第3話 びわ湖生涯精神医療センター①

 解離性健忘症かいりせいけんぼうしょう

 どうやら私は病気らしい。


 先生は自分を院長先生だと自己紹介した。

 つらつらとした説明を聞いていたけれど、大半を聞き流してしまった。


――記憶喪失のことですよ。頭を強く打ったとか、衝撃的な体験など原因は様々です。

――記憶を失う前の言動を無意識にとる場合もあるようです。無意味に思える行動も、実は記憶を呼び起こす手がかりになるかもしれません。

――ここはただの病院ではなく、私たちはホームと呼んでいます。ここにいるのは、社会の生き辛さに心を病んでしまった人たちなんですよ。

――貴方にぴったりの場所ですね。


 たぶん、そんなことを言っていたと思う。

 うわの空でいて、気がついたら院長と一緒に外を歩いていた。


 『びわ湖生涯精神医療こしょうがいせいしんいりょうセンター』は、琵琶湖の一部を埋め立てた人工島に建っている。

 2030年には工事が終わり、その年の夏に病院が完成した。

 そういえば市長が「医療と地域再生に力を入れます」、とテレビで宣言していたな。

 島の南側は湖岸道路こがんどうろの559号線と繋がっていて、陸路は一本だけ。

 島の西側には港があり、毎週土曜日になると定期船が食料とかを運んでくる。ミシガン遊覧船ゆうらんせんで有名な大津港おおつこうに繋がっているそうだ。


 島はとても静かだった。都会のスクランブルの喧騒も、むせ返るような空気も無いし、琵琶湖から吹く空気は冷たいけど澄んでいて、私を浄化してくれる気さえした。

 

 島には車が走るような幅の道路は国道を繋ぐ湖上道路の他には無いし、ピカピカ目に悪いネオンの電光掲示板も無い。

 社会の音がしない、異様な退廃的空気。さらにこの島では、街を歩く人があまり見当たらないことは奇妙だった。


「住民はあまり出歩きません。本当は散歩でもした方が良いのですけれど」

 

 私の疑問に院長はそう答えた。


 街の団地エリアに入ったらしい。三つのマンションが縦に向い合わせにニョキニョキしている。それぞれA、B、C棟だという。


「志村さんは、A棟ですよ」


 島の雰囲気は良いのに、こんな古臭い場所もあるんだなあ。

 突如現れた生活感に圧迫されながら敷地をまたぐ。


「とぼけんじゃねえ! ソイツを出せッ!」


 男の怒号が静かなを切り裂いた。その声に重なって「助けて!」と、別の男の声もした。


 今の声は何? 喧嘩か、隣人トラブル?


 チラリと院長を見ると、彼女はボンレスハムみたいな両腕を組んで「またですかあ」とぼやくと、団地の裏に回った。

 まるでいつもの目的地に行くように足早だった。一緒についていくと男が二人取っ組み合いをしていた。

 一人は熊に似て大柄おおがらで、片方は猿に似ていた。

 熊男は猿男のむなぐらを掴んで顔を真っ赤にしていた。

 猿は逃れようと身をよじらせても、彼の細い腕では成す術もない様子だった。


 「俺はお前みたいな性根しょうね曲がりを見ると、ムカムカすんだよ」

 「な、何のこと――」

  

 私たちの存在に気が付いたようで、猿は一瞬、こちらに視線を向けた。


「助けてくれぇ!」


 猿が懇願の眼差しを私たちに向けている。

 驚いたことに、厄介事は御免ごめんだと言いたげに、院長はそそくさとマンションに入って行った。


「志村さん。先に部屋に行ってますね。ここの5階だから」


 は? 見て見ぬ振り? いい大人が?


「え、ちょっと」


 なんて人だろう。院長のくせに、注意しないの?

それとも、喧嘩はこの島では何のことは無い、日常茶飯事なことなのだろうか。

 どうしよう。取り残されてしまった。

 発火寸前の男たちのやり取りに、高校生の私では何も出来ない。

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