誘導尋問

「お母さんがキッシュをたくさん送ってきてくれたんです。よかったら一緒に食べませんか?」

 大皿の上に山盛りにされたキッシュを胸に抱いた彼女が部屋にやってきたのは、僕たちが初めて顔を合わせてから凡そ四か月の月日が流れた、七月も半ばの金曜の夕方のことだった。


「お味はどうですか?」

 彼女の母親謹製のキッシュは美味しそうなその見た目よりも、さらに数段も上を行く逸品だった。

「見た目よりもさらに数段美味しい」

 コピー機かプリンターのように思ったことをそのまま口から出力し、ふたたびその味に集中する。

「うん。やっぱりめちゃくちゃ美味しいよ、これ」

「よかった! 今度実家に帰ったら作り方を教わっておきますね」

 彼女は本当に嬉しそうにそう言うと、小さく切り取った一切れのキッシュを自身の小さな口に放り込む。

「美味しい。それにお母さんの味、ちょっとだけ懐かしいです」

 おふくろの味がキッシュというのも、なんだかとても彼女らしくて微笑ましかった。


「それじゃ私、いったん部屋に戻りますね」

「へ? ああ、うん」

 彼女はすっかりと空になった皿を脇に抱えると足早に去っていってしまった。

 まるで事前に約束事をしていたかのような物言いだったが、当然のように私は何も知らされていない。

 もしこれが出会ったばかりの頃であったなら、慌てふためき部屋の片付けでも始めていたところだろう。

 しかし僕はといえば既に、彼女という人物が持つ独特の思考ルーチンをほぼ完璧に把握していた。


 ひとりで彼女を待つ時間はとても退屈だった。

 だからといって、持ち帰っていた仕事に手を付ける気分でもない。

 すぐにでも戻ってくるような口ぶりだったにもかかわらず、彼女がふたたび僕の部屋のチャイムを鳴らしたのは、西の空に日が落ちてしばらくしてからのことだった。

「おまたせしました!」

 彼女はもともとよく手入れの行き届いた美しい髪の持ち主であったが、それが普段にもまして艷やかなところをみると、どうやらお風呂を済ませて来たのだろう。

 それに服もやたらとモフモフした素材の、パステルカラーのルームウェアに着替えていた。

 いくら知らぬ間柄ではないとはいえ、一人暮らしの独身男性の家を訪ねる格好には些か不適切にも思えたのだが、彼女のそういうところは今日に始まったことではないので、今さら気にしても仕方がないのかもしれない。

「それで何をするの?」

「一緒にテレビを観たいです」 

「それじゃ飲み物入れてくるよ。ソファーにでも座ってて」

 まだ半年足らずの付き合いとはいえ、すっかり彼女のペースを心得ていた僕にしてみれば、もはやこの程度のことで動じることはなかった。


 夏休みスペシャルと銘打たれたオカルト番組は、とてもではないが大人が観て楽しむような内容とは思えなかった。

 だが、ソファーの隣に座った彼女はその限りではなかったようで、その端正な顔をすっかり青くして震え上がっている。

「流風さんってさ、怖いの苦手なの?」

「苦手です。けど好きなんです」

「へえ」

 かく言う僕も、遊園地の絶叫系アトラクションが苦手なくせに行くたび必ず乗ってしまうので、二律背反とも思える彼女の気持ちをすぐに理解出来た。


 二時間枠の番組を観終わった僕たちは、感想を述べあったり互いの通っていた小学校にあった七不思議の話をするなどして、週末の夜の楽しい時間をゆっくりと過ごした。

 そして気がつくと、時刻は深夜の入り口にまで差し掛かっていた。

 いくら翌日が休みだとはいえ、そろそろ彼女を家に帰したほうがいいだろう。

「流風さん。もう時間も遅いしそろそろお開きにしよっか」

「ムリです。だって最後のお話、ここのマンションによく似た部屋だったじゃないですか」

 それはよくある事故物件をテーマとした怪談だったのだが、その舞台がここのマンションに似ていたかといえば微妙に思えた。

「部屋の前まで送ってくよ」

「だからムリです」

 彼女は首を左右に振ってイヤイヤをする。

「じゃあ、寝るまでスマホでおしゃべり――」

「弦さん、ちょっとしつこいです」

 すっかり彼女のペースを心得ていたはずの僕にして、流石にこの展開は想像だにしなかった。


 数分間に渡る攻防の末、結局彼女は僕の家に泊まって行くことになった。

 いくら成人しているとはいえ、十代の女の子を家に泊めるということの後ろめたさはといえば並大抵ではなかった。

 それに加えて、顔すら知らぬ彼女の親御さんに対する申し訳無さに、自然と大きなため息がこぼれ出てしまう。

 ただ幸いにも、我が家の間取りは2DKと若干の余裕がある。

 寝室を彼女に使ってもらい、僕は普段リビングとして使用しているこの部屋で寝ることにすればいい。

 そうすれば倫理的な問題に関しては回避できるはずだ。

 そのことを伝えようと、ソファーの隣りにいる彼女のほうに顔を向ける。

「……むにゃむにゃ」

「寝るのはやっ!」


 ◇


「――さん、弦さん」

 自分の頭より少しだけ高い位置から降ってきた声で目が覚める。

 部屋が暗いということは、まだ日の出前の時間なのだろう。

「……おはよう」

「なんで床で寝てるんですか?」

「……冷たくて気持ちがいいから」

 そう言いながら身体を起こそうとするも、枕の代わりにしていた右腕が尋常ではない痺れかたをしていて動くに動けない。

「私がここで寝ちゃったからですか?」

「……」

 僕が答えあぐねているのに気づいたのだろう。

 彼女は少しだけ悲しげな顔をすると、ソファーから足を下ろして静かに立ち上がった。

「ご迷惑をお掛けしてすいませんでした。私、自分のお部屋に帰ります」

 そう言って深く頭を下げると、スタスタとした足取りで玄関の方へと行ってしまう。

 どうやら僕は彼女の機嫌を損ねてしまったようだった。

 一体それがどういった理由からなのかは、正直にいってよくわからない。

 けれど、このまま彼女を帰してしまうことは避けたいと思った。

 なぜそう思ったのかは、やはりよくわからなかったのだが。

「流風さん待って!」

 なんとも形容し難い腕の痺れに耐えながらそう叫ぶと、玄関で靴を履く彼女のもとまで駆けつける。

「……本当はベッドまで運ぼうと思ったんだ。でも、それには抱き上げる必要があったから。僕たちはその……そういう関係じゃないし。だからといって、自分だけベッドで寝るのも違うような気がして」

 焦っていたせいで心の内を余すことなく吐露してしまった。

 腕のジンジンとした痛みに心臓の鼓動が重なり、身体の中で世にも奇妙なセッションが開始された。

 やがてそれは心音が優勢になると、静寂に包まれたこの空間で感覚の約八割ほどが胸のビートに支配される。

「だったら」

 凛とした声によって内なるフェス会場から現実世界へと呼び戻された僕は、靴を履きかけた体勢のままで顔をあげた彼女に目を向ける。

「だったら、そういう関係になっちゃえばいいと思います」

「……え?」

 僕は学生時代から自他ともに認める察しの良さを持ち合わせていた。

 それなのに、彼女がいま発した言葉の意味がまったく理解できずにいた。

 いや。

 意味が理解できなかったのではなく、その意図が理解できなかったといったほうが正しい。

 その結果、あまりに間抜けな質問を彼女に投げ返すことになってしまった。

「それは……どういうこと?」

「どういうことって、そのままの意味です」

 それがわからないから聞いたのだが、今のは質問のしかたが悪かったかもしれない。

「えっと、そういう関係?」

「そういう関係はそういう関係です。私、弦さんと初めて会ってふたりで海に行ったあの日から、あなたのことがずっと好きでした」

 それはまるで次週で打ち切りが決定した少年漫画並の、とてつもなく無理のある急展開に思えた。

 今日までの約四か月の間、確かに彼女の好意のようなものを感じることはままあった。

 ただ彼女のそれは、言ってしまえば親や兄姉など自身の保護者に寄せる、信頼や親愛に近しいものだとばかり思っていた。

「弦さんは? 弦さんは私のこと嫌いですか?」

「それは……」

 それはこれ以上ないくらい的外れな上に、とてつもなく卑怯な物言いだった。

「嫌いなわけないよ」

 彼女の黒く大きな瞳が薄暗い玄関で怪しく光るのが見て取れた。

「じゃあ、好きってことですか?」

 これでは完全に誘導尋問ではないか。

 もし裁判であったなら、こんな方法で取られた言質など証拠として採用されることはないだろう。

 だがここは取調室でもなければ法廷でもなかった。

「……好きに決まってる。初めて会って二人で海に行ったあの日から、ずっと」

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