黒いバター R
シバゼミ
【死】第1話 青い目の赤ちゃん
真夏の夕日が差し込む新聞社。汗だく馬場が事務所へ戻る。
「あ~~~、ただいまです」
「ヨッ、おつかれさん! それでスクープは見つけてきた?」
ねぎらう宮武。彼は背もたれのあるイスに座り、伸びたつめを切っていた。
1947階の古びた事務所。
エレベーターもなく、手すりもないせまい階段。階下には黒い生ゴミの山。はち切れそうなビニール袋からは生肉が放置された腐敗臭。いつも、肥え太ったカラスがついばんでいた。
社員は三人。記者の馬場ブンコウと、経理&リポーターで紅一点の高橋おでん、編集長に宮武ガイコツだ。
怪しいゴシップ記事を集めた『不死新聞』。地方の、いつ潰れてもおかしくない新聞社であった。
すでにくたくたの馬場である。履きつぶした靴に、ゆるんだネクタイ。汗の染み込んだシャツのままイスに体をあずける。天井を見上げると、思わずため息がもれていた。
「ふぅ~、スクープも何もゼロですよ。もらったのはこの肉片だけ」
馬場の肩には紫色に染まった血のかたまりだ。
それを見て、宮武は疑う。
「オイオイッ! おまえの食べ残しと違うか?」
「いいえ、違いますよ。これは赤ちゃんのへその緒です。電車の棚から落ちてきました」
そう言って馬場は顔をしかめた。
よく見るとドロドロのへその緒だ。白いワイシャツへ染み込み、悪臭まで放っていた。
「へその緒だって? だったら、おまえの隠し子か?」
「隠す? どこにそんなヒマがあるんですか!
今日の電車ですよ。座っていたとき、上の荷物の棚から落ちてきました。きっと産み逃げでしょう」
平然と答える。
宮武は少し考えて、急にまじめな顔をした。
「赤ちゃんの電車放置か。そうなると……、進駐軍との混血か?」
「ええ、……おそらくは」
目頭を押さえる宮武。馬場の足取りも重かった。
それは馬場が事務所へ戻る前。電車内のことである。
ガタガタとゆれる電車の窓。天井の扇風機は動かない。代わりにたくさんのハエが縦横に飛び交う。どうやら獲物を前に群がっていたようだ。
彼らは人間の空っぽな心が大好きだ。白くにごった、片目の老人。腕が象のようにはれあがった元兵隊さん。へたり込み、うわごとのように教育勅語をしゃべっている元校長殿。小便が床に広がっていた。
今日もたくさんの乗客だ。だが、誰一人、そんな彼らを気にかける者はいない。それは嫌悪でも邪険でもなく、無視という冷めた姿だ。
そこで馬場が見上げた先に、目が合った。
青い目の赤ちゃん。
上の、
今朝、産み落とされた後だったのかもしれない。ほほが網に食い込み、やわらかだった数時間前を思い起こさせる。
その肌は黒? 黒かったか? 短い、ちぢれ毛でもあった。
ただ、乳房を吸いたかったその
目は、目は、閉じていたと思う。だが、永遠に青い目で物欲しそうに下界を見下ろしていたのだ。
目が合ってしまってはどうしようもない。つぶやく馬場であった。
「ああ、そんな目で見つめないでくれよ。でも君が晴れて生きながらえたとしても、この世界では差別という無限地獄が待っているから。
いくら成長しても目の色は変えられないからな。その色は混血だな? 進駐軍との私生児だろ?」
未だ蒸し暑い車内である。誰も見向きもしない。つり革だけが上下にゆれる、救わない命だろう。
でも、生き抜いたら最後。産み逃げた母親と同様、残忍な差別がもれなく待っている。
もちろん、かげ口ではない。白い目で指を差され、石を投げられ、飯に泥を混ぜられ、『
ああ、君は聞くだろう。
なぜ、差別するの?
なぜ、外見だけで罪を背負うの?
ただし、誰も答えてくれない。だから、石をおにぎりだと思うんだ。泥を黒いバターだと思うんだ。感情を空っぽにできれば、痛みも感じなくなる。考えずにすむようになる。
戦後の間もない時期だった。捨てられた赤ちゃん。最後にママと。
そのママは生きるため、明日のために、進駐軍にその身を売った。わずかなお金と引き換えに、魂を削る。いや、それすらもきれい事!
GIVE ME! と叫んだことは一度もなかった。
無理矢理にでも抵抗できない。負けた国。不幸をばらまいた国。
反省!謝罪!反省!謝罪! あろうことか人権を説いていた国は声高にさえずる。
「戦争を受け入れた、全国民がその責任を負え!」
彼らは血を浄化すると毎晩、毎夜、犯しにきた。そして笑いながら精液にまみれた体に小銭をばらまく。
それが GIVE ME! という言葉の正体。
ああ、今日も暗い夜。イエロー・モンキーは、家畜以下だという。ずるがしこく、モノマネが得意な類人猿だと。そう、負けたあの日から、全国民はおねだりする害獣へと突き落とされてしまった。
それでも差別は、差別を生む。なんと同じ日本人なのに、となりで住んでいたはずなのに! 進駐軍を相手にした女性は娼婦『パンパン』(インドネシア語)だと、つばを吐かれた。
そして宿った無数の知らない赤ちゃんたち。
進駐軍はそんな乱暴なんて一切ないと語った。もしくは同意の上と語った。日本政府もそれは合意の上だと黙認した。
馬場には行かなくなった場所がある。それは明け方の神社だ。最近はよく、赤ちゃんが捨てられている。
親の涙か、子の涙か、そのほほはしっとりと濡れる。そう、神社の裏手ではぶらぶら揺れる輪になった縄と、その下に重力を失った女性の体が落ちていた。
戦後復興? そんな生やさしい言葉ではなかった。
事務所の前にはたびたび生ゴミが置かれている。それでもカラスが一回、中をついばんでくれるから安心だ。
ただし、町はずれのドブの中。野良犬が鼻をならす側溝には近寄らないほうがいい。なぜなら、ホルマリン漬けされた赤ちゃんの遺体、あれと同じだ。ヘドロと一緒にたまっているんだよ。
だから、もう驚くことはなくなったよ。川にも行きたくない。ドブの中に、人になろうとしたかたまりが流れ着く。
それでも、……生きたかったんだね。みんな、さびしい目をしていた。
馬場は思い出したかのように手をたたく。
「そうそう、この近くの山で地図にはのっていない地区があるんですよ。どうやらそこ入ったら生きて出られないなんてウワサもあるんですって。
どうです? 取材へ行ってもいいですか?」
宮武は鼻で笑う。
「やめろ、やめろ! 空振りだったら、どうするんだよ! 行くなら自費で行ってくれ!」
ふくれる馬場だ。
「それなら、社員旅行で行きましょうよ。避暑ですよ、避暑!」
「ハア? うちは元より貧乏新聞社だぞ! そんな金がどこにあるんだよ!
それより、馬場! そのシャツを洗っておけって。臭いがつくぞ」
馬場は首を振りながら姿を消した。
もちろん明日にはきれいさっぱりになくなっているだろう。未来のため、将来のため、差別なんてなかったんだよと。
誰にも相談できず、心と体に傷を負って消えていった命たち。戸籍にも歴史のページにも残らない。
英語は世界の共通語。
HEY、JAPANESE!
空っぽの心に、正義のつばが垂れていた。
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