第5話
―――ポタリ
鹿児島の首筋に何かが落ちて、彼は思わずといったように肩を小さく跳ねさせる。
「チッ、冷てぇなぁ……なんだよ……って……」
首筋に手を当てると、水にしてはやけに粘度のある液体に触れた。それと同時に嗅ぎなれない醜悪な生臭さが鼻を突く。熟れすぎて腐り落ちた果実にも似たそれは、鉄錆のような苦さを伴い、まるで腐った血液のような―――。
そんなことが脳裏に過った鹿児島は、その言いようのない不快感にゾワリと肌を泡立たせ、不自然に跳ね上がる心臓の鼓動と共に息遣いも浅くなっていく。
嫌な想像が加速し、次第にその想像が理屈抜きで確信へと変わっていく。純粋な恐怖という感情が先走り、理性を何処かへと置き忘れてしまったような感覚が耳鳴りを呼んだ。
鹿児島は、首を拭った手のひらへと恐る恐る視線を移す。
けれども、そこには何もなかった。
想像していたモノは付着しておらず、ゴツゴツとした手のひらに滲んだ鹿児島自身の汗が、窓から入る日差しによって掌紋をうっすらと光らせているくらいだ。
所詮想像は想像でしかなかったのかと胸を撫で下ろした途端、堰き止められていたかのように汗が噴き出して思わずその場に座り込んで天井を仰ぐ。
「……あ」
何かと、目が合った。
闇よりも暗い
瞬きする
『どうしてだれもたすけてくれなかったあんなによくしてやったのにどうしておれだけなにがわるかったんだだれもいなくなったのはおれのせいじゃないなぜだどうしてうらぎったあいつもあいつもみんなこんなにくるしいくるしいくるしいのはあいつらがあいつらが』
ギイギイと、天井から吊るされたソレは緩やかに揺れる。
首が縄で絞められて不自然に折り曲がりながらも、目の前のソレは泡立った口元から延々と呪詛のような言葉を呟いていた。
当時の現場に居るように錯覚するほど、はっきりと見える。そう、けして見てはいけないものが、確かに目の前に居た。
「は、はは……」
気づけば、鹿児島の口からは意味のない笑いが零れていた。
恐怖という感情を超えると、こうも思考が真っさらに溶けていくような感覚がするのかと他人事のように思う。
ハッハッと浅い呼吸をしながら、まるで脳が目の前の存在を拒否しているかのように視界が明滅していくのがわかると、鹿児島の視界がスッと何かに遮られた。
「これ以上は駄目ですよ。戻れなくなる」
聴き心地の良い弦楽器のような声色。このような場面においてもまったく動揺する様子もなく、先ほどまでとまったく変わらない平坦な声に、恐怖に固まっていた体が少しずつ感覚を取り戻していく。
それは間違いなく幽心の声で、男性にしては華奢な手が鹿児島の視界を覆い、人ならざる者の視線から鹿児島を隠してくれていた。
浅い息を整えられるように優しく鹿児島の肩を叩きながら、吐息がかかるような距離感で大丈夫ですよと囁く。彼から香る華やかなコロンの香りが鹿児島の思考を現実へと引き戻し、乾いてしまいそうなほど見開かれていた目に気づいてギュッと閉じた。
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