上書きマザーコンプレックス【後編】


「あ、ぃ……ジュニア……?」


「……違う……います。おれは……いや、ぼくは……」



 外向けの顔を作りながら、シャゴッドは女性を起き上がらせてベッドに戻した。

 十歳の少年でも支えられ、持ち運べるほどに彼女は軽かった……

 身長はとても高く見えるのに。


 まるで、臓器がひとつも入っていないみたいに――


「……あの、大丈夫、ですか」

「うん……ありがとう、ジュニアのお友達よね……?」


 はい、とは言いたくなかったが、彼女の期待に応えたくて、「はい」と言っていた。


「あの子、本当にお友達がいたのね……」

「……いないように見えてるんですか?」


「だって、あの子って、きついでしょう? 言い方や態度も……。特別扱いされたなら自信をつけなくちゃいけないって思い込んで、自分を強く見せてるみたいだけど……あれじゃあ人から反感を買うだけよね……」


「…………」


 ジュニアにはジュニアの悩みや葛藤があった。

 シャゴッドが知らないジュニアの努力……それが分かったところで、彼に歩み寄るつもりはなかったけれど。


「あなたは、だあれ?」

「シャゴッドです」

「シャゴッドくん……そっかぁ……」


 赤毛の女性の、細く、綺麗な手がシャゴッドに伸びた。


 ――思い出すのは実の母親から受けた暴力の数々だ。

 手が伸びてきて、されたことと言えば殴られる、髪を鷲掴みにされる、面白そうだからと言って口をこじ開けられ、酒を流し込まれるなどなど……児童虐待の数々だ。

 当人からすれば慣れたものだけど、やっぱり異常である。その思い出がトラウマとなって、女性の手が伸びてくれば体が震える拒否反応が出てしまっていた。

 それは実の母親でなくとも……別の誰かでも同じだった。


 震えるシャゴッドを見て、躊躇った女性は……しかし、ふ、と微笑んで、片手を彼の頭に優しく乗せた。そして、何度も何度も、愛おしいものを扱うように、撫でる。


 ジュニアに向ける愛情を、シャゴッドにも向けたのだ。


「え、」


「綺麗な髪ね……それに、よく見れば可愛い顔をしているわ……。お化粧をすれば、もしかしたら性別を騙せるほどに綺麗なるかもしれないわ……今度試してみる?」


「あ、あの……」

「嫌かしら」

「そんなことないです!」


 頭から離れそうになった手を止めるシャゴッド。ついつい止める手に力が入ってしまい、彼の手の力に、女性が「う、」と顔をしかめた。


 健康体ではない女性には、シャゴッドの力は強過ぎたようだ。


「ごめんっ、――ごめんなさい!」

「いえ、大丈夫よ……。それにしても、甘えん坊ね……。ジュニアにしようとするといつも振り払われちゃうのよ」

「それは……照れ隠しだと思いますけど」

「だといいけど……」


 寂しいわ、と呟く彼女を見ていると、これまでは抱かなかった怒りが生まれてくる。


 ――この人を悲しませるな。


 ……出会って数分もしない内に、既にシャゴッドは目の前の女性の味方だった。



「あの、ジュニアの、お母さん……」

「ヨーヒよ」

「?」

「私は、ヨーヒ。ジュニアの母だけど……それだと長いでしょう? だからね……ヨーヒと呼んでくれると嬉しいわ」

「……はい、ヨーヒさん」


 シャゴッドは素直に受け入れた。友人(一応)の母親を名前で呼ぶことに多少の抵抗があったものの、名前で呼んだ方が都合が良かったのだ。


 呼び方を決めていなければ、シャゴッドはついつい彼女を「お母さん」と呼んでしまいそうだったから……――実の母以上に母親らしくて、理想の母親で……。

 この人の愛情が、欲しいと思ってしまったから。


「ヨーヒさん」

「なあに?」

「……また、撫でてください」

「…………ほんと、甘えん坊さんね」


 よしよし、と撫でられる。自分の中にある攻撃性が全て吸い取られるように、人格が浄化されていく感覚がした。

 今ならあのジュニアにだって、怒り以外の感情を向けることができそうだった。嫉妬も羨望も不満も絶望もない。そんなこと、生まれて初めてだった。


「………………は、」


 と、シャゴッドは冷静になった。

 ……今、なにをしようとしていた? ヨーヒの胸に飛び込もうとしていなかったか? さすがに……さすがに、友人の母親の胸に飛び込んで抱擁を欲しがるのはダメだ。そこは、越えてはいけない一線である。


「いいわよ」

「うぇ?」

「ぎゅ、って、してあげよっか?」


 不健康な体。だけど、色気と母性溢れる彼女の誘惑に、シャゴッドは気を抜いていれば飛び込んでいただろう……けど、ここはがまんした――ここだけは!


 全部、甘えるわけにはいかなかったから。

 ……そこまでしてしまえば、本当に戻れなくなる。

 彼女はジュニアの母親であり、シャゴッドには本当の母親がいる。

 あんなのを母親と認めたくはないけれど、でも、母親なのだから……親は子を選べないし、子は親を選べないけど……そんな中でもやっていかなければならないのだから。


「いえ……もう、大丈夫です……はい……」

「じゃあまた今度ね」

「!?」

「期待してる?」


 くすくす、と子供っぽく笑う女性は、さっきよりも顔色が良くなったように見えて……。


 もしかしたら――――


「あの、ヨーヒさん」

「ヨーヒママでもいいけれど」

「いえ、ヨーヒさん」


 なあに? と。

 最初に出会った頃よりも確実に元気を取り戻していたヨーヒに、シャゴッドが言った。


「またきます。ジュニアがいない時に」

「いる時でもいいのに」

「いや……友達ですけど、仲悪いんです」

「喧嘩中?」

「はい。たぶんきっと、ずっと続く……喧嘩かもしれないです」


 ふたりは立場が違い過ぎるのだ。

 片や立場にも母親にも恵まれていて、片やその真逆。苦しみ続けたシャゴッドは、生まれながらにして特別扱いだったジュニアとは一生、相容れないだろうから……――きっと、この喧嘩が終わることはないのだろう。


 それでも。


 ……あいつの才能を、認めていないわけではないのだから。


 それに。


「(将来、きっとあいつは、無理難題を注文されることになるだろうし……)」


 そのための特別扱いだと思えば、いつ苦しむかどうかの差なのだろう。

 だから――大人になって、おじいちゃんになって……墓に入る寸前で、分かり合えるのかもしれない。それでもいいだろう――そういう友人関係があっても、いいだろう。


「……そう、なのね。いいんじゃない? 喧嘩するほど、仲が良い、でしょう?」

「……ですね」


 シャゴッドは笑って誤魔化した。


 ヨーヒも、彼の誤魔化しを指摘することはなかった。



「――シャゴッドくん」

「はい、なんですか」

「次、きてくれた時――メイクの仕方を教えてあげる」

「メイクって……あれ、本気だったんですね。ぼくに……女装の仕方を教えるって……」


「あなたが嫌ならやめておくけど……でも、似合うと思うの。将来、きっと役に立つと思うから――やってみない?」

「ヨーヒさんがぼくで遊びたいだけなんじゃ……まあ、いいですけど」

「やったっ」


 子供のように喜んだ彼女を見て、シャゴッドは素直に可愛いと思った。

 可愛い人だな、と。


 好きだな、と――シンプルだけど、十歳のシャゴッドは、倍以上も歳が離れた女性に、初恋をしたのだった……。

 絶対に報われない恋だと分かってはいたけれど、この人に恋をしたことだけは、シャゴッドは後悔しなかった。


「またきます――絶対に」


「ええ、待ってるわね」


 そして、シャゴッドとヨーヒの、秘密の関係が始まったのだった。




「戻ったぞ、母さん……母さん?」

「なあに、ジュニア」

「…………良いことでもあった?」

「あなたはどう思うの?」

「うわ、めんどくせえ」

「えぇー。もう、この子ったら薄情な子ねえ……。誰かさんとは大違い」

「…………」


 ジュニアは訝しんだものの、顔色が良く、体調も良さそうな母親を見て、きっと『悪いことが起こったわけではない』ことを察して、追及はしなかった。


 病気が回復に向かっていくなら、過程がなんであれ、良しとしたのだ。


「母さん」

「ん?」


「……いや、なんでもねえよ」

「そう?」


 素直に気持ちを伝えるべきだった。

 照れが勝って、今でなくともいいと思って口を閉ざしたのだ――結果的に、ジュニアは本当に伝えたかったことを母親に伝えられないまま、永遠のお別れをすることになる。


 彼女は体が弱かった。


 エルフではなく人間だったから……別れは唐突だったのだ。



 ――母親の墓の前で。

 ふたりの青年が、顔も合わせず並んでいた。


「――シャゴッド」

「……なんだい?」


「母さんが最期まで笑っていられたのはオマエのおかげだ……それだけは……感謝する」


「フン……そうかよ。あの人はおまえの愛情を一番欲しがってたんだけどな……結局、おまえはなにひとつ、あの人に返さなかったよな――」


「……ああ。分かってる。後悔してる。もう、どうにもならねえけど……」


 たとえ過去に戻れる魔法があっても、きっと意味はない。

 過去を変えて、望む未来を手に入れても、ジュニアの後悔はきっと消えないのだ。

 ジュニアにとっての母は、≪今≫にしかいないから。


「――オレは、母さんの息子であることを誇れる男に、なるつもりだ」

「なら……具体的にはどうするつもりだ?」


「オレは選ばれたんだ……だったらその役目を全うするつもりだ」


「それは……過酷だぞ。極端なことを言えば、20000回の九死に一生を得ることになるかもしれない……たった一度でも死が当たれば、おまえは……」


「その上で――それがオレの役目であるなら、逃げはしねえ」


 なぜなら――≪ジュニア≫の名を与えられた、たったひとりの魔王の子だから。



「親の期待には、応えてぇ。たとえもう見られないとしても――オレが死んで向こうにいった時、正面から向き合えるようにはしておきてぇんだ」


「……好きにしろよ。

 僕はおまえが死のうがどうでもいい……死んだら死んだで、せいせいする――」


「シャゴッド」


「あぁん?」


「――任せたぞ」


「言われるまでもなく」



 そして、勇者(20000)殲滅計画が、始動する。





 …【上書きマザーコンプレックス】了

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