櫻井みなみは何を望むか

小日向葵

第1話 プロローグ

 私は悪魔なんだから、あんまり関わらない方が良いよと彼女は言った。

 次は実験室での授業で、忘れ物を取りに戻ってきた僕はまだ教室の自席に座っていた彼女に次が移動教室である旨を告げると、彼女はにこりと微笑み、そしてそう言ったのだ。

 秋の日差しがまだ夏の名残を伴って強く差す午後の教室には、もう僕と彼女の二人しか残っていなかった。

 「悪魔でもなんでもいいけどさ」

 僕は彼女の真意を測りかねたまま返事をする。

 「時間までに揃ってないと。あいつがうるさいのは知ってるだろ」

 化学の教師は割と口やかましい中年の女性教師で、五分前行動をしろと口酸っぱく繰り返す割にはルーズと言う、愛嬌とそれなりの容貌と暴言のセンスがあれば人気が出るだろうタイプの人間だった。

 しかし残念ながら、女教師はそのどれをも持ち得てはいなかったので、ただ口うるさく無神経で無責任な大人として生徒たちからは認識されていた。勿論人気も人望もまるでなかった。

 わかったわよ、と彼女は怪訝な顔をしてノートと教科書を机の上でとんとんと揃え、胸ポケットのシャープ・ペンシルを触って確認すると立ち上がった。僕も自分の机の中から忘れていたペンケースを取り出して実験室へ向かう。

 彼女、櫻井みなみは俗にいう美少女だった。すらっとした肢体に涼やかな眼差し、肩まで伸びた黒髪に白い肌。強い意志に基づいて眉毛はきりっと自己主張をしていたが、それでも勝気さだけが前に出ることのないバランスでまとまった美しさを備えていた。

 それでも彼女には友人と呼べる人間が少ないように見えた。周囲の人間と一定の距離を保ち、かと言って離れるでもなくクラスに存在するその様子はまるで太陽の周りを回る惑星のようにも思えた。成績優秀でスポーツも万能な彼女にクラスの誰もが一目置いていたが、誰もが深くは踏み込めずにいる。

 自分の人気を笠に着ず、期待や憧憬をするりとすり抜けていくような彼女の言動は、どれだけ親しくされてもその親しさに微笑むだけで、決して相手を自分の中には入れようとはしなかった。だから、誰もがそこから先に進めず笑顔の中で途方に暮れてしまうのだ。

 そういう意味からいえば、むしろ彼女こそが太陽で僕を含む他の生徒たちがみんな惑星のような存在なのかも知れない。等距離を保ちながら、その輝きを眺めて周回することしか出来ない惑星のような。

 廊下をこつこつと規則正しく叩く彼女の足を追いながら、僕は実験室へ向かう。

 「なあ櫻井」

 「なに長谷川くん」

 歩みのペースを崩さずに、彼女はすらりと伸びた背中で答えた。

 「さっきのどういう意味?」

 「さっきの?」

 「悪魔がどうとか」

 「うん、ただの比喩よ。ちょっと考え事してたから」

 さらりとそう言うと、彼女は廊下を左に曲がって階段を降りる。黒髪がふわりと流れ、僕もその流れのままに付いて行く。

 「比喩?」

 「そう。別に気にしなくてもいいよ」

 「わかんないな」

 彼女が一体何を言わんとしているのか、僕にはさっぱり理解できなかった。そもそも悪魔などという荒唐無稽な単語が彼女と何の関係があるのだろうか。特に取り柄もない僕に比べたら、彼女こそ天使と呼んだ方が近いのではないかと思うくらいだ。

 休み時間でざわめく廊下を歩きながら、僕は必死に考えてみる。それでも僕の中にある悪魔のイメージはとても貧困で、どうしても目の前にいる櫻井みなみとイコールで結ぶことができなかった。スカートの下に、先の尖った尻尾が生えている様子もない。

 「うん、わかんない」

 僕はもう一度口の中で呟いた。彼女がくすりと笑った気配がして、僕ははっとする。今のは嘲笑でも愛想笑いでもない。櫻井みなみは純粋に、心の底から笑ったのだ。僕にはなぜかそう確信できた。

 「判らなくていいのよ。委員でもないのにわざわざありがとうね」

 彼女は機嫌良くそう言い、そうして僕たちは実験室へと辿り着いた。

 まだ件の女性教師は実験室へ出現しておらず、小言を云われずに済んだのは僥倖だった。僕はすぐに自席に戻り、そして彼女は窓際の空席に腰を下ろして窓の外に顔を向ける。

 それはまだ二学期も始まったばかり、高校一年の九月の事だった。



 僕の名前は長谷川昇。ごく普通の、友人の少ない高校一年生だ。まあ何を持ってごく普通かと言われると、特に根拠らしい物も確信めいた思いも存在はしない。出生に秘密があるわけでも血筋に何かがあるわけでも、そして謎の事情による素敵なイベントもありはしない。つまりそういった意味での【普通】だ。

 初恋は小学生の頃で、それは初恋と言うには幼すぎるものだった。自覚のないままに終わったそれは思い返せば確かに初恋だと気づく程度のもので、相手は学校の近くにあってよく遊びに行った児童館職員の、髪をショートに切り揃えたさっぱりとした性格のお姉さんだった。中学二年生となった時に、同級生相手にはっきりと自覚した上で恋をしたが、実ることはなく心に大きな傷を残すことになった。自分のキャラクターすら把握できていない時期に大げさな行動を取ってしまったことが敗因の一つなのだろうけれど、今でも夜中に突然思い出してしまい布団の中で恥ずかしさにのた打ち回ることがまだある。それ以来、僕は他人に対して直接的な感情表現を抑えるようになったことは言うまでもない。

 どっぷりハマるほどではないけれどヲタ趣味を持ち、部活動は帰宅部を中学生の頃から貫いている。でも別に一生懸命に何かをすることを見下しているわけではない。ただ僕が熱中できることを見つけられていないだけなんであって、だからガリ勉にもスポーツマンにも敵対心を持っているわけじゃない。

 そう、僕はまだ行き先不明のまま生きているだけなんだ。ただ立ち位置と進行度が他人と異なっているだけなんだ。

 高校受験に必死になる同級生たちを見て、僕もその真似をしてみたけれど、どこまで行ってもその努力の原動力を理解できなかった僕は当然途中でその真似を放棄した。テストなんて実力を計る物だから一夜漬けなんて無駄だと理屈を捏ねて、勉学そのものに対する意味など考えてもいなかった。

 だから僕はごく普通に五十程度の偏差値を獲得し続け、その範囲にある公立高校と滑り止めの私立高校をいくつか受けて合格した。当然のように公立高校を選択したのは、家から自転車で二十分もかからない近距離だからである。わざわざバスと電車を乗り継いでまで、妙な制服の私立高校に行くつもりは最初からなかった。

 友人は少ない。クラスメイトと完全に没交渉というわけではないが、プライベートで付き合うような【親友】と呼べる人間は一人いるきりだ。まぁ奴がいるのでそれほど交友関係に不自由していないというのが新たな友人を作らない理由でもあるが、なんていうか自己紹介をすることが面倒で仕方ないのだ。

 何が好きで何が嫌いで何が得意で何が苦手で、そんな情報をいちいち他人に伝えることが苦痛でならない。だいたい自分のことを自分でもよく判っていないのに、無責任に他人に紹介できるはずもない。

 家族構成は両親と妹一人。両親は共働きで平日の帰宅は遅く、朝食の準備は母が、夕食の準備は妹が行っている。妹が小学生の頃、すなわち僕が中学生の頃は僕が夕食の準備をしていた。僕が高校生になった時、すなわち妹が中学生になった時……この春のことだが、役目は僕から妹へと引き継がれたのだ。

 洗濯その他は土日に纏めて行うため、我が家の洗濯機は家庭用として見ればかなり大型の物を使用していると思うのだが、あまりよそ様の家の洗濯機など見る機会もないのでこれについては想像である。家電量販店などで我が家の洗濯機と同サイズの物を見ることが少ないので、一般的ではないだろうという予想は多分正しいはずだ。

 まぁ、以上が現時点での僕の自己紹介である。何かブレークスルーのようなものが訪れれば、僕もどこか変わるのかも知れない。それでも全く変わらないかも知れない。いや、変わりたくても変われないかも知れない。

 でも未来なんて誰にも判らないんだから、今からそんな心配をしていたって始まらないだろう。予想もつかない展開が、ひょっとしたらすぐそこの曲がり角で待っているかも知れない……というのが人生なのだろうから。

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