第8話











 全ての糸が千切られると、壺の中で何かが割れる音がした。

 呪具に繋がる糸を半ば強引に退けたせいか、システムの根幹であった呪具が破損したのだ。

 それと同時に地面に張り巡らされていた霊道は光を失い、呪具を中心とした蜘蛛の巣状だったそれらも正常に近い形へと戻りつつある。


 黒い手によって、吊るされていたその身を床へと投げ出されていた男は、呪具に取り込まれた反動からか陽炎のようにその姿を不安定に揺らしている。

 弱弱しく声をあげつつも、落ち窪んだ眼には特定の誰かに向けられた粘つくほどの情念が未だ消えずに燻ぶり続けているのが見えた。


「今のあなたは自由です」


 幽心はそっと彼の前にしゃがみ込み、今にも消えそうなそれに話しかける。

 こちらを話を聞けるかどうかもわからない状態ではあるが、彼が死の直前に想い死してなお求めていたものを思い出させるために、幽心は簡単な言葉を残すことにしたのだ。


「もう、この場に縛られることは無い。……あなたには行かなければならないところがあるのでしょう? 」


『……あ、あぁあぁぁ』


「あなたの魂が、未練なく黄泉の国へと旅立てますように」


 幽心はそれだけ言うと立ち上がり、男に背を向ける。

 いつの間にか、男を地面に縫い留めていた手たちは陰に溶け、キンと凍り付いていた空気もあっという間に夏の暑さに追いやられていた。

 汗ばむほどの熱気が窓枠から入り込み、色褪せたカーテンをはためかす。


 幽心が座ったままの鹿児島に手を差し伸べて起こすと、ふらつく彼に肩を貸しながら部屋を後にした。





 しばらくして、アパート中に悍ましいほどの絶叫が響いたかと思うと、朽ちた廊下に肉が腐ったような臭気を纏う風が一瞬だけ強く吹き抜けていく。

 眼も開けられないほどの強風に、無造作に打ち捨てられていたゴミや埃が舞い上がり、二人の髪が風に巻かれてクシャクシャになった。


「うわぁっっ! なっなんなんだよちくしょうっ! 」


「いたた、痛いですって、そんなに締めないでください」


 鹿児島の精神がついに限界を超えたのか、情けない声をあげながら隣に居た幽心にしがみつく。

 そのあまりの力強さに幽心は苦笑しながら鹿児島の肩を叩くと、周囲に溢れるほど居た霊がどこにも見当たらないのを確認して安心させるような柔らかな笑みを浮かべた。


「もう大丈夫ですよ。お仕事完了です」


 風が通り抜けた後には、建物内にあった異様な雰囲気は綺麗に消えて、湿り気を帯びた熱気と、あるはずのない線香の香りだけが僅かに残っていた。






 ***






「……で、結局あれは何だったんだよ」


「あれとは? 」



 カランッ


 グラスの中の氷が崩れる清涼な音が耳に届く。


 幽心は手元に在るメロンクリームソーダのアイスをスプーンで掬って口へと運んだ。

 舌に乗るまろやかなミルクの甘さと安っぽいメロン風味に、思わずといったように頬が緩むと、途端に無機質にも思える端麗さに淡い色が乗って人らしさが顔を覗かせる。

 大の男にメロンクリームソーダなどと周囲に思われそうではあるが、この場にはそれを口にするものもおらず、居たところで幽心の完成された美貌を見れば、そんな些細なことなどどうでもよくなってしまうだろう。

 大げさなほど鮮やかな緑色をしたソーダに浮かぶアイスを突く幽心を見ながら、鹿児島は未だ混乱した頭をどうにかしようとアイスコーヒーに手を伸ばしてグイと呷った。

 すっきりとした酸味と程よい苦みが喉元を過ぎれば、あの現実味の欠片もない異様な光景から遠ざかり、無事五体満足で建物から出られたのだと実感する。

 先ほどまで感じていた焦燥感も、今この瞬間が間違いなく現実であると確信できると少しずつ治まってきているように感じた。













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