院長先生とミケ子さん
@gjo123
第1話
昭和50年ごろのことだ。
私の記憶の始まりは、その頃だ。
ただ、その頃の記憶の空は、白い。まだ、モノクロームの世界だった。
京都の海の見える家の隣の家のお姉さんと、家の前に出したビニールプールで遊んだ。覚えている。
昔からある、空気を入れるタイプの、壁が三段になっている。丸いプールだ。青だったか、赤だったかは、覚えていない。まだ記憶に色がない頃だ。
私は髪の毛を伸ばしていて、「アグネス・チャンみたい」って、隣のお姉さんに言われた。私はアグネス・チャンを見たことがなかった。でも、名前は分かった。その隣の家のお姉さんのことを、リカちゃんと呼んでいた気がする。
私が住んでいた家の庭は、堤防になっていて、すぐに海になっていた。タツノオトシゴを見るのが好きであった。父は、よくサヨリという、長細い魚を釣っていた。覚えている。
実際の私は、滋賀の琵琶湖の北の方で生まれた。
その後、京都の町に2回引っ越しをし、最後に北陸のこの地に、幼稚園に入る前の春に引っ越してきた。
このころの記憶の空は、青かった。色が付いた。濃い桃色の桃の木も咲いていた。私の記憶に色が付いた。
私の父は、勤務医だった。京都の医大を卒業して以来、ずっと勤務医だった。私の引越しは、全て、父の仕事の影響であった。
この、最後の北陸に引っ越してきたときの記憶は残っている。引っ越し先の家は、病院の敷地の中にある官舎であった。
7軒くらい平屋の家が並んで建っていた。私の引っ越した家の玄関先には、桃の木が立っていた。濃い桃色の花が咲く、桃の木だった。
私が引っ越してきたころ、桃の花が咲いていた。桃の花が咲いていたのは、3月くらいだった。
引っ越して、その次の月には、私は地元の幼稚園に通うことになった。
幼稚園はあんまり楽しい思い出がなかった。
北陸のその土地は、みんな親同士が知り合い。それ以前に祖父母同士が知り合いのような親戚同士のような、古いつながりがある土地であった。その中で、私は疎外感を感じていた。
話し方も、幼稚園に来ている子供たちはみんな強い方言があった。
私の父は京都の人間で、男性独特の関西弁であった。しかし、祖母が東京の人間だったこと、祖父も京都から東京の高校・大学に行っていたことがあり、それほど強い関西弁ではなかった。イントネーションが関西風ということくらいだった。母も祖父母は京都の人間であったが、転勤族として、名古屋や広島岡山と地方で暮らしていたので、土地の言葉を使う人ではなかった。
そんな家族の中で育った私は、方言に馴染めなかった。
北陸のその土地は、両親共働きの家が多く、子供たちは祖父母に育てられていた。そのため、使う言葉もおじいちゃんおばあちゃんと同じ、強い方言をまとっていた。
そして、子供たちは、自分たちの祖父母のことを「おじちゃん」「おばちゃん」と呼んでいた。
そのことも、私には理解するのが難しかった。時々、言い間違いをして、友達に馬鹿にされることもあった。でも、私は間違っているのは、みんなの方だと思っていた。けれども、口に出し言うことはできなかった。上手く自分の気持ちを伝えることが難しかった。
その親戚同士なのか、古くからの知り合い同士なのかわからないが、保護者達は、幼稚園が終わった後も、一緒に家で遊ばせていた。
その光景を知ることもなく知ることは、自分はよそ者なのだと孤独感を感じてさせるのに十分であった。
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