雪灯り
津多 時ロウ
……
音の無い
最後に新雪を踏みしめたのはいつだったろうか。
少なくともあのとき以来だった。
そう、あの日、私は確かに見たのだ。
猛烈な吹雪の中で
* * *
「先生、ねえ、先生ったら。そうですよ、そこのあなたです。トンビコートに
宿泊した
一見するに、みすぼらしい
或いは行商人やも知れぬと頭に浮かべながら、なんともちぐはぐなこの男に「何用か」と返せば、「話し相手が欲しかったんでさ」などと、臆面もなく言う。
「ときに先生。これから先生がどこに向かわれるのか、ここは一つ、あっしが当ててご覧にいれましょう」
空はまだ明るくない。この茶番に付き合うのも一興かと、意味ありげに両手を組み合わせて唸る男を見ていると、当の男は「この先にある
何も知らなければ、よくぞ当てたものだと感心するところだが、この
まったく調子の良い事だと、別の意味で感心しているところへ、宿の主が
さて、どうしたものかと一瞬の思案をしたところで、向こうの集落で患者が待っているのだからと私の予定が変わることもなく、そして行商人風の男は「向こうにうまい儲け話があるんで、どうしても行かなければ、あっしの気持ちが収まらないんでさ」などと、諦めることを良しとしなかった。
宿の主が困ったような顔をして、だけど何も言わずに立ち去ったところで、私は木戸を開けて道に出た。
見上げれば、天は
「いやあ、これは早くいかなければなりませんね。先生、あっしはこう見えても足の速さには自信がありまして、ここは一つ、どちらが先に集落に着くか競争といきませんか?」
「いや……」
「じゃあ、よーいのドン」
承諾するとも言っていないのに、
私の方はと言えば、知らぬ道を早足で歩くことの危険性を承知しているから、特に峠道ともなれば、いつも通りに歩くだけであった。
その古い峠道は、所々修繕されていない箇所が見てとれるが、大きく崩れているわけでもない。道の両脇に
それにしても人がいない。人っ子一人いない。誰一人としてすれ違わないし、薄っすらと積もった雪に残る足跡は、狐か狸のものを除けば一人分だけである。
そうして雪の
すっかり冷えた体を思い出した私は、これは良いと背の低い
けれど、ぶるっと身震いをすれば、それはもうどうでも良いことになっていた。こんな人里離れたところだ。
気を取り直した私は、ドンドンと玄関の木戸を強めに叩いて「もし、もし、旅の者ですが、暖を取らせてもらえませんか。もし」と声を張り上げる。
暫くして木戸がそろりと開くと、この
「……どちら様でしょうか」
「私は
「……中へ」
暖かい空気が漏れ出る木戸を抜けると土間があり、すぐ正面に上がり
「どうぞ」
物静かな
そうして上がり込んだ
年の頃は恐らく二十の後半であろう。黒髪を束ねもせずにそのまま流し、小袖の上から
「少しの間だけ、御厄介になります」
私は囲炉裏に手を突き出しながら、その女性に挨拶をする。すると向こうは「お好きなだけどうぞ」と柔らかく微笑んだ。
しかし、この家はなんなのだろう。
だとすれば、この家の主人はどこか離れたところにでも働きに出ているのだろうか。
「もし、ご主人はどこかに働きに出ているのですか。御在宅であれば暖のお礼を申し上げたいのですが」
私が問うと、女性はまたこちらを見て微笑んだ。
「主人はおりませんの」
「では、御帰宅されましたら――」
「主人はおりませんの。もう何年も前に亡くなってしまったわ。……今は主人の思い出に浸りながら、下男と二人でひっそりと暮らしているのよ」
そういう女性は懐かしむように
「それは……大変でしたね」
それからは静寂があった。
木炭が爆ぜる音ばかりが聞こえる。
女が髪をかき上げ、木炭を
ときおり覗く彼女の白い肌が、その柔らかさが仄暗い空間の中で一際
無限とも思える時間。
――柱時計が鳴いた気がして、私は懐中時計の蓋を開けた。
「ところで、
「それでしたら、このまま真っ直ぐ行けばいずれは着くでしょう」
「私はそろそろ出なくちゃあなりません。この礼はいつか必ず」
「どのような御用事があるのか全く想像もできませんが、この空模様の中を行くのはおよしなさい」
「けれど、行かねばならないのです」
「どうしても、今日行かねばならないのですか」
「どうしても、今日行かねばならぬのです」
「でしたら――」
女は傍らの
「この雪の中を行くというのであれば、これをお守り代わりにお持ちになって下さいな。どうにも進退が
「お心遣い頂きありがとうございます」
そうして名残惜しい気持ちを払い
「私が来る前、荷物を沢山背負った男がこちらへ見えませんでしたか」
「ええ、確かにそのような男性も見えましたね」
「その男はどうしましたか」
「さあ、どうしたのかしらねえ」
懐中時計は午後一時を指している。
暖を取っている間にも雪が降り止むことはなく、先へ進む下り坂の道は、もうすっかり白くなっていた。
懐に入れた石の温もりを感じながら、それでも杉林の間を歩く。
その間にも雪はどんどん勢いを増していく。
そこに生き物の音はなく、ただ自分だけが音であるかのようだった。
ただ黙々と歩むうちに、やがて下り坂は終わり、道の目印としていた杉林もなくなっていた。
峠ではあれほど大人しかった風も、びょうびょうと吹き荒れ、降る雪も積もった雪もなくまき散らす。
あの家でため込んだ体温も、今はどれほど残っているだろうか。すでに感覚も分からぬこの身であった。
それでも、
だが、いよいよ
足を踏み出しても、前に進んでいるのかどうかすら定かではない。
手足の感覚はなくなり、己が存在しているのかも分からなくなった。
そのとき、懐の石がとても温かく感じられ、その存在を思い出した。
震える手で、革袋からなんとか石を取り出して、
するとどうだろう。
手の中の石がいっそう温かくなったと思えば、一面真っ白な視界の先に、いくつもの光が見えたのだ。
追えども追えども近づかない灯火は、正しく私の希望の光だった。
* * *
「いやあ、先生、こんな吹雪の中、大変だったでしょう」
「いえ。それよりも応急処置に間に合って
――あの後、私は無事に谷間の集落に辿り着くことができた。いったいどれほど吹雪の中を
「峠の屋敷で石を頂きまして、それがなければ今頃私は雪に埋もれていたことでしょう」
「ほぉ、峠の」
「ご存知ですか」
「ええ、知っておりますとも。嫁いできてすぐに旦那さんが亡くなってしまったっていう、可哀想な未亡人が住んでおりましてね、なにせあの美貌なものですから、嫁に来てくれという男が後を絶たない。ところが女は
「用心棒でも雇っていたのかな」
「いやいや、そういうことじゃあありません」
「では、どういうことだというんですか」
「いえね。おかしなことに行方知れずの輩が出た後しばらくすると、決まって下男が石屋を呼びつけて、石柱を売っているんです。それもここいらでは取れないそれは見事なものを。……それでですね、ここからは噂なんですけどね。どうもその石柱を触ると、とても温かいらしいんですよ。まるで人肌みたいに」
『雪灯り』 ― 完 ―
雪灯り 津多 時ロウ @tsuda_jiro
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