泡沫ノ梦

閏月

泡沫ノ梦

かぁんと、頭の中で響く鐘の音が、煩わしくて、厭わしくて。

夕焼けに染まる病室の中、私は性懲りもなくいつもと同じ問いを彼に投げかける。

「ねえアリス。私のことを、愛してる?」

さあぁっと窓から風が吹いて、柔らかい金髪がカーテンと一緒に揺れた。

「もちろん。愛してるよ、リリ」

深く澄んだ碧い瞳が、まるで夢見心地のように揺蕩んでいて。

あぁ、その答えが何も変わらないことくらい、私は知っているのに。


***


✕✕✕病院E棟3階302号室に彼はいる。”アリス”と名乗るその少年に会うために、私は毎日302号室を訪れている。アリスは私と同じくらいの背丈で、たぶん同い年。15か16。いかにも外国人だというような容姿をしているのによどみなく日本語を話す。

彼は綺麗だ。かっこいい、じゃなくて美しい。女である自分よりもずっと。きめ細かく真っ白い肌に、硝子細工よりも繊細な顔立ち。長く色素の薄い睫毛に縁取られたその瞳には海と空がぎゅっと閉じ込められていて、柔らかな金髪は陽の光を受けてきらきらと輝く。このまま空気に溶けて消えてしまいそう。

今日も私は、色がない病室で、するりするりと林檎をむいていた。アリスは嬉しそうに目を輝かせる。彼は林檎が好きだから。一口サイズに切った林檎にフォークをさすと、彼は口をひらいてつきだす。まるで餌をねだる雛鳥だな、と思った。そのまま林檎をアリスの口にいれてやると、本当に嬉しそうに笑った。幼い子供のような表情。夕暮れの中、ベッドに横たわりながら微笑む彼は、天使か妖精みたいだった。一枚の絵画を見ているよう。

(醜かったら良かったのになぁ)

ああ全く嫌になってしまう。ここは果てしなく現実味がない。ずっと夢の中にいるみたい。いや、実際アリスは夢を見ているんだろう。いままでずっと。お伽噺みたいな、おかしくて幸せな夢。せめて、神様が都合よく誂えたような完璧なその容姿の均衡が、なにかひとつでも崩れたらいいのに。そしたらきっと彼は夢から醒められる。幻のようなこの空間も、ただの病室へと戻る。なにかひとつ欠けさえすれば。壊れてしまえば。けれど私はアリスに目覚めてほしいのだろうか。醒めてしまえば、こんな日々もすべて終わってしまうのに?わからない。ずっとわからないままだった。アリスに初めて会った時から。まだ、私は言えないのだ。

「今日も来てくれてありがとう、リリ」

ぎゅっと手を握られて、滑らかな肌の感触がした。かぁんからぁん。頭に響く鐘の音がうるさかった。心から嬉しいみたいに笑わないで。私はリリじゃない。何度も喉からはみ出そうだった言葉が今日も浮かんだ。言ってしまおうか。きっと楽になれる。全部終わるけど。握る手の強さが少し強くなった。温かくも冷たくもない不思議なアリスの体温が、私をとどまらせる。この感触を放したくないと思ってしまう。たとえどんなに無意味でも。今だけ鐘がここで本当に鳴ったらいい。そう思った。そうしたら、抱えているもの全て吐き出せる。彼には知られずに。


***


アリスと初めて会ったのは、太陽がかんかんと照りつけるある夏の日のことだった。私は母のつきそいで教会に来ていて、確か、そう、日曜日だった。よく晴れていた。鬱陶しいくらいに。牧師のお話はいつも暇だから、私はその日も教会には入らず、裏手に回った。教会の裏手は、墓地だった。整然と白く古びた十字架と墓石が並んでいるその場所が、私は好きだった。静かで、木漏れ日と小さな生き物の音しかしないから。教会に来るたび、此処でよく眠った。その場所で、少年が倒れていた。そのときちょうど教会の鐘が鳴ったのを、よく覚えている。からぁんからぁん。時間が止まったみたいだった。彼は眠っているようにみえたけれど、たぶん、気絶していたんだろう。最初は死体かと思った。あるいは幽霊かと。そのくらい白くて、動いてなくて、生き物だとは思えなかった。彫刻だと言われたら、思わず頷いてしまうくらいに。頬にふれたら、びっくりするほど冷たかった。外はこんなに暑いのに。命が、溢れていっているように思えた。ぞっとして、気づいたら彼の顔を両手で覆っていた。少しでも温まるように。

「___ん、」

彼は呻いて、瞼をゆっくりと開いた。そして私を目に映すと、驚いたように見開いた。幻でも見ているみたいに。

「・・・リリ?」

頼りなくて、か細い声だった。けれどその時の少年の全てが込められているように聞こえた。信じられないような幸福が、目の前に突然やってきて、これは現実なのかと疑っているような。それでいて、嘘であることを恐れているような。リリじゃない、私はリリなんて名前じゃないと、伝えることは簡単だった。けれど虫の息だったアリスに、それを言うことは気が進まなかった。言ってしまえば消えてしまいそうな気がしたのだ。なんとなく。彼は少し嬉しげに微笑んでまた目を閉じた。笑っているのに、泣いているように見えた。諦めたようにも。私は急いで大人を呼んで、彼を助けてもらった。少年は救急車で病院に連れて行かれた。彼がいなくなって周囲の喧騒もおさまったら、なんだか夢みたいに思えた。此処でおきたこと全てが。幽霊でも見ていた気分。あるいは幻。ただ、てのひらに残っているあの異常なほど冷たい感触が現実だと示していた。太陽がわらっていた。汗が額を滑り落ちる。こんなに熱くて眩しいのに。____あの子は、どうしてあんなに凍えていたのだろう。


***


「あ」

「えっ」

どうやらあの出来事は夢でも何でもないらしいと、病院の待合室で気づいた。目の前にはあのときの男の子。祖母の見舞いに来ただけだったのに、まさかここに入院していたとは。世界は案外狭い。白い病院服を着ていた彼は、何故か私よりも驚いていた。目を見開いてキョトンとしている。なんかかわいい。ふふっと思わず笑ってしまった。そして尋ねる。あのとき聞けなかったこと。

「___ねえ、貴方の名前は?」


それが、私とアリスの出会いだった。

それから私は、アリスのもとに通い続けている。


***


アリスはいつも病院にいる。退院させたくても、保護者がわからないのだと、困ったようにお医者様が言っていた。今は私の親が仮の身元引受人になっているらしい。



いつもどおりの日のことだった。いつもと変わらない。アリスの病室を訪れ、彼と話す。・・・そのはずだった。

ただいつもと違って窓が閉まっていたから、気になってアリスに聞いたのだ。雨の日でもめったに閉めないのに、その日は何故かカーテンまで閉まっていた。聞かれたアリスはああ、と呟いて答えた。まるでなんでもないことのように。

「鳥が死んでいたから」

言葉が詰まった。鳥?死んでいた?

「どこで」

「ベランダで」

窓を閉めていたのだからそれはそうだろう。少し考えれば分かるその答えを、どうしてか理解したくなかった。

「だれかに、言ったりは」

「言う?どうして」

アリスはうっすらと微笑んだ。いつもどおりの顔で。背筋が氷で撫でられたようにぞっとした。どうして?病院で、生き物の死骸を見つけたら普通は大人に伝えないだろうか。アリスは本当に、なんとも思っていないのだ。鳥の死骸が、すぐそばにあることを。動物の死骸に遭遇しただけ。きっと誰しも人生で一度は経験する。無視する人だっているだろう。私が自意識過剰なだけかもしれない。けれどアリスの先程の笑みは、あまりに普段どおりで鳥肌がたった。その時気づいたのだ。アリスの浮かべる笑顔が、瞳がいつも寸分も違わないことを。

「どうしたの?大丈夫、リリ?」

アリスが私の顔を覗き込む。心配そうに。鳥の死骸をどうでもよさそうに話した声色で、私をリリと呼ぶ。私の名前はリリじゃないのに。頭がクラクラした。どうして自分がここにいるのか、途端に分からなくなった。どうして私はここへ通うの。どうして無意味と分かっていて、同じ問いを何度も繰り返すの。彼が愛しているのは私じゃない。初めて見た時、幽霊だと思った。次に会った時、空気に溶け去ってしまいそうで怖かった。ここにいるのに、いないみたいな。同じ人間じゃないみたいだった。それがたまらなく嫌だった。だからここに来ているの?わからない。初めて会ったときから、私がアリスに名乗ったことはない。彼が私をリリと呼ぶから。もちろん私はリリじゃない。けれどアリスは私のことをリリだと信じているのだ。彼が愛している少女だと。アリスはずっと夢を見てる。お医者様は、頭を強く打って記憶が混濁しているのかもしれないと言っていた。そんなに容姿が似ているのかは分からない。私が”リリ”を知らないから。彼にリリと呼ばれるたびに、その優しい綿あめみたいな声色が嬉しくて、幸せで、でも同じくらい胸を掻きむしりたいほど悲しくてたまらなかった。

「・・・リリ?」

ほら、アリスはおんなじことしか見えていない。どうでもいいの?アリス。死んだ鳥も私のことも今の貴方さえも。”リリ”に比べればどうでもいいことなの。そんなのっておかしい。

「泣かないで」

いつのまに泣いていたのか、頬を伝いおちる雫をアリスは優しく拭った。心配そうにこちらをみつめる瞳。わかってる。彼は優しいのだ、いつだって。その優しさが私を狂わせる。手放したくないと思わせてしまう。彼の優しさが向けられているのは、結局のところ私じゃないのに。

「・・・ごめんなさい」

嫌なら伝えればいい。私はリリじゃないと。けれど伝えてしまえば、アリスはなんて言うのだろう。怒る?それとも酷く悲しむだろうか。伝えてしまえば、確実に終わってしまうことだけは分かっている。こんな日々が続いてほしいと願う自分勝手なエゴのために、私は嘘をつき続けているのだ。彼のためでもなんでもなく。きっと酷いのは私の方だ。もうずっと、私はアリスを騙し続けている。


***


すぅすぅと、微かな寝息の音がする。泣き疲れたリリは、ベッドに頭だけをのせ、すっかり寝入っていた。リリの艷やかで羽のような黒髪を、起こさないようにそっとなでる。アリスはリリの寝顔が昔から好きだった。はりつめて大人びてみえる表情が、ふと幼子に戻る数少ない瞬間。もちろん起きてるときも全部好きだけど。リリがどうして泣いたのか、何に悩んでいるのか、アリスは知っていた。リリのことなら何でも分かる。きっとリリ自身よりも。だけど何も言わない。名前を聞いてあげさえしなかった。アリスは自分が全然優しくないことを知っている。そうやってリリの心を傷つけて、自分の傍に縛り付けることを、アリスはなんとも思わない。

(でも、泣かせたいわけじゃなかったのにな)

泣いているリリも綺麗だけど、笑っているリリの方が好きだった。初めて微笑んでくれた時、宝箱にしまいたいと思うくらい嬉しかったことを思い出した。あの景色も、感情もすべて。リリと出会うまで空っぽだったガラクタ箱の中に。ふっと、アリスは目を閉じる。ずきずきと頭痛がして、あの日のことを思い出す。全部を失くしたあの日。これ以上無いほど真っ暗で、神様なんていないように思えた。でもずっと忘れることなどないであろう記憶。世界渡航。パラレルワールド。違う世界なら、会いに行ける。もう二度と会えない人にさえ。______男は聞いた。

『たとえ絶望と苦痛が続くだけの道のりでも。何度期待外れを繰り返しても。それでも歩くのをやめないだけの、そんな理由がお前にあるか』

たいした理由も覚悟もなかった。ただ諦めることができなかっただけだった。諦められる覚悟がなかった。突然のさよなら。冷たい手足。もう光が灯ることのない両目。あんな終わり方を、認められる筈がなかった。

『別の世界に、お前が探している人がいるとは限らない。それに、たとえ見つかったとしても、その人はお前の知っている、お前を知っている人ではない』

そんなのは百も承知だった。ただひとめ会いたかった。名前を呼んでみたかった。もう一度だけでも笑った顔が見たかった。世界を渡る。死んだ人にも会えるなんて、夢みたいな話。それがどれだけおぞましい奇跡でも、幾度となく訪れる失望の果てにある景色でも、アリスは見てみたかった。だから何度も何度も繰り返した。同じことを。馬鹿みたいに探し続けた。たったひとりの少女を。体も心もボロボロになって、最後の力を振り絞ってこの世界に降り立った時、ようやく全部どうでもよくなった。体はちっとも動かなくて、振り仰いだら真っ白な十字架が見えた。どうやらここは教会らしい。笑ってしまった。神様なんて欠片も信じてこなかったのに、こんな上等なところで死ねるだなんて。目を閉じようとした時、信じられない景色が目に写った。

「・・・リリ?」

彼女がいた。真っ白なワンピースを着て、目の前に佇んでいる。姿形も、魂の造形さえもそっくりそのまま彼女だった。とっさに、夢だと思った。自分が死ぬ間際に見る、都合のいい幻想。でも失望なんてしなかった。最後に彼女を夢見て死ねるなんて、神様に感謝してもいいくらいだと思った。そっと彼女が手を伸ばす。温かなてのひらの感触。ずっと求めていた温度だった。ふいに泣いてしまいたくなった。探していたものにようやく出会えた気がした。そうして、幸福に包まれながら意識を手放したのに。次に目覚めたとき、真っ白な病室にキミはいなかった。あぁほら、やっぱり都合のいい幻想だった。分かっていたのに。あのまま死んでしまっていた方が、きっと楽だったのに。


柄にもなく絶望していたボクは、結構バカだったらしい。あれは夢でもなんでもなくまごうことなき現実だったのだと、数日後再びリリに会ってボクは理解した。

・・・神様は、案外奇跡を起こしてくれるものらしい。


それでも、感謝することはできないけれど。あの喪失を知ってしまっているから。だから、キミの名前が”リリ”じゃないのだとしても、ボクは構わない。ねぇリリ、この真っ白な一部屋の幸福が、もう戻らない後悔と痛みで出来ていることを、きっとキミは知らない。


***


「ん、・・・ん?」

がばっと身を起こす。時計の針は、午後6時半を指していた。どうやら眠ってしまっていたらしい。いつのまに。

「おはよう、リリ。よく眠れた?」

優しく微笑みながらアリスは尋ねてきた。申し訳無さと気恥ずかしさが湧き出る。

「う、うん。ごめん、寝ちゃって」

「いいよ、疲れていたんでしょう?何か夢でもみた?」

夢?ああ思い出した。さっきまで、不思議な夢を見ていたんだった。名前も知らない少年と、ふたりで旅する夢。何故か少年の顔はよく見えなくて、でも怖くはなかった。夢の中で、私たちはいろんな所へ旅をした。空が映る湖。小人たちの国。降り注ぐ雪の結晶に、石化した龍の墓場。綺麗な所にたくさん行ったけれど、もちろん醜い場所もあった。血みどろの争い、荒地、命を賭ける賭博場。でもおかしいくらいに、私は旅で何度も目にするのだ。セカイの残酷なまでの美しさを。この目に映る光景に比べれば、人間のしていることなんて本当にちっぽけに思えた。もうひとりの少年と過ごしたのは、楽しかった。喧嘩もしたし、一緒に寝たりもした。つないだてのひらは優しくて、離れがたい感触がした。もうずっと、そうやってふたりで過ごしてきたみたいに。家族みたいだと思った。へんなの。顔も分からないのに。でもふっと、誰かににてるなと思った。誰だったっけ?どうしても思い出せなかった。よく静かに微笑むひと。

 夢の最後、私と彼はある洞窟に来ていた。青黒く輝く洞窟。群青を、もっと夜に近づけたみたいな。ふたりで恐る恐る穴の中を進んで、時々足を滑らせてひやっとしたり、ほっとしたりした。どこに向かっていたんだっけ。目的地が思い出せない。夢の内容はぼんやりとしか覚えていないけど、ひとつだけやけに記憶に残っているものがあった。洞窟の岩壁にはりついていた蔦に、生っていた実。拳大の大きさに、柘榴のような形をしていた。どうしてか青く仄かに光っていた。蛍みたいな淡い灯りだった。とっても綺麗だったけれど、持ち帰ろうという気は起きなかった。あれは、この闇に近い洞窟だからこそ美しくあれる気がした。代わりに、隣の少年に聞いたのだ。あれは、なぁに?

彼はふっと微笑んだ。顔が見えないのに、何故か分かった。それから内緒話でもするように、私の耳元にそっと口を近づけた。

「知りたい?その実はね」

静かに、でも心に沁み入るようなその声を、私は知っている筈なのに。酷く懐かしくて、ずっと聞き馴染んでいて、すべての切なさを持っている声。ふっと微笑んでいるのに、泣いているみたいだと思った。この感覚を私は知っている。泣き方を知らないの。ふいに聴きたくなった。

「それはね、ゆめだよ」

その瞬間、目が醒めたのだ。


淡く微笑むアリスを見て思う。もしかしたら、彼に話せばこの夢の続きが見つかるだろうか。馬鹿みたいな思いつき。

「キミが見た夢が、幸福であるならよかった」

ふと気づいた。あの最後の言葉のとき、一瞬だけ見た彼の瞳。切なげで、揺蕩んでいて、どこか痛そうな目。全部の海と空を閉じこめたみたいな。


彼の瞳は、アリスに似ていた。怖いくらいに。



私にだけ聴こえる教会の鐘の音が、いつまでも鳴り響いていた。


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泡沫ノ梦 閏月 @uruuduki

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