青松の韻を刻んで

吉野玄冬

本編

 ようやく見えてきた。

 わたしは市役所の車を運転しながら、窓の外に視線を向ける。海辺にこじんまりとした町並みが広がっていた。

 青松せいしょう町。郊外にある人口三千人ほどの小さな町。同じ市内で二十四年余り生きてきたわけだが、訪れるのは初めてだった。


 その名前の由来になっているのは、数百年前に防災林として河川沿いと海岸に植えられた、クロマツだ。立派に育ったそれらは幾度も出水や津波から町を守ってきたらしい。海辺ではまさしく白砂青松と呼べる絶景を拝むことが出来たとか。

 ……以前は、だけど。それらは今や見る影もない。クロマツの木々は一切が枯れ果てたまま放置されているし、砂浜は完全に海に呑まれてしまっている。


「えーっと……こっちか」


 カーナビの案内に従って進んでいき、やがて目的の一軒家の前に停車した。

 車を降りたことで初めて、町中に漂う異様さを感じ取る。海や風、鳥の鳴き声のような自然の音だけで、人の営みによって生じる音が一切しない。

 でも、それも当然だろう。この町には既に住民がいない。たった一人を除いて。

 なぜならここは、日本政府が廃棄を決めた町なのだから。

 ほんの四年前、2050年から開始された気候移住政策によって。


「……さて」


 チャイムを鳴らそうとすると、その前に家の戸が開いた。顔を出したのは、白髪の年老いた女性。


「何だい、また新しい子かい。誰が来ようと、私は絶対にこの町を出ないよ!」


 開口一番に否定され、出鼻を挫かれる。

 だけど、わたし──いぬい清霞さやかはこれから、この女性を説得しないといけないのだ。

 それが上手くいかなければ多分、わたしは今の居場所にいられなくなってしまうから。




 事の発端は二時間ほど前に遡る。

 わたしはいつも通り市役所で仕事をしていた。採用されてから今年で三年目。配属されたのは気候危機対策部の計画課だ。

 現在、世界中が直面している気候危機と呼ばれる問題。海面上昇は従来の予測を上回る勢いだし、台風や豪雨は年々苛烈となっているので、それらの被害は極めて甚大だ。


 計画課では、気候危機対策として市で出来る取り組みを考えて、専門家から意見を聞いたりしながら資料を作っていき、部長や市長といった相手にプレゼンするのが主な仕事となる。

 わたしのような下っ端は基本的に、上司から資料作りの一部を任されて担当することになる、のだけど……。


「乾、この部分はどういうことだ?」


 金川かながわ係長にデスク前へと呼び出されたわたしは、冷ややかな口調で問い質されていた。

 モニターに映し出されているのはわたしが作った資料で、夥しい数の赤線が入れられている。

 彼は非常に賢い人で、おかしい点は目敏く見つけて容赦なく詰められるので、基本的に皆に恐れられている。ただ、その中でもわたしは指摘される頻度が圧倒的に多かった。


「……すみません、すぐに作り直します」


 徹底的に駄目出しされ、肩を落として戻ろうとしたところで、係長は「いや」と言った。


「もういい。修正は俺の方でやっておく」

「えっ……」


 それは戦力外通告に等しかった。

 愕然とするが、係長は淡々と言葉を続けた。


「それよりも、お前に相応しい仕事を用意した」

「わたしに相応しい、ですか……?」

「青松町は知っているか?」

「はい、行ったことはないですけど、名前くらいは。廃棄区域に指定された町、ですよね」

「ああ。既にほとんどの住民は移住を受け入れて、完了している」


 ここ数年で国内の最も大きなトピックと言えば、間違いなく気候移住政策だ。

 気候危機の激化に伴い、津波や出水などの危険が著しい区域──災害危険区域が全国的に拡大し続けている。

 それら全てに対応していくだけのリソースは残念ながら存在せず、都市部を守ることが最優先とならざるを得なかった。

 そこで政府は遂に、災害危険区域の中でも特に危険なエリアを、廃棄区域と指定することを決断した。それは人が住むことはおろか無許可で訪れることも許されない土地を意味し、今住んでいる人々は移住させられることになる。


 発表当初は反発も大きかったが、政府は各自治体を通じて移住対象者へのきめ細やかなサポートを実施していった。

 結果として、移住は順調に進んでいった。災害によって酷い目に遭っていた者も多く、住み続けることに限界を感じていたのだろう。

 移住先に関しては、総人口は最盛期から既に三千万人以上も減少しているので、それほど困ることはなかった。


「しかし一人だけ、梃子でも動かない人物がいるようでな。移住課からの要請で、うちの人員に専門的な形での説得に当たらせて欲しいとのことだ」


 移住課はその名の通り、気候移住政策に関する業務を取り扱う課だ。廃棄区域に指定された地域の人たちへの説明会などを実施したり、意に反する移住は対象者の心身に大きな負荷を掛けるので、多面的な形でのケアを行ったりしている。

 計画課の方が専門的な知識があるとは言え、彼らは藁にもすがる思いでうちに頼ってきたのかもしれない。

 と、わたしはまるで他人事のように考えていたが、係長は告げる。


「乾、お前が行ってこい」

「え、わたし一人で、ですか……?」

「ああ、一人でだ。お前の仕事は、その人物に説明の努力を行い、報告書を書くことだ。別に説得に成功する必要はない。移住課も駄目で元々だろう。今週いっぱいだけで十分だ」


 それはつまり、この計画課で一番役に立たない奴を送り込んでおく、ということでは……?

 口をついて出そうになったが、その前に何とか呑み込んだ。もし頷かれでもすれば、耐えられる気がしなかったから。

 そうしてわたしは、自分の無能さを実感させられながら、青松町へと向かうことになった。




 青松町にやって来たわたしは、白髪の女性と対面していた。

 彼女が移住を断固として拒んでいる、せき涼子りょうこさんで間違いなさそうだ。

 この仕事もこなせないようなら本気で見限られかねないので、ここで引き下がるわけにはいかない。


「初めまして。わたしは気候危機対策部計画課の乾清霞と申します。わたしなら答えられる疑問もありますので、ぜひご説明をさせてはもらえないでしょうか?」

「別に誰に何を説明されようとも関係ないんだよ。私はここを終の棲家にすると決めたんだ。何があろうと文句も言わないよ。だからもう、放っておいておくれ」

「それは、どういうことでしょうか……?」


 いきなりの重い話に困惑していると、関さんは呆れた様子だった。


「アンタ、何も聞かされていないんだね」


 ……そりゃまあ、ここに来ることもさっき言われましたからね!

 なんて言うわけにもいかない。とりあえず苦笑いで誤魔化した。


「いいよ、上がりな。ただの話相手なら拒まないよ」


 そう言って家の中に戻っていったので、わたしは後を付いていくことにした。

 連れていかれた居間の端には仏壇があり、遺影が飾られていた。

 一枚は白髪の年老いた男性。先立った夫だと推測できる。

 けれど、そこには他にも三枚の遺影があった。若い大人の男女と、幼い子供の姿。


「五年前に病気で亡くなった夫と、四十三年前の震災で亡くなった私の息子夫婦と孫だよ」


 関さんはカラッとした口調だったが、それはあまりに辛い境遇だった。

 テーブルの方に移動して椅子に座る。彼女は冷えた麦茶を入れてくれた。

 改めて簡単な挨拶を行い、お互いに名前で呼ぶことに決まる。


「さて、何から話そうか。清霞が聞きたいことを答えるよ」

「涼子さんは、どうして今もこの町を離れたくないんですか?」


 気候移住政策では人と人の繋がりや文化の継続が何より大事だとされた。過去の事例を見るに、それらを軽んじればろくな結果にはならない。

 そういった部分を国が全力で配慮することで、大半の住民が決して積極的ではないながらも移住を受け入れてくれている。

 なら、彼女はなぜそれでもここに残ろうとするのか。このままじゃ近い内に命を落とすと分かり切っているのに。


「私はね、生まれた時からずっと、この青松町で育ってきたんだ。町の象徴とも言えるクロマツが今みたく酷い有り様になっても、離れたいとは思わない。死んで花実が咲くものか、とは言うけどね、そんなのは生きてやりたいことがある人間の理屈だ。もう私にはこの土地を捨ててまで生きる理由はないんだよ。別に私が死んでも悲しむ人間はいないしね」


 涼子さんは大切な子供たちを災害に奪われ、生まれ育った土地を災害に壊され、更には国の手で引き剥がされようとしている。

 きっと、今の彼女にとっては唯一すがれる幸福が、この町と共に生きて、死ぬことなのだ。

 いくらわたしが自分の知る理屈を説明したところで、その意志が揺らぐことはないだろう。

 そう思うと、どんな説得の言葉も形になってはくれなかった。

 わたしはしばらく彼女と話をしたが、最後は無力感に苛まれながらその場を後にした。




 定時後にわたしが市役所に戻ってくると、金川係長だけはまだ残っていた。


「どうだった?」

「……難しそうです。誰が何を言っても同じ、かもしれません」

「そうか。なら、その様子を報告書としてまとめておいてくれ」


 係長の返答があまりに淡白だったので、わたしは思わず言葉を継いでいた。


「このままだと、どうなるんでしょうか?」

「強制立ち退きだな。そこからは執行官の領分になる」

「でもそれじゃ涼子さんは……救われない」

「社会が捻出できるリソースにはどうやっても限りがある。全員を救うことは出来ない。ならば、行政が手を差し伸べるべきはその手を受け取ってくれる相手だけだろう。時には諦めも必要だ」


 係長が言っていることはきっと正しい。社会は集団の利益を追い求めるもので、少数の個人を切り捨てざるを得ないこともある。

 でもわたしは、そんな風に割り切れない。より多くの人を救うべきだと言われても、目の前の人を救うことだって諦められない。

 まだ時間はある。涼子さんにちゃんと納得して移住してもらえるように頑張ろう。




「はぁっ……ひぃっ……」


 青松町に通うようになって三日目、わたしは険しい階段を登っていた。

 町の北側に佇む小さな山へと通じる道のりだ。どうやらこの先は高台となっているらしい。

 涼子さんのもとを訪れると、ちょうどその高台に行こうとしていたので、付いてきたのだ。

 わたしは早々に肩で息をしていたが、先を歩く涼子さんは平然としている。


「何だい、だらしないねぇ。もうすぐだから頑張るんだよ」

「は、はいぃ……」


 十分ほど登り続けたところで、ようやく高台に到着した。


「わぁっ……!」


 一気に視界が開けて、青松町と海を一望することが出来た。とても清々しい景色だ。

 でも、だからこそ、以前の姿もこの目で見たいと思ってしまった。人の手を離れたことで荒れてしまっている部分も多く、河川沿いや海岸に転がるクロマツの残骸も悲哀を感じさせた。


「ここからの景色は季節によってはもちろん、その日によっても色々な顔を見せるんだよ。だから、何度見たって飽きやしない」


 その言葉からは、青松町のことが心底好きなんだな、と伝わってきた。


「……この町がこれからどんどん失われていくのは寂しいけれど、諸行無常だね」


 涼子さんは諦念の表情でそうこぼした。

 それは、彼女が決して全てを受け入れているわけじゃないということ。

 わたしに何か出来ることはないのだろうか。

 そうは思っても様々な言葉が浮かんでは消えていき、時間だけが無情に過ぎていった。




 結局、わたしは特に成果もないまま週末を迎えることになってしまった。

 その日も涼子さんを説得できずに市役所に戻ると、すぐさま金川係長に呼ばれた。


「説得は出来たか?」

「いえ……」

「なら、もう十分だ。世の中には誰かが差し伸べた手を取ろうとしない人間もいる。それよりも、お前はお前が力になれる人間の為に仕事をした方がいい」


 係長の冷淡な言葉にわたしは、込み上げてくる怒りを感じた。

 差し伸べた手を取ろうとしない? 違う。誰も涼子さんが求める形で手を差し伸べられてないだけだ。彼女には確かな望みがあるんだから。

 ……分かってる。仕方ないんだって。実際、青松町はもう人が住むには危険なのは事実だから。今更どうしようもないこと。だけど、それでもわたしは……。


「……嫌、です」


 気づけばそう呟いていた。係長は眉をひそめる。


「何か考えでもあるのか?」

「それは……」


 思いだけじゃ納得してもらえない。ちゃんと示さないといけない。

 涼子さんが求めるものは何だろう。完璧じゃなくても、それに通じる何かを示すことが出来たなら、もしかすれば……。

 そこで脳裏をよぎったのは、先日の高台で彼女がこぼした言葉。


「……涼子さんは、このまま青松町が失われてしまうことを寂しがっていました。それなら、何かの形で青松町をちゃんと残すことが出来たら、例えば凄く正確な仮想世界とかで保存できれば、その気持ちも変えられる……かもしれません」


 てっきりバッサリと切られるかと思ったが、係長は考える素振りを見せて呟く。


「デジタル・アーカイブか」

「で、でじたるあーかいぶ?」

「もう何十年も前から公的機関を中心に行われている取り組みだぞ」

「すみません……」

「デジタル・アーカイブは、文化財をデジタル化して保存し、広く公開しようという取り組みだ。青松町に関するものも既に色々と保存されているに違いない。だが、お前が求めているのは、これまでの自治体がやってきた程度のことではないのだろう?」


 わたしが頷くと、係長はPCで何かを調べ始めた。


「ふむ……確か市内に評判の良いベンチャー企業があったはず」


 少しして、モニターに映し出された公式サイトには、『セイヴアライムSave A Rhyme』という社名が記されていた。

 直訳すると、韻を守る? どういう意味なのだろう。


「アポを取っておこう。お前が考えるものが可能かどうか、話を聞いてくるといい」


 係長はチャンスを与えてくれていた。それを逃すわけにはいかない。


「はいっ!」




 週明け、わたしは『セイヴアライム』を訪れていた。

 応接室に通されてから少しして、ラフな格好の若い男性が姿を見せた。


「どうも初めまして。僕が代表取締役の御津みつです」


 簡単に挨拶をすると、向かい合ったソファに座って本題へと入った。


「何でも一つの町をより詳細な形でのデジタル・アーカイブにしたいとか」

「はい。これまで自治体では行われていないような形で実現できないかと考えています。その為にぜひお話を聞かせてもらえればと」

「正直言って、今の自治体で行われているデジタル・アーカイブはどれも最低限と言わざるを得ません。例えば地形の3DCGモデル化なんかは行われていますが、それは言ってしまえば空間だけで、時間がないんですよね」

「時間、ですか」


 わたしが疑問に思うと、御津さんは部屋のスクリーンで映像を見せてくれる。


「これなんかは定点で長回しした映像を、分かりやすく早送りしたものになっています」


 どこかの山中だろうか。豊かな自然の光景が、本物さながらの画質で映し出される。徐々に移り変わってゆく自然の様子が見事に捉えられていた。


「自治体のデジタル・アーカイブにはこういう時間の経過による細やかな変化がほとんど保存されてないんですよね。コストが掛かってしまうので無理はないですけど」

「なるほど……」

「僕はこういう映像を見ているといつも、歴史は繰り返さないが韻を踏む、という言葉を思い出します。小説家のマーク・トウェインが言ったとされる言葉です。同じ出来事が繰り返されているように見えることがあっても、良く似ているだけで決して同じじゃなくて、僕たちがその時に感じているのは韻なんですよ」


 彼の話を聞いて、『セイヴアライム』という社名の意味が何となく分かった気がした。

 その後も御津さんは活き活きとした様子でデジタル・アーカイブに関する色々な話をしてくれた。どうやらこういう話をするのが心底好きらしく、人間の文化を保存することにとんでもない熱意があると感じられて、信用できる人だと思えた。




「おや、清霞かい」


 御津さんに話を聞いたその足で青松町を訪れると、涼子さんは畑作業をしていた。


「涼子さん、今日は大切な話があって来ました」


 居間に上げてもらったわたしは、そこで青松町のデジタル・アーカイブ計画の話をした。


「まだ出来るかは分かりません。でも上手くいけば、涼子さんが愛したこの町が、よりリアルな形で多くの人にこれからも受け継がれていきます。手伝ってはもらえませんか?」


 彼女は驚いた様子だった。不可解そうに問いかけてくる。


「どうしてそこまで、アンタは私なんかの為に……」

「涼子さんは自分が死んでも悲しむ人はいないって言いましたよね。でもわたしは、あなたが死ぬと悲しいです。あなたの願いが少しでも叶う方法があるなら、納得してもらえるかもしれない可能性があるなら、わたしは諦めたくありません!」


 ありのままの思いを言葉にしてぶつけた。

 涼子さんはしばらく固まっていたが、やがて大きく息を吐いた。


「……分かったよ。アンタの言うものがどういう風になるのか、まだ良く分からないけど、信じてみても良いかもしれない」

「っ……ありがとうございます!」


 きっとこれから忙しくなるだろう。だけど、後悔はない。

 やりたいことの為なら、全力で走っていける。




 青松町のデジタル・アーカイブ計画は、金川係長の許可を得て直近のプレゼンを行う日に捻じ込むことが出来た。急ピッチで発表資料を作ることになったが、同僚たちも快く協力してくれたお陰で、無事に間に合わせられた。

 いよいよプレゼンが行われる日。わたしは係長と資料の最終確認を行っていた。


「わたしに出来るのはここまでですけど、係長ならきっと通してくれるって信じてます」


 何の疑問もなくそう言うと、係長は怪訝そうな表情を浮かべた。


「何を言ってるんだ? プレゼンはお前がやるんだぞ」

「……えっ!?」

「人を動かすには数字や根拠も大事だが、結局は本気の熱意が一番効く。俺がやるよりお前がやった方が上手くいく可能性は高い」

「そ、そんなこと急に言われても……」

「もし質問に悩んだ時はこれを見て答えろ」


 手書きのメモを渡される。そこには想定される質問と、それに対する答えが記されていた。どれもわたし一人では上手く答えられそうにないものばかり。それだけ係長が発表資料や参考文献を読み込んでいることが分かった。

 やがて時間になり、わたし達は会議室へと向かった。同じ気候危機対策部の職員や市の偉い人たちが着々と集まっていく。


 僅かな時間しかなかったが、わたしは覚悟を決めていた。ここで逃げるわけにはいかない。

 だってこれは、わたしが始めたことなんだから。心の底からやりたいと思ったことなんだから。

 自分なりの言葉で伝えるんだ。涼子さんの為に。そしてこの計画をきっかけに救われる未来の誰かの為に。




「はぁぁ……」


 無事にプレゼンを終えたわたしは、休憩所で放心状態になっていた。

 手応えはまあまあ。悪くはない、と思う。というか、金川係長にもらったメモが的中しすぎて怖かった。わたし一人では相当な失態を見せていたに違いない。


「乾ちゃん、お疲れ」


 同期で採用された移住課の職員に声を掛けられた。


「あんな大きなプロジェクトを立案するなんて凄いね~」

「わたしだけじゃ無理だったよ。色々な人がサポートしてくれたお陰で何とかね。移住課からの要請を任された時はどうなるかと思ったけど」

「……ん?」

「……え?」


 同期は首を傾げていて、お互いに顔を見合わせる。


「涼子さんの件は移住課に頼まれたって、わたしは聞いたんだけど……?」

「いや、困ってたのは間違いないんだけど……もううちでは執行官に任せる形でまとまってたんだよ。そこにあの係長さんがわざわざ頼みに来てさ。少しの間でいいから計画課に任せてくれないか、上手くやれるかもしれない職員がいるから、って」


 勝手に戦力外通告だと思っていたけれど、係長は本当にわたしが適任だと思ってあの仕事を持ってきた、ってこと……?

 困惑しながらオフィスに戻ると、ひとまず係長に礼を伝えた。


「あの、今回の件では色々とありがとうございました」

「気にするな。俺は俺の仕事をしただけだ。他人の力を借りるのは何も恥じることじゃない。人が一人で出来ることも持てる知識もたかが知れている。必要な時に他人を頼るのは何より大切だ」


 何でも自分で出来てしまいそうな係長がそんなことを言うのは意外だった。


「今回の件は少なくとも、俺には出来なかったことだろう。お前だから出来たことだ。俺のように集団の利益の最大化を考える人間がいて、乾のように個人に寄り添える人間がいて、それらが両輪になって初めて社会は上手く回る。だから、お前はお前らしく仕事をしていけばいい、これからもな」

「あ、ありがとうございます……」

「とは言え、もう少し幅広い知識を身に付けて欲しいところではあるが」

「うっ……」


 自覚はあるけど、耳が痛い。

 ただ、今回の一件で改めて思ったのは、係長はとても優秀で厳しく不愛想な人だけど、決して冷血漢じゃない。彼は彼なりにより良い社会を、見捨てられてしまう人がいない社会を作ろうとしているのだ。

 この人からちゃんと学んでいこう。わたしは素直にそう思うことが出来た。




 青松町のデジタル・アーカイブ計画は無事に承認され、それから半年が過ぎた。

 今のわたしは市や青松町の住人と『セイヴアライム』の活動を仲介することが主な仕事だ。

 金川係長には相変わらず、わたしが提出した報告書などで厳しい駄目出しを受けているけど、前よりは減ってきたように思う。この調子で頑張って減らしていきたい。後は先日こんなことを言われたのが印象深い。


「哲学者のヤスパースは、結論という安心がない状態で人間に与えられ、政治よりも根源的な部分にあるものを、時代意識と呼んだ。それはつまるところ、善悪といった倫理と呼ばれるものだ。そこに正解はなく、だからこそ俺もお前も、本当にこれで良いのか、自分が間違ってはいないか、と常に問い続けなければならない」


 それはきっと、わたしが調子に乗らないように釘を刺す意図があったのだろう。だけど同時に、わたしという人間の在り方を認めてもらえているようにも思えた。


『セイヴアライム』が青松町で記録作業をするに当たって、わたし自身も何度か立ち会った。

 六億画素カメラで撮影した複数の定点映像から、フォトグラメトリという技術によって動く3DCGモデルを作ったりだとか、環境DNAのメタバーコーディング解析によって、現在だけじゃなく過去に生息していた生物まで特定したりだとか、他にも色々な調査を行っていた。

 けれど、それらはあくまで土台作りに過ぎないらしい。出来上がった基礎としての仮想世界に様々な要素を加えていくことになる。その為には青松町の住人の力が必要だった。


 涼子さんは青松町からの移住を納得して受け入れてくれた。それでも決して生きる気力を失ったりはしていない。むしろ前よりも生き生きしているように思う。

 今の彼女は御津さんたちに協力していて、『セイヴアライム』の本社や彼らと一緒に青松町へと良く訪れている。この間会った時にはこんなことを言っていた。


「手伝っていると、私にとっての青松町とはどういうものだったのか、なんてことを自然と考えさせられるよ。それは何だか、この年になって町の新しい部分に触れられているような気がして、嬉しいねぇ。ありがとう、清霞。アンタのお陰だよ」


 涼子さんにそう言ってもらえたことが、わたしも涙が出るくらいに嬉しかった。

 もちろん、彼女以外の青松町の住人にも協力してもらっている。

 青松町のデジタル・アーカイブは既に一部が公開されていて、誰でも簡単にアクセスすることが出来る。仮想世界内でコミュニケーションを取ることも可能で、青松町に住んでいた人たちの電子共有地デジタル・コモンズとして機能している。

 彼らはその中で想起された記憶や違和感を『セイヴアライム』に伝え、デジタル・アーカイブとしての青松町はどんどんアップデートされていく。それを御津さんはこんな風に言っていた。


「皆さんの頭の中にあるそれぞれ微妙に違った青松町を取り出して、形にしていくような作業ですよ。それらを束ね合わせることで、『理想イデア』あるいは『どこにもないところユートピア』のような青松町を生み出すことが出来るのかもしれませんね」


 まさしくそれこそ、青松町の宿していた韻と言えるのかもしれない。

 現実の青松町に住むことが出来なくなってしまっても、今も彼らはその心に同じ韻を刻むことで繋がっている。

 それは、生まれ育った土地からの移住を迫られた人々にも受け入れてもらえるかもしれない、新しい移住の形のようにも思えた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

青松の韻を刻んで 吉野玄冬 @TALISKER7

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ