ヴァムピーラ

月咲 幻詠

悪夢の始まり

オープニング

 ルーマニア、トランシルバニア地方。


 バンパイアハンターであるエイブラハム・ヴァン・ヘルシング教授を筆頭とした、六名の英雄の手によって、ロンドンを霧で覆い恐怖に陥れた魔王ドラキュラは滅び、人々は平和を謳歌おうかしていた。


 誰もが永遠に続くと信じた平穏。だがそれは混沌を望む者達の手により音を立てて崩れ去ることになる。


 一九一四年、世界は混沌に包まれた。

 ハンガリー帝国の皇位継承者フランツ・フェルディナンド大公とその妻ゾフィー・ホテクがサラエボを訪問中、セルビアの分離独立を目指す革命組織「青年ボスニア」の活動家ガウリロ・プリンツィプに暗殺されたのだ。


 サラエボ事件と呼ばれるこの事件をきっかけに、ハンガリー帝国はセルビア王国に最後通牒さいごつうちょうを突き付け、第一次世界大戦は勃発することになる。

 発展した科学は人間へと牙を剥き、死蠅しようは長い葬列を作った。


 だが、あれほどまでの凄惨せいさんたる争いを引き起こし、世界をまたたく間に混沌へと誘ったサラエボ事件の影に、ある吸血鬼が関わっていたことは公式には知られていない。


 一九一四年五月、スロバキア共和国の首都プラチスラヴァから、北東へ百キロメートルほど進んだ場所にある穏やかなチェイテの街で、最初の異変は起こった。


 とある満月の日の夜、空から人々を穏やかに見守る月は、突如血で塗れたように紅く染まり、街は一寸先も見渡せぬほどの濃霧に覆われた。月からこぼれた紅は霧を鮮血に染め、人々を恐怖に陥れその場に縛る。遠くからは微かに不気味な笑い声や悲鳴のようなものが聞こえて、街の人間の精神を更にむしばんでいった。


 不気味な霧が人々を開放すると、多くの若い街娘が一斉に消え失せていて、街に残った者の中にも、この事件で気が触れてしまった者がちらほらと見受けられた。この奇妙な事件に無論警察の調査が入ったが、娘の行方も犯人の目途も付かず、やがて街は活力を失っていったという。


 一方、カトリック教会はこの事件の内容や発生した場所から、何らかの悪魔かそれに準ずるものが犯人であると断定。祓魔師ふつましをチェイテの街に派遣するが、ついに誰一人として帰ってくることはなかった。


 最早万策尽きた教皇は古い文献を辿り、ある一人の女を探し出し、調査・解決を依頼することとなる。

 その女の名はソフィア。かつて多くの悪魔をほふり、単身で魔王ドラキュラを退けたという彼女に、白羽の矢が立ったのである。


 落日の火はその姿を低くして、静かに宵闇を待っていた。


 夜闇に導かれた魂の向かう先はまだ誰も知らない……。

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