赤いキャリーケース 2話最終話

 キャリーケースお姉さんの悪夢を見たこともあって、僕は今日から走るコースを変更した。山道の方がトレーニングにはなるけど、集中できないのだったら同じだと思ってだ。

 平地も平地で信号があったり、狭い道は車が来たら立ち止まらないと危険だったり、集中を削ぐものに溢れているけど、あのお姉さんよりはマシだ。

 頭では何も考えずに走れる道をただひたすら走って行く。

 こんなスッキリした状態で走るのは久しぶりだ。ここ何日は、別のことで頭がいっぱいだったから、海から流れてくる風も気持ちいい。

 

 それから1週間。雨でも断続的に降らない限りは海風を感じれるコースを走っていた。だけど、物足りなさはずっと感じていた。

 流石に1週間も経てば、お姉さんもいなくなっているだろう。3日前には大雨が降ったし、キャリーケースも誰か心優しい人が拾ってくれているに違いない。

 キャリーケースのお姉さんはがいる場所は把握してあるから、もし山道を走っていて、お姉さんがいたら、その場で引き返そう。

 やっぱり走るのなら山道だ。身体への負担が違う。ただでさえ運動量が減ったのだから、これくらいはしないとな。

 キャリーケースのお姉さんがいる場所の50メートル暗い手前で、僕はガードレールに隠れながらカーブを見ていた。

 流石にお姉さんはいなく、ほっとしてまた走り出した。

 1週間もずっと同じ場所にいる人は流石にいないか。

 それは僕がカーブに差し掛かった時だった。走っている僕の腕を背後から誰かが掴んだのだった。慌てて振り返ると、僕の腕を掴んでいたのは、あのキャリーケースを落としたお姉さんだった。

 僕は久しぶりに叫んだ。それも、近くの山に跳ね返ってくるくらいの大きさで。

 

「やめろ! 放せ! 離れろ! やめてくれ! 放してくれ!」

 

 僕の言葉は何1つお姉さんには響いていないようだった。お姉さんは、初めて会った時と同じように困った顔でこう言った。

 

「あの、すみません。実はキャリーケースを落としてしまって、どうにか取ることはできないですか?」

 

「知りません! 自分でどうにかしてください! 放して!」

 

「そうですよね……」

 

「もういいだろ! 放してくれ! 俺はこの先に用があるんだ!」

 

「そうなのですね。ありがとうございます。一度行ってみます」

 

 1回目も2回目もこの一連の流れを終わらした後に解放された。だから、もう解放されるものだと思っていたが、それは僕の考えが甘かった。

 お姉さんはまた困った顔を浮かべた。

 

「あの、すみません。実はキャリーケースを落としてしまって、どうにか取ることはできないですか?」

 

 腕は掴まれたまま、また一連の話が始まった。

 僕がどんなに力を入れて振り払おうとしてもびくともせず、逆に、力を入れるたびに、崖の方に引き寄せられていた。

 

「放せ! 放せ! やめろ!」

 

 このままでは僕は崖から突き落とされるのではないか。そんな恐怖に苛まれていた。

 

「そうですよね……」

 

「放せ! 放せ! やめろ! 放せ!」

 

「そうなのですね。ありがとうございます。一度行ってみます」

 

 崖まではあと、1メートルくらい。もう時間がない。

 

「放せ! やめてくれ! もういいだろ!」

 

 そう言った瞬間、お姉さんの動きは止まった。僅かだが、掴んでいた手を緩めていて、その瞬間に手を振り払って、ようやく掴まれていた手が解放された。

 それからのことはよく覚えていない。ただひたすら山道を登って、気が付いた時には事務所の前まで来ていた。

 公園の管理事務所がある前に、70代くらいのおじいさんが花壇の水やりをしていて、人に会えて安心感から、花壇の前に座り込んでしまった。

 

「大丈夫かい?」

 

 おじいさんに声をかけられる。

 言いたいことはたくさんあった。でも、言葉が出てこなかった。

 そんな僕を見かねたおじいさんは、管理事務所の中に招いてくれた。そこで温かいお茶をご馳走になり、今まであったこと、キャリーケースのことお姉さんのことを全て話した。到底信じられるような話ではなかったけど、おじいさんは否定することなく、僕の話を聞いてくれた。

 話を聞いてくれたおじいさんは、僕の身を案じてか、車を出して家の近くまで送ってくれた。

 

 それからの僕は、山へは一切近づくことはしなかった。怖い。それもあったけど、本能があの山には近づいてはいけないと言っていた。

 

 後日談

 

 キャリーケースのお姉さんに腕を掴まれた日からちょうど2週間が経った2月27日。朝、何気にテレビを見ていると、画面上に見覚えのある顔が映し出されていた。有名人や芸能人の話ではなく、地元の特集番組でもなく、全国区のニュース番組だ。

 映し出された女性は、29歳でメガネをかけていた。そう、あの山道で僕が声をかけた、キャリーケースを落としたお姉さんだった。

 僕は目を疑った。これは夢じゃないのかと。だって、お姉さんは、あの崖下に落ちてあった、真っ赤なキャリーケースの中から手足を縛られた状態の遺体で見つかったというのだから。遺体の腐敗は激しく、しご1ヶ月以上は経っているそうだ。

 僕はお姉さんに初めて会ったのは2月4日。もしも本当に1ヶ月以上あのままだったというのなら、僕が見たあのお姉さんは一体何だったのか。今となっては知りたくもない。

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