた色の書物を持ち、何を考えているか分からない無愛想な表情で立っていた。
宵珉はその青年の立ち姿に見蕩れてしまう。正直言って、容姿がドタイプなのだ。
(な、なんでこんな美人が俺の目の前に……!? ていうか、ここどこ!?)
宵珉が状況を掴めず困惑していると、今度は左隣から呆れた声が降ってきた。
「……宵珉は頭を打ったのか?
隣を見ると、ピンと背筋を伸ばして正座している黒髪の少年が、目を吊り上げて宵珉をキッと睨みつけた。少年はまだ年若く、顔立ちがあどけない。
(えっ、次は美少年!? 猫目の気の強そうな美少年だ……!?)
この少年も古めかしい衣装を纏い、長く伸びた髪を高い位置で纏めていた。やはり、史劇ドラマでよく見るような容姿である。
(一体どういう状況なんだ……? 俺は自分の屋敷で原稿を書いて……そして、そして……)
「そうだっ! 俺の最新話は……!?」
たしか、今日は自室で座って最新話のデータ復活作業をしていたはずだ。そして、転んで、頭から血が──。
先程、隣の美少年が宵珉に聞いた『頭を打ったのか?』という問いに答えるならば、『イエス』だ。まさしく、宵珉は頭を打ったのである。
しかし、ここはどう見ても自分の部屋ではないし、病院でもない。
現在自分が座っているのは、とても綺麗で開放感のある知らない部屋だ。
「……宵珉、居眠りするのはこれで何度目だ。反省しなさい。罰として、後で私の書斎に来ること」
困惑したままの宵珉に、蒼い瞳の青年がピシャリと告げた。
(えっ、居眠り……?)
宵珉は呆然とする。青年の台詞の意味が、ひとつも分からなかったからである。
「うわっ、苓師兄に呼び出されるなんて!」
「フッ、バカ宵珉も今日で終わりだな」
突然、後ろから宵珉を嘲笑う声が聞こえてくる。
(はぁっ!? バカ宵珉ってなんだよ! バカにしやがって! って、バカじゃねえから!)
ここがどこかは分からないが、後ろのやつらに馬鹿にされたってことは分かる。
宵珉が心の中で怒る一方で、瞳の綺麗な青年は「静かに」と宵珉を笑う男たちを注意した。そして、言葉を続ける。
「講義を再開する。教書の百五頁を開きなさい」
はて、講義とは。聞き慣れぬ言葉に宵珉はちらちらと周りの様子をうかがい、室内を見渡す。
(うわ、右も左も知らない人ばかりだ)
横に二列、縦に五列。宵珉を入れて計十名の男が、書物の詰まれた低い机の前に正座していた。宵珉が座っているのは、その一番前の右の席だ。
全員知らない男。しかも、ドラマの仙人のような格好をしている美形揃い。
(ここは学校……じゃないよな)
学校はもう卒業したはずなのだが。しかも、学校といっても、このような私塾みたいな場に通った覚えはない。
(ん? んんん……!?)
ふと、部屋の壁に視線を向けると、何かの紋章が描かれた掛け軸が、等間隔で壁に垂れているのが目に映った。
宵珉はそれを見て驚愕し、机を勢いよく叩いて立ち上がる。
「り、
「宵珉、静かにしろ……! 講義中だぞ!」
宵珉が叫ぶと、隣の美少年がまたギロリと睨んできた。
しかし、宵珉に美少年を気にする余裕はなく、掛け軸の紋章のことでいっぱいであった。
(これは……どういうことだ)
宵珉は唖然とする。
青い炎が輪を作り、薔薇の花弁のように美しく、嶺派の高潔さを表すデザイン。
この紋章のデザインを考案したのは、紛れもない宵珉だ。これは、自作小説『桔梗仙郷伝』に登場する嶺派という仙門の紋章である。
宵珉はますます混乱する。
ここにいる者たちは俺のファンなのか。これはファンの集いなのか。俺はファンに誘拐されたのか……!?
(いやいやいや、そんなバカな……)
挙動不審な宵珉に、"苓師兄"と呼ばれた青年の視線が突き刺さる。
(やばい、また怒られるっ!)
とりあえず座ろう。
宵珉は大人しく自分の席に縮こまり、できるだけ目立たないように頭を縮こませる。
そして、情報を整理していく。
(嶺派……苓師兄……苓……、苓舜……!?)
宵珉はハッとする。
極限状態で冴えた脳が、あるひとつの結論にたどり着いてしまったのだ。
(まさか……)
改めて周囲の状況をよく見てみると、それはもう、宵珉の思い描いた異世界──『桔梗仙郷伝』の世界と合致している。
古風な深衣を纏う長髪の美しい男たちと、整った風流な書院。
(皆、俺が思い描くキャラクターそのものだ……! もし漫画化されるならば、このような美麗な描画で表現して欲しいっ!)
このように美しい少年たちが共に修行し、妖魔を祓う中で恋に落ちていく……。その耽美なさまを想像するだけで、米十杯はいける。
(いやいや。宵珉よ、今はそんな想像をしている場合ではない……)
変な方向にエンジンをかけてしまう頭をブンブンと振り、意識を引き戻す。
"嶺派"と"苓師兄"。
そのどちらも『桔梗仙郷伝』に登場するキーワードだ。そして、この広い書院で弟子が師に学ぶという今の状況も、宵珉が『桔梗仙郷伝』の中によく登場させる場面のひとつだった。
(もしかして、これがご都合展開の異世界転生ってやつなのか!? 俺は転んで頭打って死んで、転生してしまったのか……!?)
宵珉は自分の頬を思い切り抓って見るが、ただただ鈍い痛みが返ってくるだけであった。
「マジか……」
どうやら、これは夢ではないらしい。
母さん、父さん。俺は、自分の小説『桔梗仙郷伝』の世界に転生してしまいました。
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