春の海

 無限に続くとまで思えたドライブの末、ようやくにして海岸のすぐそばにある駐車場に到着する。

 すっかりと無口になった僕とは対称的に、彼女は相変わらずの饒舌振りを披露したままであった。

 その様子からして五分前にトラックのお尻に突っ込み掛けたことなどは、すでに初めから無かったことのように忘れ去っているのだろう。


 松の木の防砂林の間にある小道へと踏み入れた僕たちは、地表に露出した太い根に足を取られぬよう慎重に歩みを進めた。

 数歩うしろを歩く同行者が心配になり振り返ると――案の定というべきか――今まさにちょうど、地面の凹凸に足を取られ地面に倒れ込む瞬間だった。

 慌てず騒がず駆け寄った僕は、その軽そうな体の真正面に立って手を広げる。

 それはもちろん転倒を防ぐためで、果たしてその目論見自体は成功したのだった。

 だが、胸で受け止めた彼女は一瞬だけ体を硬直させると、直後には僕の背にその細い腕を回してくる。

「……流風さん?」

「あっ! ごめんなさい!」

 大急ぎで離れていった彼女は、すぐさま背後にあった木の根にパンプスの踵を引っ掛けて盛大に尻餅をつく。

 そうならないための行動だったはずなのに、これではただ意味もなくハグをしただけになってしまった。

「流風さん、はい」

 地面に座ったままでいる彼女に手を差し伸べる。

「ごめんなさい。ありがとうございます」


 引き起こした時に握った手をそのままに薄暗い松林を歩き続けていると、やがて目の前に春の海が現れる。

 夕暮れという時間帯にもかかわらず、不思議と肌寒さを感じることはなかった。

 本日の営業をもう間もなく終えようとしている太陽が、凪いで鏡のようになった海面に光の道を作り出していた。

 その光景はただただ美しく、今年一といってもいいような慌ただしさだった今日という日の終わりに相応しいようにすら思えた。

 すぐ隣で僕と同じ方角を向き、僕と同じ光景を眺めている彼女は今、僕と同じことを考えているのだろうか。

 そんなことは本人に聞けば一発なのだろうが、今この場に於いてそんなことをする愚かさといえば、恋人との初めてのキスのチャンスを棒に振ることと大差ないように思えた。


 やがて太陽が完全に沈むと、直前までオレンジ色に塗り上げられていた水平線の上の空が怪しげな赤紫色に染まりだす。

 それは所謂マジックアワーといわれるものだったが、実際に目したのは初めてだった。

「弦さん。海に連れてきてくれて、ありがとうございました」

 この場所にきて最初に口を開いたのは彼女だった。

 連れてきたというよりは連れてこられたといったほうがより正確に思えたが、今となってはそんなことなど些細な違いでしかない。

「いや。海、僕も行きたいと思ってたから」

 それはあとづけの設定だったが、今この瞬間には本当にそう思っていた。

 まだ空には幾らか光が残っていたが、この明るさもそう長くは続かないはずだ。

 足元を照らすくらいであればスマホのライトでも何とかなるが、先ほどの苦労を考えればそうなる前に退散するのが利口だろう。

「来たばかりであれだけど、暗くなる前にそろそろ戻りませんか?」

「あ、その前に一緒に写真撮りませんか?」


 往路の倍近くの時間を掛け、車を待たせてあった駐車場まで戻ってくる。

 いざ車に乗り込もうとドアハンドルに手を伸ばした時になって、そういえば彼女とずっと手を繋いだままだったことに気づく。

 自然な所作を装いつつ離した手のひらに、夕暮れの冷たい空気が流れ込む。

 その時すぐに胸をよぎったのはといえば、そこはかとない名残惜しさだった。


 至極当然のことではあったが、帰り道の軽自動車は僕がハンドルを握っていた。

 交通量の多い国道から人影もまばらな側道に入ると、それまでずっと黙っていた彼女が静かに口を開く。

「さっきはすいませんでした」

「うん? さっきって?」

「抱きついてしまって」

 そういえば確かにそんなことがあった。

 なんだかもう、ずっと昔の時代の出来事だったように思えるのはなぜだろうか。

「全然。ちょっとビックリしたけど」

「……前に。ちっちゃかった頃に、お父さんと一緒に海に行ったことがあったんです」

 彼女は海なし県の出身と言っていたから、それは旅行か何かの時のことだろうか。

「その時にも私、転びかけちゃって。でもお父さんが受け止めてくれたんです。さっきの弦さんみたいに」

 まるで自分の目で見たかのように、その時の光景がありありと脳裏に浮かんだ。

「そのあとすぐに、お父さんは事故で亡くなってしまって。それでさっき、弦さんに抱いてもらった時にお父さんのことを思い出したんです」

 それで彼女は海に行きたがっていたのか。

 もしそのことを知っていたのならレストランなんかに寄りはせずに、もっと早くに行って長く滞在できたのに。

 あと、『抱いてもらった時』というのは要らぬ誤解を生むこと請け合いなので、人に話すことだけはやめて欲しいと思った。

「私、こっちの大学に進学して正解でした」

 湿り気のある話になってきたなと思っていた矢先、彼女が声のトーンを二段階も上げたことで、僕は少しだけ肩から力を抜くことができた。

「確かに僕たちのマンションからだったら、その気になれば毎日でも海まで行けるね」

 もっとも次はパンプスではなくスニーカーを履いていったほうがいいと思うし、可能であれば自動車は売却して、電動アシスト自転車か何かで行くのが賢明かもしれない。

「いえ。そうじゃなくって、弦さんのお部屋の隣に引っ越してこられて、こうして知り合うことができたから。だから本当に大正解でした」


 マンションの駐車場に車を駐めて部屋の前まで戻ってくると、彼女は髪を軽く整えながらこちらに向き直った。

「今日は本当に、いろいろとありがとうございました」

 それはまさにその通りで、何から何まで世話を焼いたという自覚もあった。

 だが、それを面倒に感じていたのはガソリンスタンドから出た頃までで、今の僕はといえば修学旅行から帰ってきた時のような、心地のよい疲れと充足感に満たされていた。

「昼間も言ったけど、もしまた何かあったら遠慮なく言ってください。テレビの配線でもシャワーの水漏れでも。それに、海に行きたくなった時にでもいいし」

『この人は何を言っているんだろう?』と、彼女にそう思われてしまわなかったかもしれない。

 少なくともいま僕は自身の発言内容に対し、そんな感想を抱いているところだった。

「じゃあ、明日また行きたいです」

「え? 明日?」

「今日は貝殻もシーグラスも拾えなかったから」

「……僕、朝は弱いんです。だからまた起こしてもらってもいいですか?」

「はい!」


 部屋に戻ると電気もつけずにソファーの上にダイブする。

「疲れた……」

 本来であったなら、今日は家から一歩も出ない系の休日を満喫する予定だったのに。

 人生で稀に起こるこの手の不測のイベントのうち、本日のそれは群を抜いて予想外で奇天烈で、それでいて笑ってしまうくらい素晴らしいように思えた。

 果たしてそれは、寝て起きて飲んで食って寝るだけだったはずの休日が、思い掛けず実入りのあるものになったことがそう思わせたのか。

 はたまた彼女と知り合えたことが、僕にそう感じさせているのか。

「……わからん」

 そんなことより明日のためにも、今日は早く風呂に入ってとっとと寝てしまおう。

 そう思い起き上がろうとした、その時だった。


 rrrrrrrrrrrr


 真っ暗な部屋の中にけたたましい電子音が鳴り響く。

 ポケットから取り出したスマホをそのまま顔の横まで持っていくと、本体の側面にある受話ボタンを押下する。

『もしもし弦さんですか?』

 電話口の人物は、ほんの五分前に携帯番号を交換し、わずか三分前に別れたばかりの彼女だった。

「どうかしたの?」

『ごめんなさい。さっき聞き忘れちゃっていたことがあって』

「明日のお昼のことですか? だったらまたどこかに寄って食べてから行きませんか?」

 ちょうど目的地のほど近くに、天ぷらが美味いと評判の蕎麦屋がある。

 とても仲が良くて笑顔が可愛らしい老夫婦が営んでいる店だ。

『あ、はい。でも、そうじゃなくて』

「なんだろう?」

『さっき私が転んだ時なんですけど。もしかして……パンツとかって……見えちゃってました?』

 いえ、見えちゃってないです。

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