ローマ教皇庁外務局指令「特例第二八二号」──パンノンハルマの集落における心霊現象の調査──

信州の片隅に暮らしている七味

序章 始まりの夢

序章

 夢を見た。


 夕日に染まり、黄金色こがねいろに輝く小麦畑の中に気がつくと立っていた。


 小麦畑は大海原のように地平線の先へどこまでも広がっていて、見上げる空は燃えるように赤かった。


 ふと、後ろを振り向くと目線の先に一軒の家が建っていた。


 石灰せっかいで塗られた白壁の、町で見慣れた赤褐色の瓦屋根かわらやねの家。


 家の周囲に建つ家は他になく、家まで続く石畳の道もなかった。


 道がなくても人が出入りすることで踏まれるだろう小麦は横倒れている様子はなく、外観は長い間放置されてきた様子もなかった。


 まるで小麦畑の中に一軒の家をまるごと上空から落としたような違和感があった。


 違和感のある家の周りを回って再び玄関前に戻ってきた時、扉が少しだけ開いているのに気がついた。


 確か、回る前は扉は閉まっていたはずなのに。


 興味本位で開いた扉に上半身を入れて室内をのぞき込んでみた。


 室内は薄暗く静まり返り、窓から差し込む夕日以外に明かりはなく、外から小麦畑をそよぐ風の音だけが聞こえた。


 人の気配はない。


 興味は好奇心こうきしんとなり、そっと中へ入り扉をゆっくりと閉めた。


 壁のスイッチを押してみると室内の明かりは灯らず、何度かスイッチを押してみてもやはり灯らない。


 と、その時。


 ドタドタと誰かが階段をいきおいよくかけあがるような音が奥へと伸びる廊下の先で聞こえた。


 廊下の先は暗闇でどうなっているのか分からない。


 その暗闇を手探りで進むと階段に突き当たった。


 二階へ続く階段を見上げると、小窓から差し込む夕日が天使の梯子はしごのように薄明光線はくめいこうせんとなって階段の中段までそそいでいた。


 二階へ上がるとホテルの廊下のように扉が並んでいる。


 その中の一室に入るとまず目に入ったのは大きな窓越しに見える広大な小麦畑と間もなく辺りは燃えるような赤色から神秘の青へと変わる日没前の大空マジックアワーだった。


 美しい情景だが暗闇に飲み込まれる前にこの家を出よう。


 そう思った時。


 パラパラ、と背後で音がした。


 振り向いた瞬間、全身の血の気が引いた。


 部屋の入り口からひとつ、手が伸びている。


 その手のひらには小麦の粒が大盛りに乗っており、それがパラパラと床に落ちている。


 その手はただの手ではなかった。


 黒々しく、けもののように鋭く伸びた爪を生やすその手から小麦の粒が落ちゆくのを黙って見つめることしかできない。


 極度きょくどの緊張に言葉は出ず、体は動かない。


 やがて手のひらの小麦の粒が全て床に落ちた時、日没のわずかな光の中で、手がゆっくりと引き戻されるのが目に見えた。


 そのあとで。


 部屋の入り口から上半身を覗かせる────頭部にはつのが生え、瞳は人のものではない────悪魔あくまの姿があった。


 そして恐怖が極限ピークに達した時。

 

 少女は夢から覚めた。 

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