拝啓、安倍晴明様。
螽斯
序章
生温い唾を呑み込むと、女は両手で震える肩を抱きしめた。
死が、生物としての根源的な恐怖が、暗闇の深淵から彼女をじっと見つめているかのようだ。そう思うほど、彼女は意思に反して恐怖に強く震える。
狭い押し入れの中で彼女は膝を顔に寄せ、息をひそめていた。わずかに一人がやっと入り込めるその空間。向いには雑に畳まれた布団が置かれ、かすかに異臭を漂わせている。襖は敷居から外れ、無理やり押し入れにもたれかかっていた。その隙間から差し込む微かな光ですら、今の彼女にとっては恐怖の対象だった。
音を慎み、細心の注意を払う。普段なら軽々しく悲鳴を上げていたであろう、隅に転がる虫の死骸など、どうでもよいものだった。
今まで感じたことがないほどの鉄の味が、彼女の口内を支配する。飲み込むと、しばらくすると口の中に液体があふれ出す。口の中を激しく傷つけているのだろう、無意識に唇の端から赤く染まった、唾液とも血とも言えない液体がこぼれ出る。
瞬間、とてつもなく強い光が目の前の隙間から彼女を照らし出した。ミリ秒遅れて激しい雷鳴が轟き、しばらくの間、世界は無音に包まれた。
……どうしよう。
思うように動かない体に鞭打って、隙間から外を見た。
まだ、あの男は見えない。だが、確実に彼の気配が、すぐそこに迫っている。
壁に手を置いたとき、自分の指が数本、あらぬ角度に曲がっていることに気が付いた。ナイフで深く刺された肩と背中からは、とめどなく血があふれている。意識はややぼんやりしているが、痛みはない。底の知れない恐怖に怯えるからだとは対照的に、彼女はやけに冷静だった。
今、外に出たら逃げ切れるだろうか。少し離れた窓から飛び降りれば、追い付かれずに人がいる場所へたどり着けるかもしれない。クラスでは足が速いほうだったから、まくことができるかもしれない。この場にとどまっても、いずれ捕まることは避けられない。
「……よし。」
決断は思いの外、早かった。
押入れの襖を、来た時と同じように静かに開け、彼女はゆっくりと腰を上げて外へ出た。
床板がかすかに軋み、周囲に響く。暗闇に慣れた瞳が、全力で動く物体を探し求める。
少し広めの和室の中心で、彼女は気配を探った。男は今、どこにいる?下の階だろうか、あるいはもうこの家から出てしまったのだろうか。ひょっとすると、この家から出ていったのかも――――――
――――――ギィ。
彼女のものではない明らかな足音が、隣の部屋から聞こえた。
その瞬間、彼女は姿勢を勢いよく走り出す。床のささくれが彼女の足に刺さり、つま先をぶつけ、蜘蛛の巣が彼女の顔にかかる。それでも、当然彼女は勢いを殺さなかった。
目の前にある窓を突き破る姿勢を取り、そのまま全身を強張らせて、体への衝撃に備える。目をつむり、つま先で地面を強く蹴った。
――――――衝撃が、彼女を揺さぶった。
雷に打たれたかのような衝撃。
彼女の想定では、ガラスを突き破ったあとに自由落下して、地面に落ちるはずだった。
だが、右わき腹に強い痛みがあった。勢いよく吹き飛ばされ、頭部と全身を壁に強打する。視界が白く染まったのは、雷のせいか、脳が揺れたからか。
「……だめだよ、……ちゃん」
低く、太い声が、彼女の鼓膜を揺らす。
男は、彼女に飛びつく形で、そばで態勢を崩していた。全身のひどい痛みと恐怖で、少女はこれ以上体を動かすことはできなくかった。
男はゆっくりと立ち上がり、彼女を見下す。暗さでその表情はうかがえなかったが、声色で、楽しんでいるのはわかった。
「いや……」
声にならない声でそう絞り出す。立ち上がろうとしても、足は思うように動かない。
すでに、彼女は死を覚悟した。
「……俺が、守ってあげるよ」
男は、その手に持った黒い何かを少女の頭部に向かって振り下ろす。
鈍い音とともに、男の顔面は返り血にまみれた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます