第4話 びわ湖生涯精神医療センター②

「僕が何をした!」

「お前がポケットに入れているモンを出しな」

 

 猿は左手で熊の腕に抵抗している。私からは見えないけれど、猿は上着のポケットに右手を入れているようだ。

 猿が逃げ出そうとして足を滑らして体制を崩したところを、熊は見逃さなかった。


 熊の太い両腕が、瞬きも許さない速さで猿の体を持ち上げた。猿は簡単に宙に浮いてしまった。熊男の革ジャンがなびく。

 熊と猿の身長は、猿のつむじから頭2個分ほどの差がある。

 抵抗も虚しく猿は地面に叩き伏せられた。


「い――嫌だ」

 

 猿が言い終わらない内に、熊は素早く猿の上着を脱がし、ポケットから何かを奪った。

 それはお菓子の箱だった。熊はそれを奪うと、起き上がろうとする猿の頬を手の平で叩いた。

 バチンと乾いた音。猿はうめく。ただのビンタなのに歯が欠けてそうな音だ。


「なんて乱暴な奴だ。訴えてやるぞっ」

「勝手にしろ。お前と話していると、俺まで馬鹿になる」


 熊は吐き捨てるように言い、くるりと振り返ったところでにらまれた。


「うぜえ顔してんな。見せモンじゃねえぞ」


 熊はノッシノッシと団地から出て行った。

 猿はしばらくコンクリートにうずくまっていた。


「大丈夫ですか」


 私は彼に駆け寄り、服の袖を引っ張る。「ははは」と彼はニヤけた。


「あいつめ、コンビニからここまでストーキングしてやがったんです」


 猿はズボンのほこりを払って立ち上がった。彼はそれほど年を取っているには見えなかったけど、手の甲の血管は浮き、肌はうろこのようにカサカサに乾いていた。


「何で喧嘩けんかなんかしてるんですか」

「喧嘩よりもイジメだな。僕がお菓子をポケットに入れるところを見られたんだ」

「それって、万引きじゃないですか」

「仕方ないじゃないか。お金が無いんだから」


猿は悪びれもせずおどけた。


「君も、さっきの野蛮人には気を付けた方が良い」

「ごめんなさい。助けてあげられなくて」

「いや、気にしないで。君みたいにヤワな子供がかなう相手じゃない。院長もね。大丈夫だよ、僕は根に持ったりしない。それに、院長はいつも見て見ぬふりをするんだ」


 猿は、情けない、弱々しい声であえぎながら団地を離れていった。

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