第7話

「…え?」

 澄睦は足を止めた。

「すみません、もう一度良いでしょうか」

 電話口に向かって、澄睦は努めて冷静に問い返す。

『だから、大路翔のマネージャーの交代の件は無しで頼みます』

「…なぜ、そんな話に?」

 突然の電話だった。現場移動中に、珍しくチーフから電話が掛かって来て、何か急用だろうかと思いながら出たら、予想もしなかったことを言われて。

『いや、それが困ったことになりましてね…』

 曰く、三人がチーフに直談判を仕掛けて来たのだと言う。

 澄睦が翔音のマネージャーを降りるのなら、三人で独立する、と。

「そんな話、間に受けるのですか」

 澄睦は顔を顰める。

『いやまぁ、どれだけ本気か分かんないですけど、これで要求を呑まずにマネージャー交代を進めて、本当に辞表出されたらたまったもんじゃないのでねぇ』

 正直あの三人ならやりかねない、と彼はため息を吐いた。

 万が一、デライト・メアリーを手放さなければならないなんて事態に陥ってしまったら、事務所としてはとんでもない損失になる。それに、例え本当に辞めるところまでは行かなかったとしても、事務所との関係性に亀裂が走るのは確実だろう。この交代を無くせば穏便に進められるというのなら、そうするべきだというのが、事務所の意向だった。

『…ということです。結構大変な思いをして準備を進めてもらったと思うので申し訳ないんですが…続行お願い出来ますか』

「…」

 澄睦に断る術は無い。

 はい、と頷いて、強くスマートフォンを握りしめた。


 会議室に呼び出しの連絡が入ったのは、電話を切ったすぐ後のことだった。

 そこに行くと、すでに三人が待っていて。

「あなたたち…何してるんですか」

 呆れと怒りとが入り混じった声で低く尋ねた澄睦に、しかし怯む素振りもなく返事をした。

「デモでーす」

「可愛い末っ子にお願いされてしまって」

 二人は悪戯っぽく笑う。

「じゃあ、あとは二人で話してね」

 湊は翔音にそう言うと、励ますようにぽんとその背中を叩く。創はひらひらと手を振って「お疲れさまでーす」と部屋を出て行った。

 パタンとドアが閉じ、澄睦と翔音の二人きりになる。

「…どういうつもりですか」

 澄睦は鋭い眼差しを向けた。翔音はその目をしっかりと見返して言い返す。

「あれから俺も考えて、やっぱりマネージャーの交代は嫌だと思ったんです」

「なぜマネージャーを交代するか、ちゃんと説明したと思うのですが」

 苛立ちを滲ませる澄睦に、翔音は明らかになった気持ちを伝えた。

「俺も、澄睦さんのことが好きです。恋人になりたいという意味で、好きです」

「…は」

 突然の告白に、直前の怒りもどこへやら、澄睦は呆然と翔音を見下ろした。

 その隙を逃さず、翔音は捲し立てるように思いを紡ぐ。

「だから、これからもそばに居てほしいんです。一緒に頑張っていきたいんです。マネージャーとしても、叶うなら、恋人としても————んんっ」

 はっとした澄睦は、咄嗟に翔音の口を手で塞いだ。

 びっくりしたように大きな瞳をぱちぱちと瞬く翔音に、澄睦は手を置いたまま小声で注意をする。

「ここは事務所ですよ、そういう発言は————」

 しかし、翔音はその手を強く振り払った。

「だって澄睦さんが聞いてくれないから!!」

「!」

 まさか反発されるとは思わず、澄睦は驚きに固まる。

「ちゃんと、話をさせてください。俺も、考えて答えを出したんです」

 翔音の真摯な眼差しに貫かれ、観念したように「分かりました」と澄睦は静かに返した。

「澄睦さんと居ると、安心するんです。頑張れるんです。それは、澄睦さんのことが好きで、特別だからだと思っています」

 ————言いたいことは、分かる。…あんなマネージャーの後、こんなふうに一緒に居たら、そう思ってしまうだろうことも。

 翔音のその気持ちは嬉しいと思う。しかしそれは、前任のマネージャーにより、図らずも下駄を履くことになってしまったからだという思考をどうしても拭えなかった。

 ————『だとしても、カノンを変えたのがミサキマネってことは変わらなくないですか?』

 創からの言葉が蘇る。例え前任者との比較の結果であっても、それが自分への評価であるというところは変わらない————彼の言い分はもっともだと理解はしていた。

 ————それでも、僕は…。

 本当の意味で、翔音の唯一になりたかった。そうでなければ、ずっと自分の存在意義を問うことになるだろうから。誰も介さず、一対一の関係で見ても特別なのだと思えなければ、翔音からの感情をその言葉のまま受け取ることは出来なかった。

 厄介な自分に呆れながら、澄睦は必死に気持ちを伝えてくれる翔音をじっと見下ろす。

「マネージャーとしても、一人の人間としても、澄睦さんは大切な人なんです。お願いします。これからも側に居てくれませんか」

「…」

 いずれにせよ、もう澄睦に選択権は無い。事務所が続行を決めた以上、ここでどんな話をしようと、翔音のマネージャーから降りることはなかった。

 ————でも、これからも一緒に居るのなら…はっきりさせなければいけないことがある。

「…あなたを、無理やり組み敷いた時」

 澄睦は意を決してその話を始めた。

「怖い思いを、させてしまったと思うんです」

 見下ろした翔音の、怯えた表情が頭から離れなかった。

 あの時、自分からの恋愛感情を肯定しようとする翔音に、その実態がどういうものなのかを伝えなければならないと思った。そうすることでしか、もう翔音を納得させることは出来ないのだろうと。

 そのために、心を殺して彼を襲った。翔音の心にまたトラウマを植え付けてしまうかもしれないと思うと恐ろしくて仕方なかったが、もう他に選択肢が浮かばなかった。

 突然のことに驚いた表情から、状況を理解して強張り————そして、ついにその表情に恐怖が滲んで。

 胸をナイフで突き刺されたような痛みが走った。ずっと守りたいと思って、大切に大切にしてきた子を、かつてのマネージャーがそうしたように傷つけている自分。あまりにも悲しい結末に、息が苦しくなるほどだった。

「あんな思いをさせられたのに…なぜ私のことが好きだなんて言えるんですか」

 あの日、翔音はそれ以上反論してくることもなく家を出て行った。

 ————だからもう、決別はあの時に済んだと思ったのにな。

 その後、翔音からもう一度話がしたいと連絡があった時は驚いた。これ以上何を話そうと言うのか見当もつかなかったが、話して何か良いことがあるとは思えなかった。

「冷静に考えてください。あなたにとって、私は信頼に値する存在ではありません」

 あの日感じた恐怖を飲み込んで、自分の恋情を受け入れると言い出すことが、一番恐ろしかった。

 しかし、もうそうなってしまっているのかもしれない。目の前の穢れのない瞳を見てため息を吐きたくなった。

「そんなことないです。だってあれは————」

 反論を口にしようとした翔音を遮る。

「あの時感じた恐怖を蔑ろにしないでください」

 ぴしゃりと返すと、翔音はむっとした顔をした。そんな状況ではないと思いつつ、その分かりやすい表情を可愛いと思ってしまう。

 翔音は眉を吊り上げたまま、噛み付くように言った。

「あんなふうに急に押し倒されて身体を触られたら、相手が誰だって怖いに決まってます!!」

 そして一歩大きく澄睦の方へ踏み出すと、あろうことか澄睦の手を取って。

「突然だったので少し怖かった、けど…嫌じゃなかった」

 そう、小さく呟いた。

「っ…」

 心臓が早鐘を打つ。

 翔音は両手で澄睦の手を包み込み、きゅっと握った。

「その…澄睦さんにそういうふうに見られてるんだって思ったら、ドキドキして、落ち着かなくて…」

 恥じらいを露わにしながらも、翔音は懸命に胸の内を明かす。

「…」

 澄睦は鋭く息を吐いた。

 今すぐに手を振り払わなければと警鐘が鳴る。

 ————でも、もし…この言葉が、本当なら。

 淡い期待がちらついて動けない。逃げるように目を伏せた澄睦を、さらに翔音は追い詰める。

「あと一つ、撤回してほしいことがあります」

「撤回、ですか…?」

 身体を若干引いて距離を取ろうとする澄睦を許さず、翔音はぐっと身体を寄せ、その顔を覗き込んで。

「前のマネージャーと同じだなんて、言わないでください」

「…!」

 澄睦の心に刺さっている棘に、翔音は優しく触れる。

「何もかもが違って、説明なんて出来ないくらいです。でも、別に比較することにも意味はないから…一つだけ」

 翔音は無邪気に笑って、澄睦に語りかける。 

「俺は、澄睦さんに好きでいてもらえることが、嬉しいです」

 大切に思ってくれること、活動を支えてくれること、夢を一緒に描いてくれること。

 可愛いと思ってもらえて、特別に思ってもらえて、嬉しかった。恋人になれるのかもしれないと思ったら心が躍った。

 どんな形でも、その愛情を受け取ることが自分にとってどれだけ幸せなことか、翔音はたくさんの言葉で伝える。

「だから…やめないで」

 翔音はそっと願いを囁いた。

「これからも、そばにいてほしいです」

「…」

 握られた手は、少し冷たく、汗ばんでいた。翔音の緊張が伝わってきて、澄睦は静かに息を吐く。

 その気持ちが確かなものであることは伝わったが、まだこの手を取ることへの迷いはある。これが正しいことなのか、一人では確証を持てなかった。

 ————でも…それが、あなたの幸せだと言うのなら。

 翔音の言うことなら、信じてみようか。澄睦は、はい、と一言頷く。翔音は花が咲いたように笑った。


     * * *


『上手くいって良かった』

「うん! …我儘に付き合ってくれて、二人とも本当にありがとう』

 大したことはしていないと二人は笑う。

『えっ、じゃあなに、もしかして二人ってもしかしてもう…』

『ちょっ、創!』

 湊の叱責の声に、翔音は苦笑いを浮かべて「大丈夫だよ」と返した。

 ————そういうこと…で、いいんだよな…?

 運転する澄睦をちらりと見る。

「…」

 電話をかけ始めてからというもの、澄睦は気まずそうな顔で黙りこくっていた。

「たぶん、そう…だと思う」

 思いたい、というのが正しいところだった。

 たぶんとはどういうことなのかと言い出した創を、そういう話はまた会った時にしろ、と遮る湊。

 とりあえず、マネージャーの件も落ち着いて良かった、また詳しい話は今度聞かせて欲しい、と湊は話をまとめ、別れの挨拶をして電話は終わった。

「…お二人はなんて?」

「よかったねって、言ってました」

 そうですか、と澄睦はどこかほっとしたように返す。

 ————これからする話って…恋人うんぬんの話なのかな…。

 いくら会議室が防音性に優れていると言ってもこれ以上事務所で危うい話をするのは避けようという澄睦の提案を飲み、澄睦の車で彼の家へ向かっていた。

 家に着いてから話をした方がいいかもしれないと思いつつ、待ちきれずその事実を確認する。

「あの…恋人、ってことでいいんですよね?」

 数秒の沈黙。

「うーん…」

「うーんってなんですか?!」

 翔音は思わず身を乗り出す。その勢いに、シートベルトががくんと締まった。

「いや、僕はまだ若干怪しいと思ってますよ」

「怪しい?」

 首を傾げた翔音に、澄睦はぽつぽつと語った。

「翔音くんが僕を好いてくれていることも、信頼してくれていることも、大切に思ってくれていることも分かってますが…それらは別に、必ずしも恋愛感情とはイコールになるものではないですから」

 言いたいことは分かるが、自分の気持ちを疑うようなセリフに、翔音は大きな声を上げる。

「本当に好きですよ!! 澄睦さんに恋人が出来たら嫌ですし!」

「えぇ…それ、誰の受け売りですか?」

「そうちゃんです」

 翔音の返事に、澄睦は困り笑いを浮かべる。 

「高宮くんも、達観してるんだか天然なんだか分からないところありますよね…」

 ————それは分かるなぁ…。

 今の話とは関係なく、創は冷静で大人びていると感じる時と、子供っぽくて幼いと感じる時の差が激しかった。

 しかし、この件については前者だ。

「でも、最終的には自分で答えを見つけるしかないってそうちゃんに言われました」

 あの言葉は、翔音の胸に深く響いていた。創が言ったことを、翔音は自分の言葉で説明する。

「恋人出来ちゃったら嫌だなっていうのも、結局判断をするための材料の一つでしかなくて…そういうのをたくさん集めて、これは恋だって、自分で答えを出すしかないって」

 その言葉に従って、澄睦との思い出を振り返ったこと。その温かくて甘い記憶の中で答えを見つけたことを話す。

「だから、これは恋なんです!」

 翔音の宣言に、なるほど、と澄睦は優しく囁いた。

 そして、一つ深く息を吸って、そっと問いを口にする。

「その気持ちを受け取ってもいいですか?」

「! じゃあ…!」

 目を輝かせた翔音に、澄睦は静かな声で言う。

「あなたにも僕の気持ちを受け取ってもらえるのなら、ですが」

「もちろんです!」

 翔音は即答する。

 ————どうしよう、めちゃくちゃ嬉しいなこれ…。

 頬が勝手に緩んでしまう。

「…ありがとうございます」

 澄睦の声にも喜びが滲んでいて、ついに翔音の口から柔らかな笑い声が漏れた。



 どうぞ、と澄睦に促され部屋に入る。

「お、お邪魔します!」

 ————前も緊張したけど…その比じゃない…っ!

 自分でも身体が強張っているのが分かる。リビングに入り、勧められたソファに座ったものの、どこに視線を置いたらいいか分からず、落ち着かない様子で辺りを見渡した。

「…ふふ」

 そんな翔音を見て、澄睦は笑い声を漏らす。

「な、なんですか」

「そんなに意識しなくていいんですよ」

 ————と、言われても!!

 まともに顔を見るのも難しい状態で、今までどうやって話してたのだろうと、それすらも分からなくなる。

「カチコチになっている翔音くんも可愛いですが、いつも通りにしてくれたら嬉しいです」

 そう思うならいちいち可愛いとか挟まなくていいのに、と甘い文句を浮かべながらも、確かに最近こうして二人で話すことすら無かったことを思い出す。リラックスしようと息を吐き、意識して肩の力を抜いた。

 スーツを着替えてくると言って、澄睦は隣の部屋に消える。

「…ふぅ……」

 どうにか平静を取り戻そうと、翔音は深呼吸を繰り返した。

 数分で帰ってきた澄睦は、トレーナーにスキニーというラフな装いで、また見慣れないその姿にせっかく落ち着けた心がまた騒ぎ出す。

 ————ほんとにもう…俺ばっかり…。

 キリがないなと思いつつも、初日くらい浮かれたっていいんじゃないかと思ったら少し気も楽になった。

「コーヒー、紅茶、緑茶、どれがいいですか?」

「この間の紅茶美味しかったので…同じのもらえたら嬉しいです」

「それは良かった。ではあれにしますね」

 澄睦はキッチンに向かう。それを見送ったところで、ふとそれが目に留まった。

「…あの写真」

 復帰ライブの時の翔音のブロマイド。カメラ目線ではなく、笑顔で観客席に手を振る瞬間が切り取られたものだった。

「飾ってくれてるの、嬉しかったです」

 もらったんですか?、と問い掛けると、澄睦は首を振った。

「いえ、自分で通販で買いました」

「えっ」

「翔音くんが当たるといいなと思いながら一セットだけ…そしたら、とても良いのが当たったので」

 お気に入りです、と言う澄睦に、胸がきゅっと甘く締め付けられる。

 ————嬉しいなぁ…。

 どんな形でも、澄睦からの愛を感じると、火が灯ったように胸が熱くなった。

「はい、どうぞ」

 ありがとうございます、とマグカップを受け取る。

 二人並んでソファに腰掛け、コーヒーを楽しみながら他愛ない話をしていると、不意に澄睦が「そうだ」と思い出したように声を上げて。

「僕の夢を繋げてくれて、ありがとうございました」

「え?」

 どういう意味だろうと小首を傾げた翔音に、澄睦は柔らかな声で語る。

「翔音くんが引き留めてくれなければ、僕の夢はここで一度終わっていたので」

 マネージャーになって、アイドルを支え、育てたいという夢。翔音のマネージャーを辞めるということは、翔音のおかげで叶ったその夢を途切れさせてしまうのと同じだったと、澄睦は打ち明けた。

「だから、諦めずにこの手を引いてくれて————僕の夢を守ってくれて、ありがとうございました」

「!」

 ————夢を、守った…。

 一連の行動は、ただ自分が澄睦と居たかったからしたことで、特別そういうつもりはなかった。しかし、守ったのだと言ってもらえることは、嬉しくて。

 ————『翔音くんを守ることが出来ていたのなら、それは僕にとってとても嬉しいことなんです』

 いつかに言われた澄睦のセリフが蘇る。

 あの時は何となくしか分からなかったその意味が、今は手に取るように分かった。

「そう言ってもらえて、良かったです」

 翔音ははにかみながら思いを伝える。

「好きな人の夢になれるって…すごく嬉しいことだなって思いました」

「好きな人が夢を叶えてくれるのも、とても…とても嬉しいことです」

 二人は顔を見合わせて笑う。

 それから、離れていた時間を埋めるように、いろんな話をした。途切れることなく、話題が散らばっていく。甘くて穏やかな時間が流れた。

 ————幸せだな。

 会話が途切れたところで、思いを噛み締めるように息を吐く。

 あまりに満たされていて、少し怖いと思うほどだった。贅沢な不安だな、と思いながら、翔音は空になったマグカップをそっとテーブルに置いた。

「どうしました?」

 澄睦は、口を閉ざした翔音に問い掛ける。

「あ、いえ…なんか、幸せだなと思って」

 へへ、と翔音は少し照れくさそうに笑う。

「すごい恵まれてるなって思ったんです。澄睦さんと出会って、マネージャーになってもらって、恋人にまで、なれるなんて」

 奇跡の連続だと言う翔音に、澄睦も優しく頷いた。

「そうですね、本当に…」

 しみじみとした調子で同意して、澄睦もマグカップをテーブルに置く。

「一つ…恋愛観について、伺ってもいいですか」

 静かな声に、少しだけ緊張が走った。いよいよ本題だと、翔音は背筋を伸ばす。

「翔音くんは、もともと男性が恋愛対象だったのですか?」

「いえ…特別そういうわけではないです」

 実際に恋人が居たことは無かったが、人並みに女性に対してときめいたことはあったし、逆に男性に対してそういった感情を抱いたことは無かった。

 そうですよね、と頷いてから、澄睦は遠慮がちに問い掛ける。

「今更ですが、そこに対する…なんていうか、抵抗とか違和感などは無いんですか?」

「えっ、無いです」

 考える間もなく即答した。そんなものがあったらそもそも好きになんてならないのでは、というのが浮かんだ言い分だったのだが。

 ————もしかして…澄睦さんは、気になることがあるのかな。

 好きだと言ってくれた言葉を疑うつもりはないが、恋愛経験の無い自分と違って、きっと女性とも付き合ったことがあるのだろうし、もしかしたら————というところまで想像して、翔音は肩を落とした。

「…どうしたんですか?」

「いや…その…澄睦さんは、女性の方とお付き合いしたこと…あるんですよね…?」

 明らかに気落ちした声で問い掛ける翔音に、澄睦は優しく返した。

「過去にはありますが、当然もう何の気持ちも無いですよ」

「そう、じゃなくて…」

 その人個人への思いが未だあるとは思っていない。だが、女性というものに対してはどうなのだろうと考えてしまう。

 ————女性と比べられたら、勝てないしな…。

 黙ってしまった翔音に、澄睦はそっと囁く。

「気になることがあるのなら、聞かせてください」

 恋人になって早々こんなことを聞くのはどうなのだろうと躊躇いつつ、今聞かなかったらずっと心のどこかで不安を抱き続けることになるのは明らかだった。

 翔音は様子を伺いながら、小さな声で尋ねる。

「…女の人の方が、良くならない、ですか」

「え?」

 目を丸くした澄睦を見て居た堪れなくなり、翔音は俯く。

「恥ずかしながら、俺は誰ともお付き合いをしたことは無いので、分からないんですけど…でも、どうやっても女性の魅力には勝てないなぁって…思って…」

 過去の彼女と、性別的なところで比較されることが怖かった。実際恋人になってみて、その違いに違和感を抱かれたらどうしようもない。努力では越えられない天性的なものであるがゆえに、どうしても不安を捨てきれなかった。

 ————ちょっと面倒くさいこと言っちゃったな…。

 後悔する翔音に、澄睦は柔らかく笑いかけた。

「僕にとっては、翔音くんが一番魅力的です」

 その瞳を覗き込んで思いを口にする。

「女性とか、男性とかではなく、翔音くんが好きなんです」

 だから心配しないで————そう言った澄睦に、しかし翔音の表情は完全には晴れず、曖昧に頷くのみ。

 澄睦は困り笑いを浮かべながら問い掛けた。

「触れても、いいですか」

「えっ…は、はい」

 突然の申し出に、翔音は上擦った声で了承する。

 まだ宣言されただけなのに、心臓が激しく鼓動する。緊張にごくりと唾を飲み込んだ翔音に、澄睦はただ微笑んで、その肩に手を置いた。

 腕をなぞるように下される。特に色は無く、本当にただ触れられているだけなのに、ドキドキと鼓動は忙しなく、翔音は息を詰めた。

 下りて行った手は、そのまま手に重ねられる。甲を撫で、手のひらをくすぐり、指をするりと絡め取った。

「う…」

 小さく声を上げた翔音に、澄睦はふわりと笑いかける。そしてその手を自分の方に引き、もう片方の手で腰を抱き寄せた。

 至近距離まで近づいた澄睦の顔に翔音は息を止める。

「…」

 澄睦は何も言わない。その視線は真っ直ぐ翔音に注がれていて。

 ————なんかめっちゃくちゃ見られてる…!

 耐えきれなくなり、翔音はそろりと目を逸らした。すると澄睦は繋いでいた手を解き、優しく翔音の頬に触れて。

「こっちを見て」

「っ…」

 促されるまま視線を上げる。翔音の喉が小さく鳴った。

 こんなに近いと自分の心臓の音が聞こえてしまうのではないかと、そんなことを思ってしまう。

 ————い、いつまで、こうしてればいいんだ…?

 もしやこのまま————とその先を期待した時だった。

「…怖くは、ないですか」

 囁かれ、翔音はきょとんとする。

「え?」

 澄睦は頬をするりと撫でて優しく問いを繰り返した。

「こうして触れていても、怖くないですか」

 怖いわけない、というのが翔音にとって当然の回答だったが、もしやこの間のこと気にしてるのではと思い至る。

「…本当に、大丈夫ですよ」

 翔音はしっかりと目を見てそれを伝える。あの時は本当に驚いただけだから気にしないで欲しい、と。

 しかし澄睦は、それを柔らかく否定した。

「それもありますが…それだけではなくて」

 翔音は首を傾げる。澄睦は頬を撫でながら話をした。

「さっき翔音くんが言ってくれた不安は、僕にもあるんですよ」

 自分の言った不安————女性の方が良かったと思ってしまわないか、というものだろうか。でも自分は女性と付き合ったことも無いのに、と澄睦の不安を計りかねていると、静かに澄睦は心のうちを吐露した。

「僕がどうということではなく、男性と付き合うこと自体に、翔音くん自身が辛くならないか…少しだけ、不安なんです」

 もしかしたら、症状が出てしまうかもしれない。それは決して翔音のせいではないと、澄睦は丁寧に話をする。

「僕に対しては大丈夫だといつも言ってくれてはいますが…それは僕が、あなたになるべく触れないように、近付かないように、気を付けていたからというのもあると思うんです」

 翔音にとって安心出来る存在で居られるよう、注意を払って距離を保って来た。それによる安心感は大きかったのではないか、と。

「なので、こうして触れても怖くないのか…ちゃんと確認したくて」

 腰を抱いていた手が、とんとん、とそこを撫でた。

「恋人だからとかは気にせず、教えてください。これまで通り、翔音くんにとって心地よい存在で居たいので」

 ————ちゃんと、伝えなきゃ。

 優しい澄睦に、これ以上不安を抱かせないために。

「怖いわけないです」

 翔音も手を伸ばす。

「好きな人、なんですから」

 澄睦の頬に手を置いて、その瞳に向かって囁きかけた。

「手も繋ぎたいし、抱き締めて欲しいし…えっと、それ以上のことも…」

「…っ」

 澄睦が鋭く息を呑んだ。

「色々慣れなくて、全部ドキドキしますけど…」

 へへ、と翔音は照れくさそうに笑う。

「…」

 澄睦は急に無表情になると、深く長く息を吐いた。それを見て、翔音は「あ」と声を上げる。

「ずっと思ってたんですけど…それって、どういう顔なんですか?」

「顔?」

 何のことを言われているか分からないというふうに首を傾げる澄睦。

「真顔というか…たまに急にその顔になることがあるので、どういう気持ちなんだろうと…」

 真顔、と澄睦は繰り返して、それから一拍遅れて何を指しているのか理解し、ああ、と声を上げた。

「これは…」

 言いかけて、興味津々で自身を見つめてくる翔音の純真な眼差しを受け、ふっと微笑む。

 そして、翔音の頭を撫でながら、甘い声で囁いた。

「翔音くんが可愛すぎる時にこうなります」

「えっ」

 翔音は硬直し、その後じわじわと頬を染める。

「なる、ほど…」

 目を逸らし、声を上擦らせた。

「ふふ、可愛い」

 砂糖を煮詰めたような声で笑う澄睦。翔音は耳まで赤く染めて気恥ずかしさに耐えた。

 ————威力が高すぎる…! 身が保たない…!

 はぁ、と幸せなため息を吐く翔音の手を、澄睦はきゅっと握った。そして、翔音くん、と甘く名前を呼んで。

「これから、僕のもてる全てで愛を伝えていきます」

「へ?」

 いきなりの熱烈な告白に、翔音の口からは間の抜けた声が漏れた。澄睦はうっそりと笑って翔音を抱き寄せる。

「他の誰も、目にも入らないんだって、伝わるように…翔音くんが不安になる隙なんて無いくらいに」

 それが、女性と比較されないか悩む自分に対してのアンサーであることに気付く。

 ————本当に、優しい人だな。

 自分の不安を全部掬い取って、安心に変えてくれる。これからも、どうしたって不安になったり落ち込んだりすることはあるだろうけれど、ちゃんと全部話して、二人で幸せになろうと、そう思った。

「…はい。俺も、たくさん伝えます」

 澄睦はただ愛おしげに微笑み、それから一つ息を吐いて。

「では、あらためて…」

 翔音の右手を、まるで宝物ように大切に両手で包み込む。そして、瞳を覗き込むように顔を傾けた。

 その視線に高揚感と安心感を覚え、とくりと胸が高鳴る。

「本当に、僕が恋人でいいんですか」

 ————温かい手だな。

 翔音はその温もりにほうっと息を吐いて、囁きを返す。

「恋人に、してほしいです」

「そう簡単に撤回は出来ませんよ」

「しません!」

 翔音はぐっと身を乗り出して言い返した。

「澄睦さんこそ! 目移りとかしないでくださいね」

「しませんよ」

 ゆるりと笑って即答すると、澄睦は翔音の身体を優しく押し倒した。

「…!」

 力を掛けられるまま、翔音は素直にソファへ寝転ぶ。澄睦の長い髪が、重力に従って肩から滑り落ちた。

 期待を胸に、ほんのりと頬を染めて澄睦を見上げる翔音。その頭を、優しく撫でた。

「アイドル姿も、何事にも真っ直ぐなところも」

 頭を撫でていた手が、頬に降りてくる。

「変に自己評価が低いところも、だからこそたくさん頑張るところも」

 翔音を見つめながら、澄睦は愛を紡いだ。

「強くて素敵なところも、可愛いところも、全部、大好きです」

 親指で、翔音の唇をなぞる。こくりと翔音の喉が音を鳴らして。

「すみ、ちかさ————」

 声を飲み込むように、唇が塞がれた。

 ただ触れるだけのキス。それを何度か繰り返す。

 翔音はきゅっと目を閉じた。

 ————頭、くらくらする…。

 熱が、全身に広がっていく。身体から力が抜けていった。

「…ふふ」

 優しいキスをぼんやり受け止めていると、澄睦が吐息のような笑みをこぼした。数ミリ離れた唇から溢れる吐息が、翔音の唇をくすぐる。

「可愛い」

「っ…」

 甘ったるい声に、かあっと顔に熱が集まった。じわりと汗ばんできた身体に、翔音は居心地の悪さを感じて身じろぐ。

 それを逃げと捉えた澄睦は、「まだですよ」と囁いて再び翔音の唇を塞いだ。そして今度は啄むように唇を食む。

 唇の柔らかさや熱をダイレクトに感じる。翔音の喉の奥からくぐもった声が漏れた。

「ん、っ…」 

 ————あつい…胸がくるしい

 身体は火照ったように熱く、思考も熱を持つ。

 心臓は苦しいほどに早鐘を打っていたが、不思議な安心感もあって。幸せだな、と思った時だった。

 重ねた唇の隙間から、舌が覗いた。

「…っ!」

 唇を舐められ、翔音はびくりと身体を跳ねさせる。

 そして反射的に目を開いて。

「……ッ」

 熱の籠った瞳が、緩やかに細められる。翔音の口から小さな声が漏れ、ふるりと身体を震わせた。見たことのないその瞳の色に、緊張と興奮が押し寄せる。

 ————なんか、まずい、かも

 唇を濡らすようにぬるりと舐められ、舌先で隙間をつつかれる。ぞくぞくと背筋に震えが走った。

「…翔音くん」

 唇を触れ合わせたまま名前を囁かれる。それ以上の言葉がなくとも何を求められているのかは明らかで————翔音は誘われるまま、小さく口を開いた。

 ふっと澄睦は笑みをこぼして、褒めるように頭を撫でる。そしてゆっくりとその口内に舌を差し入れた。

 熱くてとろりとした舌が、口の中の浅いところを優しく撫でる。

「ふ、ぁ…」

 声が漏れて、恥じらうように翔音はぎゅっと目を閉じた。視界が無くなったことでよりキスの感触が鮮明になり、翔音は熱っぽい吐息を漏らす。

 激しくはない、ただただ甘いキスだった。緩く舌を絡め、口内をくすぐる。首筋や耳を撫でられると、心地よい震えが走った。

 ————きもちいい

 溶かされるまま、キスを受け入れた。だんだん意識もぼうっとしてきて、羞恥心も薄れていく。

「ん…っ、ん……」

 時折宥めるように頭や頬を撫でる澄睦の手。その温もりに身を委ね、口内を愛撫し続ける舌の感触を感受する。

 全身が熱くて、少し息が苦しくて、けれど何より、多幸感が頭を埋め尽くしていて。

 ————すきだな。

 澄睦への思いで胸がいっぱいになる。目頭が熱くなって、じわりと涙が滲んだ。

 どれほど続いたか、不意に舌が引き抜かれる。最後にぺろりと唇を舐めて、唇が離れた。

「…あ……」

 熱が離れていくことへの寂しさに、翔音は思わず声を上げる。

 目を開けると、困った顔をして笑う澄睦が見下ろしていて。

「際限がなくなって、ダメですね」

「…?」

 翔音はくたりと横たわったまま、は、と熱い吐息を吐き出す。瞬きをすると、一つ涙が溢れた。

 澄睦は身体を起こし、濡れた自分の唇を指で拭う。そして潤んだ翔音の目元に一つ口づけを落とした。

「大丈夫ですか」

「ん…」

 こくりと頷いた翔音に甘く笑いかけ、その身体を起こすのを手伝う。ソファに座り、翔音は深くため息を吐いた。

 ————すごかった…。これが、恋人…。

 未だ頭はふわふわとしていた。初めてのキスにしてはあまりに刺激的で、なかなか熱から抜け出せない。

 そんな翔音に、澄睦はくすくすと笑いながら問い掛ける。

「どうでした?」

 翔音は深く考えず、ただ思い付いたことを口にした。

「これからはもっと上手く恋愛ソングを歌えそうです」

 澄睦は一瞬きょとんとした後小さく吹き出し、「そういうところが大好きです」と囁いた。

 

     * * *


 照明が落ちる。

 彼らの登場を今か今かと待ち望む数多の歓声が、わっと膨れ上がった。

「スタンバイお願いします!」

 スタッフの声に、三人は揃って返事をする。

「行くかー!」

「うん、行こうか」

 二人に頷きを返して、翔音はくるりと振り返った。

 そして澄睦に向かって笑顔を向ける。

「いってきます!」

「はい、いってらっしゃい」

 手を振り合う。翔音は再び身を翻すと、二人の元へ駆け寄った。ステージへ向かう後ろ姿を、澄睦は見えなくなるまで見送った。

 舞台袖からステージを見上げる。その姿に光が当たる瞬間に、胸を高鳴らせた。

 ほどなくして、オープニング映像が終わる。

 ついに幕を開けるライブへの期待と興奮で、客席の熱も膨れ上がって。

「————!!」

 音楽が流れ出すとともにステージに注がれるスポットライト。三人の姿に、会場は歓声と悲鳴に包まれる。

 歌って踊る、キラキラとしたその横顔を見て。

「…」

 澄睦は静かに息を呑んだ。

 ————ああ、本当に素敵だな。

 アイドルとして輝く翔音の姿に、澄睦は眩しげに目を細めた。

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アトラクトノート ゆるり @gin16sekai

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