悪に堕ちる

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悪に堕ちる

 その日の日中ひなか

 街は、まるで活気に満ちた絵画のようだった。

 前日から続いていた低気圧の影響で、連日雨模様だっただけに久方の青空はひときわ輝いて見えた。

 店先では華やかな花が咲き誇り、カフェやレストランのテラスでは笑顔があふれ、楽しい会話が飛び交っていた。

 午後1時を過ぎた頃、一人のサラリーマンがファミレスに入った。

 年齢は20代後半だろうか。

 小柄で、気弱そうな青年だ。

 名前を田中健太けんたという。

 ランチのピークを過ぎていたとは言え、店内は家族連れやカップル、学生らでやや混雑していたが、少しすると段々と席が空いてくる。

 最近の飲食店はタブレットオーダーシステムが当たり前だが、やはり注文を行う前のメニューは昔ながらの写真付きのものに限る。

 だが、健太は時間をズラせての昼休憩ということもあって、あまり考えることなく日替わりランチに決めていたが、まだ注文をしなかった。

 なぜなら、今日は待ち合わせをしていたからだ。

 程なくして、一人の女性が入店してきた。

 化粧は濃すぎず薄すぎないナチュラルメイクで、その色白の肌に映えるナチュラル色のリップが良く似合う。

 着ている服はネイビーのキャミソールワンピースにカーディガンを羽織り、足元は黒のサンダルというカジュアルながらも清潔感のある服装だ。

 少し明るめの茶色い髪はゆるくウェーブがかかっていて、肩に届かないくらいの長さのミディアムボブ。

 顔が小さく、身長は女性にしては高い方だろう。

 彼女の名は高梨たかなし美沙子みさこ

 健太が手を振ると、気付いた美沙子がテーブルまでやってきた。

「ごめん待った。休み時間になるかの所で、子供が鼻血をだしちゃってさ」

 美沙子はそう言いながら、テーブルを挟んで健太の向かい側に腰を下ろした。

 小さなハンドバッグは椅子の下に置き、肩から下げていたカーディガンは背もたれにかける。

「保育園の先生だから、休みも関係ないよな」

 健太が苦笑いを浮かべながら言うと、美沙子は笑いながら言う。

 二人は同い年の幼馴染だ。

 それこそ保育所の頃からだから、付き合いももう20年を超える。

 高校生活を最後に、二人は違う道に進む。

 健太は父親がそうだったことから、プログラマーになる勉強をし今はIT企業でプログラマーとして働き、美沙子は短大で保育士の資格を取り、現在は保育園の先生をしている。

 未だに実家暮らしということもあって、顔を合わせることはあっても、こうして二人きりで会うのは久しぶりだ。

 誘ってきたのは美沙子の方からだ。

 二人はタブレットでオーダーを済ませると、近況を話し始める。

「どう、仕事の方は?」

 美沙子の問いに、健太は苦笑いを浮かべた。

 健太はプログラマーになったのだが、ホワイト企業とは言えなかった。

「相変わらずだよ。納期が少しでも遅れたり仕様が変わると、深夜に及ぶ残業や休日出勤の嵐だ。代休なんて会社規則に定めてあるくせに、一回も取れたこともない。お金も良いけど、休みも欲しいな」

 健太は会社での出来事を話した。

 その苦労話に美沙子は察するように微笑む。

「大変ね。過労死なんてしないでよ」

 過労死なんて、どこでするか分からない。

 人の死がニュースで流れる度に思うことだが、それでも美沙子は心配そうに言った。

 健太は苦笑いを浮かべて頷く。

「仕事そのものはパソコンを叩くのが基本だから、肉体的に疲れることはないんだけど、ただ本当に精神的に疲れるだけだよ。疲れると言えば、美沙子の方が大変だろ。何と言っても子供が相手の先生だから、気苦労が絶えないだろ」

 健太は仕事への愚痴を一通り喋ると、今度は美沙子に話を振った。

 保育園での保育士の仕事は子供達の世話をすることに加えて、保護者への対応や同僚や上司との調整なども必要だ。

 子供の頃に公園で遊んでくれた保育士のお姉さんに憧れて、将来は子供に関わる仕事がしたいと言った美沙子の夢が叶ったわけだが、実際にやってみて大変でないはずはないのだ。

「まあね。一人で何十人もの怪獣みたいな子供を相手にしなきゃいけないから。今日でも、いきなり鼻血を出して泣いちゃう子とかいるし」

 美沙子は苦笑しながら言った。

 鼻血を出す子の他にも、手を挙げる子は喧嘩っ早いし、1人が騒げばそれにつられて大泣きする子が続出する。

 一人が泣き出すと連鎖反応で次々と泣き出して収拾がつかなくなることもあるのだとか。

 そんな話を聞かされては、健太としても笑うしかない。

 その後二人はランチを食べながらゆっくりと話を進めたのだが、ある程度仕事の愚痴を言い終えたところで、食後の紅茶を啜っていると、健太は美沙子の様子がいつもと違う気がした。

 言いたいことが言えずに、何となく言い淀んでる気がするのだ。

 健太は人の気持ちを察するのは苦手だが、長年の付き合いから何となく察するものがあった。それが合っているかどうかは別にして、何を言いたいのかは聞くことにした。

「……何かあったのか?」

 健太が優しく聞くと、美沙子は少しビックリしたのか紅茶を喉に詰まらせて咳き込む。そんな美沙子に健太は、席を立って彼女の背中をさすってやった。

 少しすると美沙子も落ち着き始める。

「ごめん。ありがとう……」

 美沙子は少し呼吸を整えると、お礼を言って話始めた。

「……健太って、将来のこと考えてる?」

 健太は美沙子の言葉を受け、少しだけ考え込む。

 確かに新卒で入社してから、働き始めて6年になるが、今のところ会社に目立った不満はない。

 最近は大きなプロジェクトにも関わらせてもらってるし、給料もそこそこの金額をもらっている。ボーナスだって大企業程ではないが貰えているし、今の生活に不自由もないから転職や起業なんて想像すらしていなかった。

「将来って。もう社会人になったから、これと言って考えてないなぁ。最近は、今の仕事をもっと上手くこなしたいって思ってるし」

 健太は正直に言った。

 美沙子はさらに質問を続ける。

 何故か少し緊張した様子だが、声ははっきりとしていた。

「結婚とかは?」

 その質問に、健太はドキリとした。

「……え。結婚って、僕の職場はパソコンが相手で異性との接点とかないから、全然想像つかないよ。今は仕事が一番だから」

 健太は苦笑いを浮かべた。

 そんな健太の言葉を受けて、美沙子は安堵の表情を浮かべた。

「私も、そうかな……。女ばかりの職場だし、これといった出会いもないし。気がつけばもう30手前だからね。最近、お母さんが、私にそろそろ孫の顔が見たいってうるさいのよね。早く結婚して、子供を産めって」

 美沙子の言葉に健太は衝撃を受けた。

 仕事もプライベートも充実してるように見えていた幼馴染が、将来に対する悩みなんて抱えていたからだ。

 美沙子は気丈な性格で、人前であまり弱音を吐かないタイプだから気付きにくいのだが、自分自身を結婚適齢期と自覚しているということは、そうとう悩んでいるのかも知れない。

「そっか……。こればっかりは相手がいないと、どうにもならないことだから」

 健太は話を逸らすように言った。

 美沙子は健太の言葉に頷いてはいるが、心なしかその表情は暗い。

 多分だが、家族からは結婚を急かされているのだろう。

 そして、彼女自身もどこかで焦りを感じているのかも知れないと健太は思った。

 そんな重い雰囲気のまま食後のデザートを食べ終える。

 すると、美沙子は呼びかける。

「……ねえ。健太」

 彼女の声は先程までと違い、妙に艶っぽいものだった。

 そして、その表情には少し紅みがかかっていた。

 それを見て健太は察した。美沙子が何を言いたいのかを。

 さすがに30手前ともなれば、その意味も理解できるし幼馴染ということも加味して全く期待していなかったわけではないが、いざ実際に目の前にしてみると驚く反面、何故か冷静な自分に驚いた。

「……私達、付き合ってみない。結婚を前提にさ」

 美沙子のいきなりの告白に、健太はたじろいだ。

 その驚いた顔を見て、美沙子は微笑む。

 それは、いつも大人しい彼女からは想像できないような、少し意地悪な笑い方だった。


 ◆


 寂れたビルや古びた看板が立ち並ぶその場所は、明るい街灯の光が薄暗い雰囲気を照らし出していた。

 風が冷たく、街は静まり返っているかのようだった。数少ない通行人たちは、急いで足早に歩き、目的地に向かっていた。店舗の明かりが街角に揺れる影を投げかけ、それぞれの道を照らす。

 街路樹の下で、美沙子は空を仰いでいた。

 頭上には雲ひとつなく、空一面には星空が広がっている。

 街灯の光で星の光がかき消されているが、その明るさに目が慣れれば星が綺麗に見えてくる。

 辺りを見渡せば、あらゆる場所で色々な人生が流れていることが想像できる。

 そして、自分もその一部なのだと思うと、胸が締め付けられるような気持ちになるのだった。

(私、健太に告白したんだ……)

 美沙子は、そう思うと暗い気持ちになってきた。

 背徳感からくるものなのか自分でも分からないが、どことなく不安な気持ちになるのは、あの時の健太の表情は明るいものではなかったからだ。

 それは、いつもの健太とは違う。

(昔からそうだ。何か悩みがある時ほど、明るい表情は見せないんだよね)

 そんな幼馴染の姿を思い出すと、胸が苦しくなる。

(やっぱり、私の告白が重荷になったのかも知れないな……)

 美沙子は再び空を見上げる。

 健太から連絡があった。

 あの時の返事をしたいから会いたいというものだった。

 待ち合わせは、レストランや喫茶店ではなく、路上だった。

 美沙子は約束の時間よりも1時間早く着いてしまったので、こうして寂しく街角に立っている。

(もしかして……。別れ話とかだったらどうしよう……)

 そんな不安が脳裏を過ぎる度に、胸が締め付けられる思いがする。

 すると美沙子を呼ぶ声がした。振り返ると、健太が立っていた。

 今日は休日ということもあって、ジャケットにスラックスという出で立ちだった。それだけでも美沙子には新鮮に見えた。

「美沙子。待たせたね」

 そして、どこか緊張した様子が伝わってきた。

(……嫌だ)

 そんな健太の表情を見ると、胸が締め付けられる思いがする。

 もし別れを告げられると考えたら、その場から逃げ出してしまいたいと思うくらい怖かったのだ。

 だが、美沙子はその場で必死に我慢した。健太が口を開くまでは自分を守る為だと感じたからだ。

「ううん。さっき来た所」

 美沙子はウソをついた。

 ただ、この一言で健太は美沙子の緊張を感じ取った。なぜこんなにも美沙子の心象が伝わって来るのだろうか、健太は戸惑いを感じていた。

 だが、ここまできたからには美沙子に返事をしなければならないだろう。

 そう思い、意を決して話始めた。

「美沙子。今日は先日の返事をしようと思って呼び出したんだ。……でも、その前に僕は話さないといけないことがあるんだ」

 健太は、そう言うと唾を飲み込んだ。

「話さないといけないことって?」

 美沙子は、戸惑いながら返事をした。

「……僕には人には言えない《秘密》があるんだ。家族にだって言ったことない《秘密》だ」

 健太はそう言うと、美沙子を真剣な眼差しで見つめた。

「《秘密》って。なに?」

 美沙子は不安そうな表情を浮かべる。健太は、そんな美沙子に対して真実を伝えるべく重い口を開くのだった。

「……僕は、ドアクトウ様を首領とした悪の秘密結社 《悪党団》の戦闘員なんだよ」

 健太はそう言うと、美沙子に対して頭を下げて謝った。

 この突拍子もない告白に美沙子は言葉を失い、その場から動けなくなった。

「……え!?」

 そんな美沙子に気付かず、健太はそのまま話しを続ける。

「驚くのは無理もない。まだ無名の組織で、一般には知られてはいないからね。それでも僕は、この組織の活動に人生をかけている」

 美沙子は信じられないという気持ちで健太を見つめるが、その眼差しに対して真剣に答える健太の姿があった。

「今の政治家は腐っている。《留学生は日本の宝》と言って外国人留学生奨学金制度に226億円を投入。違うだろ、日本の将来を担うのは日本人の子供たちであって外国人じゃない。

 少子化対策の財源確保のため、1人あたり平均で月500円を負担させる。ふざけるな。政治家は5年間で50億円近い巨大な裏金を作っておきながら、発覚後は収支報告書に記載したから裏金じゃないとうそぶく。

 あまつさえ、政治家を選んだのは国民だから、国民のせいだって。なんて無責任で卑怯な連中なんだ!」

 健太は、拳を握りしめながら政治に対する怒りを露わにした。

 その勢いに美沙子は圧倒されると同時に、こんなに感情をあらわにする健太を見るのが初めてのことだったので戸惑っていた。

 けれど《悪党団》だなんて、子供向けヒーロー番組のような変な冗談ならやめて欲しい。そう言おうと思ったが、健太の表情を見るとそれが冗談ではないことが伝わってくる。

「かつて薩長同盟が徳川幕府を倒したように、日本政府を転覆させる。そのための《悪党団》なんだ。僕は真面目なサラリーマンを演じながら、本当は一日一悪をノルマに組織の為に働いている。これが、僕の《秘密》だ」

 健太は、そう言うと美沙子に頭を下げた。

(ウソだ……)

 そのあまりに突拍子もない告白に、美沙子は言葉を失った。

 世の中には変な組織や団体が沢山あるという話を聞いたことはあった。

 だが、それが自分に関わりのあるものとは思ってもいなかったのだ。しかもそれが悪の秘密結社だなんて言われても信じる方が難しいだろう。

 そんな信じられないといった表情を浮かべる美沙子に対して、健太は自分に言い聞かせるように話を続けた。

「……ごめん。美沙子の気持ちは嬉しかった。だからこそ、僕は自分の《秘密》を美沙子に話したんだ」

 健太はそう言うと黙った。

 全てを話し終えた時、美沙子は唖然として何も言えなくなってしまった。ただ呆然と立ち尽くし、じっと街灯を見つめていた。

「……なに冗談言ってるのよ。私が嫌いなら、はっきりそう言えばいいのに。こんな回りくどいことして」

 美沙子は感情的になって叫ぶと、健太に冷たい視線を送った。

「いや。そうじゃなくて、これは本当のことで……」

 健太は弁解しようとしたが、美沙子はそれを遮り言葉を続けた。

「バカにしないで!」

 その表情に怒りと悲しみが込められていた。

 静かな口調とは裏腹に、声には怒りが含まれていることが分かる。そんな美沙子の声は震えていた。彼女の声に圧倒され、健太は言葉を失った。

 その時、通りの向かいにある時計店にて、ガラスの割れる音が聞こえた。

 見ると目出し帽を被った4人程度の集団が、店内に次々と侵入していくのが見えた。

 突然のことに美沙子は状況が理解できなかつた。

 その数秒後に店の外では騒ぎが起きた。

 美沙子は呆然として見ていることしかできなかった。

「え、強盗」

 だが健太は違った。危機感を覚えたような表情をする。

「《悪党団》の居る街で強盗だって。この街で一番の悪党である《悪党団》を差し置いて、強盗なんて悪いことをするなんて、ふてぶてしいヤツらだ」

 健太はそう言うと、美沙子の方を見る。

 その表情は決意に満ちていた。

 健太が何を考えているのか美沙子には察するものがあったが、本当に行動するのか分からないままに理解できるものがあった。

 その時、健太の脳内で、次のような図式ができていた。


 悪の秘密結社

   ↓

 悪い奴

   ↓

 悪い奴は怖い

   ↓

 強盗は悪いことをする奴

   ↓

 強盗よりも強い奴がいたらどうなる?

   ↓

 強盗より強い=強盗よりも悪い奴

   ↓

 つまり強盗を倒せる奴は、凄く怖くて悪い存在


 健太は言う。

「僕の前で悪行を行うとは。どっちの悪が上か分からせてやる……」

 健太はベルトのバックルを開きナンバーを入力し内部に仕込まれた小型のナノマシンが起動準備に入った。

戦闘形態コンバットフォーム

 健太の音声認証によってナノマシンが起動し、ナノテクによるプロテクターが胸部を覆って行く。その形状はボディアーマーと言った方が良いだろうか。

 軍事用に使用されるような堅牢さを備えた高分子素材からなるブーツやグローブも生成され装備される。

 頭部はジェット型と呼ばれるヘルメットで覆われ、目元はゴーグルで、顔は素性や表情を隠すようにライダーが装着するフェイスマスクで覆われる。口元にはスリット状の通気孔が確保されていた。

 美沙子の前で健太は変貌した。

 漆黒の装甲と各部に装着されたプロテクターが異様な存在感を放っている。頭部全体を覆うようなデザインがそう思わせるのか、ただ見た感じも威圧的なイメージがあった。

 そんな姿を見た美沙子は、言葉を失ったまま呆然と立ち尽くすしかなかった。

 自分が憧れたはずの健太が、悪の組織の戦闘員だったなんて信じられるはずがない。

 そのあまりに現実離れした非日常的な出来事に、美沙子は唖然とするしかなかった。

 時計店は、さながら世紀末の様相を見せていた。

 目出し帽で顔を覆った集団が、店内の金目の物を片っ端から袋に詰めている。手には鉄パイプやナイフなどの武器も見えた。

「や、止めろ!」

 男性店員が強盗団の前に立ちはだかった。

 この騒動で店内の客は逃げ出していたが、店員は勇気を振り絞り、強盗団を引き止めたのだ。

 だが、この行為が命取りになる。

 目出し帽を被った男は腰からナイフを取り出すと、その切先を店員に向けた。

「テメエ。邪魔するなら殺すぞ」

 男は恫喝すると、店員の胸ぐらを掴んだ。首元にナイフを当てる。

 すると男の手首を掴む者がいた。

 男が目を向けると、そこには戦闘員形態になった健太の姿があった。

 頭部全体を覆うような形状のヘルメットに、顔を覆うマスクによって無表情に見えてしまうため不気味さを感じた。突然、そんな不気味な姿が迫ってきたのだ。強盗団は動揺を隠せなかったのだろう。

「……だ、誰だ」

 男は、店員から手を放して後ずさりしてしまった。その瞬間を健太は見逃さなかったようだ。

 次の瞬間、男は顔面が闇に飲み込まれるような衝撃を受けた。

 健太が繰り出した突きが、男の顔面を襲ったのだ。

 腕力だけを使った、やわなパンチではない。十分に腰の回転も加えられた強烈な突きだ。

 突き抜けるような衝撃は脳へと伝わり、男の視界に火花が散る。

 次の瞬間、男は腰から崩れ落ちた。その顔は鼻の骨が砕けたのか、無残に変形していた。

 その様子を目の当たりにした残り3人の強盗団は、高級時計を強奪していた手を止める。

「何だ、お前は!」

 男の一人がサバイバルナイフを構えながら叫んだ。

 その切っ先は健太に向けられている。

 健太は言う。

 その声は、機械的な音をしているようだった。ヘルメット越しにくぐもった音声に聞こえることからも分かるように、マスクの内部にはボイスチェンジャーが仕込まれていた。

「《悪党団》。小悪党が、本物の悪を見せてやる」

 健太の拳には炎が宿っていた。

「何だ。このコスプレ野郎は」

「素手で勝てると思ってるのかよ」

 強盗団の男達は馬鹿にしたような態度で、健太をあざ笑った。

「僕達戦闘員は、いつでもあらゆる場所、機関に潜入し破壊工作が取れるよう、絶対に奪われない武器を携行することを旨としている。すなわち鍛え上げた格闘戦こそが僕の最大の武器だ」

 健太はそう言うと、構えを取った。重心を低くし、足幅のスタンスが広い、その構えは打撃技、投技、関節技などの攻撃法を駆使して勝敗を競う格闘技の一つであるMMA(Mixed Martial Arts)で使用されるのと同じものだ。

 健太の装着している戦闘服に肉体強化や戦闘強化機能は無く、防御機能を強化し個人の身元を隠匿する目的で着ているに過ぎない。したがって、戦闘員の戦闘能力は戦闘員個人の鍛え上げられた肉体に依存される。

 健太の全身からみなぎる殺気が、男達を威圧する。

 男達は健太を囲むように広がる。

 正面と左の男のそれぞれの手には長さ30cm程の鉄パイプが握られている。

 右側の男は、サバイバルナイフを持っている。

 ただ、その構えは素人に毛が生えた程度のものでしかない。少なくとも組織の一員である健太の敵ではなかった。

 正面に立つ男が鉄パイプで、いきなり殴りかかってきた。

 だが健太には、その動きは見え見えだ。なぜなら鉄パイプを振り上げてから襲いかかって来たからだ。予備動作が大きすぎて、容易に予測できるのだ。

 健太は、その男が襲いかかって来るのに対して進み出る。右脚は地を蹴る。跳ね上がった脚の膝を抱えて、足裏を突く様に蹴り出す。同時に左脚は地面をしっかりと踏みしめる。

 蹴りの反動と、しなやかな鞭のような柔軟な筋力で繰り出すサイドキックは、男の顔面を確実に捉え、男の鼻骨が砕ける感触が伝わってくる。

「野郎!」

 この光景を見た左の男の一人が怒りの声を上げる。鉄パイプを片手で持つが、何をして来るかは分かり切っている。武器を持った素人は武器しか攻撃手段を持たないからだ。

 健太は、男が右手で持つ30cmの鉄パイプが持つ攻撃手段を予測する。

 男は鉄パイプを振り上げる。

 予想通りの動きに健太は呆れつつ、男の懐に飛び込むと、胸ぐらを掴みヘルメットによる頭突きを見舞わす。この攻撃を予期していなかった男は、一撃で意識が刈り取られた。

 残る一人の男は、サバイバルナイフを健太の背中に向けて突き出して来た。

 だが、健太は少し右に身体を捌いて、自分の左脇の下にナイフを握った男の腕を通すと、右手で男の手首を掴み、その手をひっくり返して関節を決める。左手を使って男の肘の内側を押し上げると、いとも簡単に肘が曲がり、手首と肘関節が極められてしまう。

 この攻撃によって肘関節は完全に極まった。

 スタンディング状態での腕がらみ。

 そうなれば、もはやナイフを持っても無意味である。男はサバイバルナイフを手放した。

 健太は、男の腕の関節を極めたまま、体重を使って男を床に叩きつける。次の瞬間、男は衝撃によって肩関節を脱臼していた。

 悲鳴は出ない。

 一撃で致命傷に至るダメージは悲鳴を上げる間もなく意識を刈り取る。

 健太は、1分足らずで強盗団の制圧を完了していた。

 店の中の誰もがこの光景に目を見張った。まるでアクション映画のワンシーンを見ているように錯覚するほどであった。


 ◆


 会社での昼休み。

 健太は一人公園の片隅で、食事も手につかず落ち込んでいた。

 健太の行動は、首領ドアクトウを含め《悪党団》内部でも称賛されていた。これで《悪党団》は確実に時計強盗を行った強盗を倒したことから、強盗よりも強くて怖くて悪い存在がこの街に存在することを、より周知させる結果になったのだ。

 《悪党団》は打倒日本政府という巨悪を最終目的にしている組織だ。その為にも、もっともっと悪いことを重ねて見せなければ、その目的達成に役立たないのだ。

 美沙子の悪の戦闘員であることを告白することまでは、予定通りであったが、まさか悪を行う所までを見せるつもりはなかったからである。

「僕は、なんてことを」

 健太は後悔していた。

 そこに足音と声がした。

 健太が顔を上げると、そこには美沙子が居た。

 思わず目をそらす健太に、美沙子は微笑んで言った。

 その声は優しくて暖かかった。

「健太が正直に言ってくれたのに、信じなくてごめんなさい。あまりにも突拍子もない話だったから、冗談だと思っていたの」

 健太は戸惑った。

 そんな様子の健太を美沙子はじっと見詰めて言った。

 その表情に怯えもなければ迷いもない、ただ真っ直ぐな瞳だった。

 その吸い込まれそうな瞳に健太は一瞬気を失いそうになるが、すぐに意識を戻すと毅然さを装い答えた。

「僕の方こそ、ごめん。驚かせるつもりじゃなかった」

 健太は言葉を選ぶようにしどろもどろに言う。その表情は少し赤いように思えた。

 美沙子はそんな健太が愛おしくなり、自然と笑みが浮かぶのを感じた。

「健太の言う事を全部理解できている訳じゃないけど。政府に意見するというのは一理あると思う。政府の言う事、やる事を全部首を縦にして大人しく従っている日本人は、問題だと思うわ。社会の理不尽や矛盾点に対し、正面から取り組んで社会を変えたい。健太は、そう考えているだと思う」

 美沙子の本心だった。

「……政府に楯突くことは悪だよ。僕は、望んで悪に堕ちたんだ。だから美沙子を巻き込むことはできないよ」

 健太はベンチを立つと、その場を、美沙子から離れることを決めた。

 だが美沙子は健太の腕を掴み、立ち去ろうとするのを引き留める。

 美沙子の顔は微笑んでいた。

 それは健太が初めて見るような微笑みだった。心の底から湧き起こる感情を体現しているような柔らかい笑顔。その笑顔に引き寄せられるように、健太は美沙子の方を振り向いた。

 すると美沙子は悪戯っぽく言うのだ。彼女の声は楽しげで明るいものだった。その表情はまるで子供が秘密を共有しているような表情だ。

 そんな姿に呆然とする健太に、美沙子は言った。

 それは健太が求めて止まなかった言葉でもあった。

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