雪灯り

津多 時ロウ

……

 音の無い真白ましろな世界を、ぎゅっ、ぎゅっ、と自分だけに聞こえるリズムで歩いていた。

 最後に新雪を踏みしめたのはいつだったろうか。

 少なくともあのとき以来だった。

 そう、あの日、私は確かに見たのだ。

 猛烈な吹雪の中で爛々と、けれど優しく燃える灯火を。


 *  *  *


「先生、ねえ、先生ったら。そうですよ、そこのあなたです。トンビコートに山高帽だなんて、いかにも先生じゃありませんか。何よりもひげを蓄えたお顔がいい。ちょいと隣いいですかい?」

 宿泊した木賃宿の囲炉裏端で出立の準備をしていた早朝、同じ宿泊者であろう男に声を掛けられた。

 一見するに、みすぼらしい筒袖の身なりの男は、しかし、よく見ればこの頃書生に流行りのスタンドカラーシャツを中に着こんでいるし、傍らの背負子から覗いている羽織には光沢がある。

 或いは行商人やも知れぬと頭に浮かべながら、なんともちぐはぐなこの男に「何用か」と返せば、「話し相手が欲しかったんでさ」などと、臆面もなく言う。

「ときに先生。これから先生がどこに向かわれるのか、ここは一つ、あっしが当ててご覧にいれましょう」

 空はまだ明るくない。この茶番に付き合うのも一興かと、意味ありげに両手を組み合わせて唸る男を見ていると、当の男は「この先にある谷間の集落に行くんでございましょう」などと、したり顔で宣言した。

 何も知らなければ、よくぞ当てたものだと感心するところだが、この木賃宿がある道からして、私の診療所がある町と男の言う谷間の集落を結ぶ用しかないのだ。そうなれば、あとは二分の一の確率に賭けるだけである。

 まったく調子の良い事だと、別の意味で感心しているところへ、宿の主が囲炉裏端に座り「お前さん方、あっちへ行くなら日を改めた方がいい。この先の橋が壊れて新しい道を行くことができなくなっている。そうなると古い峠道を行くしかないんだが、今日のこの空模様では吹雪になるかもしれん」と神妙な顔つきで言う。

 さて、どうしたものかと一瞬の思案をしたところで、向こうの集落で患者が待っているのだからと私の予定が変わることもなく、そして行商人風の男は「向こうにうまい儲け話があるんで、どうしても行かなければ、あっしの気持ちが収まらないんでさ」などと、諦めることを良しとしなかった。

 宿の主が困ったような顔をして、だけど何も言わずに立ち去ったところで、私は木戸を開けて道に出た。

 見上げれば、天は昏く、すでに小さな雪が舞い始めているではないか。

「いやあ、これは早くいかなければなりませんね。先生、あっしはこう見えても足の速さには自信がありまして、ここは一つ、どちらが先に集落に着くか競争といきませんか?」

「いや……」

「じゃあ、よーいのドン」

 承諾するとも言っていないのに、背負子に荷物を満載した男は、私の返事を最後まで聞くこともなく、すたすたと先に行ってしまった。

 私の方はと言えば、知らぬ道を早足で歩くことの危険性を承知しているから、特に峠道ともなれば、いつも通りに歩くだけであった。


 その古い峠道は、所々修繕されていない箇所が見てとれるが、大きく崩れているわけでもない。道の両脇に鬱蒼とした杉の林があることから、普段は木こりが使っていて、最低限の補修はされているのだろう。

 それにしても人がいない。人っ子一人いない。誰一人としてすれ違わないし、薄っすらと積もった雪に残る足跡は、狐か狸のものを除けば一人分だけである。

 そうして雪の泥濘の中を一人静かに歩き続けると、やがて一軒の家屋が見えてきた。麓の木賃宿よりも頑健な造りのそれは、屋敷と言っても差し支えない。

 すっかり冷えた体を思い出した私は、これは良いと背の低い生け垣から庭に入るも、どうもこの家は様子がおかしい。いや、一見すると何でもない家なのだが、どこか違和感がある。違和感の正体はなんであるのかと、よく観察してみれば、庭に石屋で見るような、石工があれこれ削る前の石柱が、いくつも建ち並んでいることに気が付いた。

 けれど、ぶるっと身震いをすれば、それはもうどうでも良いことになっていた。こんな人里離れたところだ。卒塔婆のようにして、先祖を弔う風習でもあるやも知れぬと。

 気を取り直した私は、ドンドンと玄関の木戸を強めに叩いて「もし、もし、旅の者ですが、暖を取らせてもらえませんか。もし」と声を張り上げる。


 暫くして木戸がそろりと開くと、この頃にしては珍しく、髷を結った白髪の老爺が顔を覗かせた。

「……どちら様でしょうか」

「私は麓の町で診療所をやっている者なんだがね、谷間の集落に向かっているところでこの雪だ。どうにも体が冷えてしようがないんだ。せめてほんの少しでも暖を借りられればと、こうして訪ねてみたのだよ」

 老爺は私の頭から爪先までじっくりと眺めた後、音が鳴らぬように木戸を閉め、何か話声が聞こえたかと思うと、またそろりと引き戸を開けた。

「……中へ」

 暖かい空気が漏れ出る木戸を抜けると土間があり、すぐ正面に上がり框、そして向かって右奥に囲炉裏がある部屋へと続いている。

「どうぞ」

 物静かな老爺が差し出した盥からは、親切なことに湯気が立ち昇っているではないか。私は思わずありがたいと老爺に呟いて、湯の温度を惜しむようにじっくりと足を拭く。

 そうして上がり込んだ囲炉裏端に待ち構えていたのは、一人の美しい女性だった。

 年の頃は恐らく二十の後半であろう。黒髪を束ねもせずにそのまま流し、小袖の上から搔巻を羽織っているように見えた。薄暗い中、囲炉裏の灯りも使って縫物でもしているのだろうか。

「少しの間だけ、御厄介になります」

 私は囲炉裏に手を突き出しながら、その女性に挨拶をする。すると向こうは「お好きなだけどうぞ」と柔らかく微笑んだ。

 しかし、この家はなんなのだろう。

 不躾ながらぐるりと家の中の様子を探ったが、どうも宿や茶屋などの商売をしている風ではないし、もちろん木こり小屋などでもない。町にあるような、少し程度の良い普通の家屋である。

 だとすれば、この家の主人はどこか離れたところにでも働きに出ているのだろうか。

「もし、ご主人はどこかに働きに出ているのですか。御在宅であれば暖のお礼を申し上げたいのですが」

 私が問うと、女性はまたこちらを見て微笑んだ。

「主人はおりませんの」

「では、御帰宅されましたら――」

「主人はおりませんの。もう何年も前に亡くなってしまったわ。……今は主人の思い出に浸りながら、下男と二人でひっそりと暮らしているのよ」

 そういう女性は懐かしむように搔巻を撫でた。視線を外して目を伏せた女は、薄暗い中にあって囲炉裏の炎に照らされ、それはいっそう儚げで、どこかこの世のものとは思えないほど美しかった。

「それは……大変でしたね」

 それからは静寂があった。

 木炭が爆ぜる音ばかりが聞こえる。

 女が髪をかき上げ、木炭を火箸で動かす様子を何とはなしに眺める。

 ときおり覗く彼女の白い肌が、その柔らかさが仄暗い空間の中で一際艶めかしく見え、私の心をざわめかせる。

 無限とも思える時間。


 ――柱時計が鳴いた気がして、私は懐中時計の蓋を開けた。

「ところで、谷間の集落に行きたいのですが、どの道を行けばよいでしょうか」

「それでしたら、このまま真っ直ぐ行けばいずれは着くでしょう」

「私はそろそろ出なくちゃあなりません。この礼はいつか必ず」

「どのような御用事があるのか全く想像もできませんが、この空模様の中を行くのはおよしなさい」

「けれど、行かねばならないのです」

「どうしても、今日行かねばならないのですか」

「どうしても、今日行かねばならぬのです」

「でしたら――」

 女は傍らの箪笥から小さな革袋を取り出すと、囲炉裏の灰の中を火箸で探って、小さな石を二つ、それに放り込んだ。

「この雪の中を行くというのであれば、これをお守り代わりにお持ちになって下さいな。どうにも進退が窮まったときに火打石のように打ち鳴らせば、きっとあなた様の助けになることでしょう」

「お心遣い頂きありがとうございます」

 そうして名残惜しい気持ちを払い除けて、いよいよ雪の降る中を進もうとしたとき、あることを思い出した。

「私が来る前、荷物を沢山背負った男がこちらへ見えませんでしたか」

「ええ、確かにそのような男性も見えましたね」

「その男はどうしましたか」

「さあ、どうしたのかしらねえ」


 懐中時計は午後一時を指している。

 暖を取っている間にも雪が降り止むことはなく、先へ進む下り坂の道は、もうすっかり白くなっていた。

 懐に入れた石の温もりを感じながら、それでも杉林の間を歩く。

 その間にも雪はどんどん勢いを増していく。

 そこに生き物の音はなく、ただ自分だけが音であるかのようだった。

 ただ黙々と歩むうちに、やがて下り坂は終わり、道の目印としていた杉林もなくなっていた。

 峠ではあれほど大人しかった風も、びょうびょうと吹き荒れ、降る雪も積もった雪もなくまき散らす。

 あの家でため込んだ体温も、今はどれほど残っているだろうか。すでに感覚も分からぬこの身であった。

 それでも、谷間の集落で待っている患者のためにも進まねばならぬと、一歩ずつ着実に歩みを進める。

 だが、いよいよ風雪は人の力の及ばぬほど強くなり、私の視界を真っ白に遮った。

 足を踏み出しても、前に進んでいるのかどうかすら定かではない。

 手足の感覚はなくなり、己が存在しているのかも分からなくなった。


 そのとき、懐の石がとても温かく感じられ、その存在を思い出した。

 震える手で、革袋からなんとか石を取り出して、藁にもすがる思いで、カチ、カチと二回打ち鳴らした。

 するとどうだろう。

 手の中の石がいっそう温かくなったと思えば、一面真っ白な視界の先に、いくつもの光が見えたのだ。

 爛々と輝くそれは、けれど優しく燃え、あれこそが私の進むべき方向だと予感した。

 追えども追えども近づかない灯火は、正しく私の希望の光だった。


 *  *  *


「いやあ、先生、こんな吹雪の中、大変だったでしょう」

「いえ。それよりも応急処置に間に合って重畳でした」

 ――あの後、私は無事に谷間の集落に辿り着くことができた。いったいどれほど吹雪の中を彷徨ったのか定かでないが、確かに私は生きていて、囲炉裏のありがたみを実感しているところだ。

「峠の屋敷で石を頂きまして、それがなければ今頃私は雪に埋もれていたことでしょう」

「ほぉ、峠の」

「ご存知ですか」

「ええ、知っておりますとも。嫁いできてすぐに旦那さんが亡くなってしまったっていう、可哀想な未亡人が住んでおりましてね、なにせあの美貌なものですから、嫁に来てくれという男が後を絶たない。ところが女は頑として首を縦に振らない。そうすると、中には力尽くで連れてきてしまおうという輩も出てくるんですが、そういう奴に限って、とんと行方知れずになってしまうんです。そんなのが何人も続いたところで、女と年老いた下男に何かできるわけもないと思っていたんですが」

「用心棒でも雇っていたのかな」

「いやいや、そういうことじゃあありません」

「では、どういうことだというんですか」

「いえね。おかしなことに行方知れずの輩が出た後しばらくすると、決まって下男が石屋を呼びつけて、石柱を売っているんです。それもここいらでは取れないそれは見事なものを。……それでですね、ここからは噂なんですけどね。どうもその石柱を触ると、とても温かいらしいんですよ。まるで人肌みたいに」



『雪灯り』 ― 完 ―

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