白い契り

「__馬車の中で、大きなため息を吐いて……流石に酔った、と言ってはいたけれど……」


 乗り込んだ馬車はビルネンベルクの馬車であった。4頭立ての装飾がされた、昼の車と同じもの。


「……覚えていない……」


「宴会はシェンク卿が用意してくれていて、私に失態を犯させるつもりで用意したとわかった。返り討ちにしてやった、とか……」


 シェンク卿とは、リュディガーと同期の龍騎士である。


「そのあたりのことは覚えているが……君に話したことは覚えていない……。宿についたときのことは覚えているが……ぷつり、と記憶がないな、そこで」


 次の記憶__起きたのは、キルシェが揺らして起こしてくれたから。


 そう、初夜を寝過ごして終わったのだ。


 世間でいうところの、白い結婚。


「……また、とは……」


 ひとりごちてつぶやくと、やはりため息が出てしまう。


 また、というのには理由がある。


 半年以上前まで、リュディガーはある任務についていた。その任務の最中に再会したキルシェと、やむにやまれず政略結婚をし、その際、一度たりとも床をともにしなかった。


 あの時は、彼女にとっては間違いなく不本意な結婚だったから、あくまで任務の間。任務中は、首の皮一枚の状態という危ない橋を渡っていた自分だから、死ぬことだってあり得る。故にその後のことを考えて、初夜から婚姻が破棄されるまで一度も床をともにしなかった。


 無論、その後も。


 任務以前からの知り合いな二人。始まりは、大学で恩師に紹介されお互いを知り__実はずっと以前に会っていたこともお互いわかったがこれは別の話しである__想い合う仲にまでなったが、一度は別々の道を歩んだ。


 任務の最中に再会し、任務後リュディガーは改めて求婚した。そうしてやっと夫婦となったというのが、リュディガーとキルシェである。


 克己心の権化、というのが同僚の自分への評価らしいが、リュディガーだって一般的な健全な成人男性だ。苦節数年を経て、この人なら、と思えた人と夫婦になれたわけだから、欲して止まないはずがない。


「その……風邪をひかなくて良かったです。寝台へ運べられればよこったのでしょうけど……私にはどうにも重すぎて……」


「いや、いいんだ。布団をかけてくれていたが、君は寒くはなかったか?」


「ええ、大丈夫でしたよ」


「本当にすまなかった……本当に……」


 頭を抱えている手ではないもう一方の手に、白磁の指の手が触れるので、リュディガーははっ、として顔をあげた。


 弾かれるように見た彼女は、紫の瞳を細め、眉根をハの字に困ったように笑っていた。


「具合も、悪くはないのですよね?」


「あ、あぁ……」


 朝日を受ける長い銀の御髪は緩く結わえられ、片側の肩から垂らされている。絹の寝間着の上に薄手の羽織物を着ている姿は、リュディガーにとって一番無防備な姿で心臓が跳ねた。


 __もう……夫婦なんだよな……。


 目が離せないまま見つめていると、キルシェはどこか恥じ入ったように視線を伏せ、頬がほんのり、と赤みが差し始めてくる。


 __妻、か……彼女が……。


 その姿もまた愛しく思え、リュディガーは腕を伸ばして抱きしめた。


 寝間着と羽織ごと抱きしめた体は、案の定、華奢で柔らかい。まるで自分とは真反対の、その体。


 ほんのり、と甘い香りは、いつも抱きしめた香るものとは違う。胸焼けするような甘ったるさはないものの、上品な色っぽさを掻き立てる香り。初夜のために使用人に塗り込まれた香油だろうか。


 __対して、私は……。


「__酒臭いよな、流石に」


「……いつもとは、違う香りがしますね……」


 だろう、とリュディガーが笑えば、キルシェも腕の中でくすり、と笑った。


 彼女に振れる手を滑らせて、羽織の下へと滑り込ませて寝間着越しに輪郭を確かめる。華奢だが、肉があるべき場所にはある彼女の体。細い腰から臀部へと向かう曲線を撫でると、キルシェから鼻にかかった吐息が漏れる。


 呼応するように、ぞくり、と全身が震え、生唾を思わず飲むリュディガー。


 抱きしめることなど何度もしてきたのに、こうしてたまに体の輪郭をなぞったことだってあるのに、彼女の吐息混じりの声を幾度も聞いたことはあるのに、どうしてか心臓が強く早く打つ。


 __結婚したから……。


 お互いの右手の薬指にある指輪はその証。


 帝国では、婚約の証は左手の薬指、婚姻を結ぶと右手の薬指に、という風習がある。


 __結婚して、もう何も憚るものがないとわかるから。


 なるべく考えないよう、想像しないよう過ごしてきた。


 清廉潔白を演じたつもりはないが、男なりの欲を抱いて彼女を見たことを、気づかれないように過ごしてきた。


 __いつ死ぬともわからなかったから……。


 やむを得ず夫婦になったこと__これはもはや白紙撤回されているから、改めて夫婦になったのだが、相思相愛でそうした経緯もあるから、おそらくそうしたことになっても受け入れてくれただろう。


 だが、正式な婚姻関係を結んでもいない、ただの婚約中という間柄にほかならない時に傷物にしてしまっては、自分が万が一何かあったら彼女の行く末がどうなるかわかったものではなかったから、手を出すことはしなかった。


 なるべくそういう雰囲気にならないよう努めてきて__それでも、やはり相思相愛であれば、ならないはずはない。なりそうであれば理性を総動員して回避してきた。


 __結婚しているか、否かでこれほど変わるのか……。


 結婚という、もはや自分だけの彼女、誰にも手が出せない存在になった、ということだけでこれほど欲が溢れてくるのか、と驚くばかりだ。自分が知らなかった自分の一面を見せつけられた心地。


 細腰から臀部の上部へ撫でていると、腕の中の体が身動ぎする。蠱惑な動きだ。


 寝間着の上からもっと弄って、暴いて、晒して__と、そこでふいに過る疑問。


「__そう言えば、昨日は、君ひとりで着替えたのか?」


「え?」


 腕の中で顔を上げるキルシェ。顔は明らかに赤らんでいたが、リュディガーの疑問にきょとん、と不釣り合いな表情でいる。


「ほら、色々着付けていただろうから……確か迎えに行った時は、挙式のときの衣装のままだっただろう?」


 着付けるのに手伝いがいるものだったのは明白な衣装。


 挙式当日は、まるでその姿を見ている余裕などなかった。花嫁は挙式までは衣装姿を見せないしきたりがあるから、挙式前でもしっかりと目に焼き付けては置けていない。


 挙式後も、結局は忙しなく宴席に次ぐ移動と宴会で、今に至る。


 格式高い宿であるが、使用人は手配していなかった。使用人は皆、新しい所領の屋敷での準備に追われているからだ。


 ビルネンベルクの屋敷でてっきり着替えているのかと思ったが、そうではなかった。となれば、ひとりで身支度をしたということになる。


 問いかけられたキルシェは、視線を泳がせるように目を伏せた。耳はみるみるさらに赤みが増していく。


「し、ました……」


「その……よく、あの衣装を脱げたな……結構大変なのだろう?」


「き、着付けるよりは、楽、ですから……」


 両手を顔で覆うようにしながら、一層身を縮こまらせるキルシェ。


「ビ、ビルネンベルクのお屋敷で、着付けていただく時、お宿まではご一緒できないから、と……い、一応教えていただいていたので……」


 鈍器で後頭部を殴られたような衝撃を覚える言葉だった。

閨の身支度を自らしたということか。


 あの動きにくそうな衣装を脱ぎ、宝飾品をしまい、湯殿で清め、香油を塗り込んで__。


 ___……なんだって寝てしまったんだ……。


 ただただ昨夜の自分を詰る。つのる恨み節。


 本当なら今頃、寝台に並んで横になって、ぬるま湯のような微睡みにいただろうに__。


「__惜しいな……」


 リュディガーは、腕の中の存在を抱きしめてから、項へと口づける。それに驚いて弾かれるように顔を上げたキルシェの唇を、唇で塞いだ。


 途端に熱くなる身体。鼻にかかった声と吐息を飲み込むように、深くなる口付け。徐々に彼女の体をソファーの背もたれに沈めていく。遂に背もたれにまで追い込んだ時、思い切りキルシェはリュディガーの体を押し戻した。


 リュディガーからすれば、大した力ではないと言えばそうだが、彼女がはっきりと拒絶するように力をこめたので、リュディガーは押されるがまま身を離したのだ。


「だ、駄目です! そろそろ、準備をしないと」


 キルシェの顔は朱に染まって肩で息をしていたが、このまま流されはしない、という強い意思を目が物語っていた。


「朝食を頂いて、身支度をして、移動しないとならないのでしょう? リュディガーは、その……ぶ、無精髭を剃ったり……湯浴みからしないと」


 ぐっ、とリュディガーは口を一文字に引き結んで、自身の顎をさする。


 ざらざら、と伸び始めた髭。休日であれば放置していてもいいが、今日は休日でもそうはしていられない事情があった。


 できることなら、このまま__とは思うのだが、できない事情。


「先生と同流して、所領へ向かうのでしょう?」


 挙式の翌日は、午前のうちにビルネンベルクと合流し、所領へ向けて出発する運びになっている。


 理由は、下賜されたばかりの所領で、土地の者への挨拶。新しい領主夫妻のお披露目__二人はもう一度挙式をすることになっているのだ。


 新しい領主ナハトリンデンは、妻を娶るらしい。だから、きっと地元で挙式するんだ、という地元民の期待に応えるために。


 皮肉にもこの挙式の形は、何を隠そう数年前までの自分が描いていた規模のものだった。

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