第四話 地下水路の悪魔

 あれから一晩が経って、血濡れの月を浮かべていた空はまるで世界が変わったかのように透き通った青を広げていた。二人の前に聳える件の教会は相変わらず伸び放題の草に囲まれていて、そこに這ったツタが朝日を柔らかに反射している。


「それで、その魔導器はどう使うんだい?」


 クインシーはソフィアのジャボタイに着けられた赤黒い猫目石のブローチを指差して言った。ヴィオラからもらったその魔導器は、ソフィア曰く呪いを分解・吸収し、溜め込むものであるらしい。ソフィアは静かに「下がっていろ」とだけ言って、教会の扉に近づくと、胸のブローチに手を当てた。すると次の瞬間、彼女に反応したそれは独りでに眩い赤黒の光を放出し、光の奔流は周囲をいとも簡単に飲み込んで、二人の視界を覆う。


「光が!? うぅ……」


 うねる光は、クインシーの戸惑いの言葉も掻き消して、一瞬、より強く光ったかと思うと、次にはそれが嘘のように収まった。


「なんだったんだ……」


 クインシーの、ゆっくりと開くその視線の先。一面の白から段々と淡く色がついてきて、やがてピントが合ってくると、まず目の前に写ったのは平然とした様子で彼を見つめるソフィアの姿だった。奥を見ると、固く閉ざされていたはずの扉が奥に開いたままになっていて、薄く紫がかった空気が流れ出てきている。


 教会とはいえ、ここは吸血鬼の出入りしていた建物。何が出るとも知れぬと、恐る恐る中に入ってみると、ゴシック様式の尖頭型アーチとステンドガラスが二人を出迎えた。巨大な内部は少し汚れていて、外から漏れる光が荒廃した教会と合わさって退廃的な美しさを演出している。


「あれは……」


 東ヨーロッパであるこの地で、何故ゴシック様式の教会が建っているのか、そんな疑問も目の前の景色には殆どどうでもよくなってしまった。高く聳える円柱群に、滑らかなカーブを描くリブ、整列したベンチ。そのどれもに荒らされた形跡はない。ただ、クインシーが厳しい顔で睨みつける先、祭壇に掲げられた十字架だけは尽く破壊されていた。


「……」


 生前キリスト教を信奉していた吸血鬼は、神の威光の象徴たる十字架を恐れ、たちまちその身を竦ませてしまう。その為に力ある吸血鬼はその身の動くうちに目に映る十字は全て滅ぼさずにはいられないのだ。思えば十字型に作られているはずの教会も、I字型に作り替えられていた。


 ソフィアは何の感情も無く崩れた十字架を眺めて、「こっちだ」とクインシーに目も合わせず伝えると、一人でスタスタと歩き出した。彼女の向かう先、祭壇の、崩れた十字架を乗せた台座にそれはあった。


「これは、階段……?」


 台座の正面には大きな穴が空き、そこには土でできた焦げ茶色の階段が地下の暗闇へ延々と続いていた。奥から漂う冷たい空気が、二人の頰を撫でる。


「ここから地下墓地へと続いているようだ」

「何故ここに地下墓地が……?」

「……」


 クインシーの疑問を横に、やはりソフィアは一人で先へ進もうとする。彼女の後ろに付いて、長い長い階段を一歩ずつ降りてゆくと、やがて広い空間へと出た。そこは壁や柱には人骨が隙間なく並べられ、何処を向いても誰かの頭蓋骨と目が合うようになっており、それもぼんやりと点いた明かりが接地された頭蓋の影をさらに深めて、薄ら寒さをも覚える不気味さを助長している。


「何かいる」


 階段を降りてすぐ、異変に気づいたクインシーが険しい顔で言った。これは無論骸骨のことではない。例えるなら、蜂の飛ぶような音が微かに壁の奥から聞こえてくるのだ。


 二人の見据える先、不快な羽音が、やはり不気味な骨を飾る壁の向こうから、徐々に近づいてくる。永遠にも思える数秒の時間。どこからか聞こえてくる水の滴る音と共にやがて姿を現したのは、宙に浮かぶ奇怪な目であった。目は薄く覆った皮膜に6基のプロペラを回して、周囲を監視しているらしい。クインシーは鳥肌の立つ思いでを確認すると、ソフィアの手を引いて、柱の陰に隠れることにした。息を殺して柱越しに様子を伺うと、奴の影が段々と伸びてくるのが見える。


 暫く観察していると、目は突然何かを嗅ぎつけたかのように左右をキョロキョロと見回してから、舐めるような目つきで部屋を巡回し始めた。


 静寂の中では奴の羽音だけが響いていて、音を立てぬように、見つからぬようにゆっくりと、ゆっくりと移動するクインシーには、唾を飲み込む音でさえ大きく感じられる。


「「……」」


 張り詰めた空気の中、息を潜めること三分。結局何も見つけられなかった目はやがて興味を失ったようにそっぽを向いた。


——やっと行ったか……


 クインシーが安心したように溜息を吐いた。すると突然、目はこちらを発見したのか、蜂のような羽音をけたたましく鳴らしてギロリとこちらを振り向いた。


——マズい、見つかったか……!?


 後悔先に立たず。クインシーは咄嗟にソフィアを庇うと祈るように目を閉じる。怒り狂ったように血走らせた目はエネルギーを収縮させると、それを一気に放出した!


 恐ろしい破裂音が耳に届く。しかし、どうしたことだろう、体の何処にも痛みはない。クインシーは思わず閉じた目を恐る恐る開くと、彼の足元に、床と同化してドロドロに溶けた鼠が一匹転がっていた。


 見ると、目は仕事は果たしたと言わんばかりに何処かへと飛び去ってゆく。


「もう良かろう」


 いつの間にやらクインシーの腕の中にいたソフィアが淡々とした表情で言った。


「あっ、失礼」


 そう言ってクインシーはすぐにソフィアを解放した。彼女は何かを推し量るように沈黙すると、目の行った方角を指差して言う。


「あれは監視用の使い魔だ。侵入者を見つけ次第攻撃してくるようになっている。面倒事を避けるなら、君の行いは正しい」


 クインシーは彼女の蛋白で的外れな反応に面食らった。当然、彼は彼女に無断で隠れる判断を下したことを謝っているのではない。いや、それも多少あったが、理由はどうあれ紳士が淑女をまだ仲も深まらぬ内に突然抱きしめるなど普通あり得ぬことであったからだ。しかし、彼女はそれを気にする素振りも見せない。彼は自身がそれほど男として見られぬ人間かと落胆するより前に、あまりにも無頓着な彼女への心配が先立った。


「私に触れたことなら、案ずるな。私は、人と貴族の狭間を揺蕩たゆたう怪物だ。人間の女として扱う必要はない」


 それを察してか、ソフィアは自嘲を含んだ声で言った。クインシーにはこの時勇気がなかった。彼女のことをより深く知る勇気が。そして「行こう」と短く促して、また先に進もうとする彼女の背に掛ける言葉も、今の彼は持ち合わせていなかった。



 暗闇の中を、娘の悲鳴が木霊する。朱殷しゅあんのカーテンに仕切られた部屋は咽る様な鉄の匂いが充満していて、そこに壮年の紳士が一人跪いている。彼の跪く先、カーテンの奥には裸の女がいた。女は舌舐めずりしながら、真珠のような肌の四肢に指を滑らせて、鉄の処女から滴る血液を恍惚の表情で浴びている。


「ハンターが二人、教会を抜けたようです」

「ほう?」


 老紳士の言葉に興味を持った女は血浴びを辞めて、優雅な足取りでカーテンの奥から姿を現した。その容顔の美しいこと、燃えるように紅い髪は地に届くほど長く、ヘビのような暗緑色あんりょくしょくの瞳はどこまでも冷たい光を宿している。細い鼻は高く、蠱惑的こわくてきな曲線を描くハリのあるふっくらとした唇は血が滴るように赤い。

 一糸まとわぬあられもない姿を惜しげもなく晒して堂々としている様は、使用人がいることが当然である貴族特有の価値観、ある種の羞恥心の無さの表れである。


「名はなんと言う」


 女のよく通る艶のある声が響く。


「クインシー・ハーカーとソフィアでございます」

「ソフィア……。ヴァンピーラのハンターに鬼神の如き強さの者がいると聞いたが、たしかそのような名だったか……」


 女は口元を手で隠しながらふつふつと笑っている。


「奴らはこれから脅威になるやもしれません。ソフィア以外にも、かのドラキュラ公を滅ぼしたハーカー家の者もおります。如何いたしましょう」

「ふむ、面白い。丁重に扱ってやるがよい」

「御意に」


 老紳士は短くそう言うと、影に溶けて消えた。


「さて、ヴァンピーラの血はわたくしにどれだけの美を与えてくれることか……」


 後に残ったのは女の不気味な高笑いだけだった。



 墓地を抜けると、今度は地下水路へ出た。分厚い鉄の扉を潜った先にある石造りの水路は、先の墓地と同じくぼんやりとした明かりが点いていて、一定間隔で響く水の音がただでさえ低い体感温度を下げてゆく。


「水路を抜ければ城へ着く」


 いつもの調子でソフィアは言った。


 ヴィオラの話によれば、水路は山から村へ水を送る為の物で、ここに引かれた地下水路は直接山頂にあるチェイテ城へと繋がっているらしい。なのでここを通り抜けることができればやがて敵の本丸へと辿り着けるわけだが、ここで一つ問題が起きた。獣のような咆哮が、突然どこからか響いてきたのである。音は反響して地を揺らし、天井に溜まった土を落とさせる。


「……行くぞ。幸い、ここからは一本道のようだ」


 抑えの効いた声で、ソフィアは言った。見れば、彼女の手にはいつの間にか妖しい光を放つ剣が握られている。


 彼女の言う通り、暫く道なりに進むと、数本の柱に支えられた広い空間へと出た。広間は高い位置の明かりから薄暗い影を落として、目の前に広がるそれの正体を隠している。よく見ればここに派遣された祓魔師のものであろう死体が何十と転がっていた。


「あれは……」


 二人が近づくにつれ、奴は鮮明にその姿を顕にした。ヌメヌメと脂ぎった涅色くりいろの肌に、大きく突き出した腹。全長は四メートルはあるに違いない。手足はアンバランスな程に短く、また体と同じくらい大きい頭を乗せる首は潰れていて、見るからに愚鈍そうで汚らしい顔はまるでガマガエルのようだった。奴は視線の定まらぬ今にも飛び出しそうな両眼をギョロギョロとそれぞれ独立に動かして、潰れたような汚い声で一声鳴くと、墓地で見たの使い魔が二人の辿ってきた道から大量に駆けつけてきた。


「私は目をやる。奴のことを頼めるか」


 ソフィアは静かにそう言うと、目の大群の方へ向いた。クインシーはそれを二つ返事で了承する。形はどうあれ、彼女に頼られたという事実が彼には喜ばしく思えたのだ。


「背中は頼んだよ」


 クインシーはそう言って背中越しに微笑むと、直ぐに顔を引き締めステッキを前に構えてガマガエルに向き直った。ソフィアが目の大群に飛び込むのと同時に、クインシーは手に持つステッキの十字架を象ったグリップを捻る。するとグリップは本体を離れ、鎖分銅のように中から長い鎖がジャラジャラと音を立てて出てきた。クインシーは鎖の端を持ってそれをブンブンと振り回すと、十字のグリップを力一杯ガマガエルの顔にぶつけてやった。


 音速を越えた十字は、まるでそれ自身が意志を持っているかのように銀の閃光となってガマガエルの左目に襲いかかり、周辺の肉と共に弾き飛ばして、傷口をたちまちドロドロと赤熱化し、奴を悶絶させる。そして奴はクインシーを睨みつけると、怒りで顔を真っ赤に染め上げ、驚くほどに長い舌を伸ばして彼に叩きつけようとした。


 しかし、それを許す彼ではない。彼は奴が舌を出すのを確認した瞬間、鎖を大きく回して、その遠心力で伸び切った舌を切断する。切断された舌は勢いをそのままに柱を何本も破壊しながら吹っ飛んでゆく。そして彼は、勢いよく吹き出した青い血に狼狽えて子供のように泣き叫ぶガマガエル擬きの脳天に間髪入れず打撃を叩き込んだ。


 連続で奴の脳天に襲いかかる閃光は六回叩いた辺りで奴の頭蓋を叩き割り、中から気色の悪い脳漿を吹き出させる。クインシーは奴が動かなくなったのを確認して、念の為に首を叩き落とすと、すぐにソフィアが心配になってそちらへと振り向いた。


 すると、彼女も丁度目を始末し終えたようで、何事もなかったかのように剣を虚空へ収納して、こちらへと歩いてくる。


「お疲れ様。怪我はないかい?」

「問題ない」


 ソフィアはそう答えると、ガマガエルの亡骸の先、金の装飾の入った赤黒い扉を指差した。


「恐らくあの扉だろう」


 そう、あの扉を潜れば、いよいよ事件の黒幕バートリ・エルジェーベトの本拠地、チェイテ城へ辿り着くことができる。


「行こう」


 クインシーの言葉に、ソフィアは軽く頷く。相手は貴族だ、一瞬の油断もできぬ。彼は眉毛を寄せて扉を見つめると、ソフィアの方を向いて少し微笑み、扉を開いた。

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