私が文を書く訳を考えてみた📝

つかさ

第1話

エッセイ 綴る

 文字を綴る。

 綴りたい。そんな衝動に駆られる時がある。きっとその時とは人によって違うのだろう。ある人は日々の生活の中であたたかいものを感じた時、その感情を見える形に具現化したくなるかもしれない。または孤独を感じた時、誰かとこの気持ちを分かち合いたくて文字を綴るかもしれない。けれど文字を綴りたくなる時、共通してそんな感情の動きが確かにあるのだと私は思う。

 文字には誰かに何かを伝えたいと、ある思いが込められていたり、または自分自身にある感情を間接的に表現をしたりできる魔法が込められている。

 (今の私はこう思っている、だから今こんな文章を書いている。)今の私は何を考えているのかな、何が好きで、何に対して悩んでいて、誰に何を言われてショックを受けたのか、どうしてこんな感情になっているのか。不恰好な感情がmixされて、ぐちゃぐちゃに絡み合ったまま何にもない顔をして笑って、そしてまた落ち込んで。

 また一層ぐちゃぐちゃにしていく生活の中で、この感情は忘れたくない、忘れちゃいやだ。そんなことを思うと、不意に私はスマートフォンを握りしめて、メモ帳を開く。そうして一つ一つ、ぐちゃぐちゃになった感情を解いて、ゆっくり引っ張り出して、並べて、文字に置き換えていく。私にとって文字を綴ることとは孤独な虚空の隅に理性を一旦置いて、感情を解いてリセットする、単純な作業だ。

 私が初めて文字を綴り始めたのはおそらく今から3年ほど前だろうか。たまたま中学校が早帰りで、人が空いた状態で電車に乗ることができた。いつもは人の往来の多い駅にならないと人が出入りしない。だから席が空くまで立っていないといけないし、ある程度人が少なくならないと、どこを向いても厚い人の壁が威圧感をもって囲んでいる。

 だけど、その日は最初から人の壁はなかった。

最寄駅が同じで一緒に帰る友達が

「空いててよかったね」

 と私に話しかける。

「そうだね、早帰りだからかな」

 と当たり前のことを返した。

 前後は覚えていなくても、書き始めたその瞬間は何故か今でも覚えている。

 すぐに座席に座ることができた私と友達は隣の席に座って、そしてすぐに友達はイヤホンを付けて、音楽を流し、そして目を閉じてそのまま眠りについてしまった。こくりこくりと頭が揺れている。その様子を隣で見ながら、私はこの後数十分何をしようかと膝に乗せたリュックを足元に置きかえながら考え出した。

イヤホンはないし、特に眠くないし、勉強はしたくないなぁ。

 ゆえに私は人の少ない車内で息を大きく吸い込みながら足を伸ばして、メモ帳を開いた。真新しいメモ帳を開いて、まず出てくる大きな文字のフォントでてきとうにあ、と書いてそして改行を二回して小さい文字にして準備は万端。

 あとは文字を綴り始めるだけだ。

 その状態にしたにもかかわらず、私は何を書くかを何も決めていなかった。どうして文字を綴ろうと考え出したのかは覚えていない。だが、この後ある風景を見て何を書くかを決めたことは覚えている。

 確かに大きく感情が揺さぶられた情景は今でも懐かしい。息を吸い込むとあの冗長な空気感と共に簡単に思い起こすことができる。

 何も書かれていない真っ白な画面から目を離して、ずっと前を見る。すると目の前には車窓の奥に、一面の田んぼが広がっていた。その季節はきっと夏休みの一歩手前くらいで、稲は生命力溢れる存在感を示していた。青田風が吹きつけるのに合わせて稲が靡く。太陽が輝かんばかりに稲に光を与えている。その田園に囲まれた中を電車で一気に駆け抜けてゆく。

 見慣れたはずの田園風景がその日はやけに眩しく見えた。

そして、私は文字を綴り始めた。

そうして書いた物語はお世辞にも起承転結がまとまっているわけではない。一回読み返して恥ずかしくなるような物語だ。それでもその時、私は揺さぶられた感情と私の頭の中を構成していたぐちゃぐちゃな感情を一つ一つ引っ張り出して物語を作ったのだ。

 その物語は、少女の幸せそうな母親との暮らしの回想から始まる。しかし、段々とその暮らしに翳りが差し、母親が失踪してしまう。だが、実は母親を実は殺してしまったのは少女自身だった、という謎のシリアスな展開を迎えるこの小説を中学生の時に書いていたのだから相当私は何か悩んでいたのだろうかと心配になる。しかし回想される優しい日々の描写はきっとその時に私が感じていた生活の温もりが表されているのだと思っている。実生活と重ね合わせて綴っていたと考えるとなぜ母親を殺す展開になったのかという疑問が浮かぶが、きっと母親と喧嘩した後だったりしたのかもしれない。そういう覚えていないことを新たに想像するのも、書いた本人しか分からない楽しみ方だ。


 初心に戻ってこんなことを思い出してみたが、こう書いてみると、文字を綴ることは、写真を撮ることと似ているかもしれない。この瞬間を、忘れたくない。思い返しておかしくてふふっと笑ってしまう、もしくは懐かしくて不意に口角が上がってしまうような感情と似ているのかもしれない。それでもちょっと違うところは写真はある程度自分が撮る場合は相手、もしくは被写体に注目して撮る(自撮りは別として)のに対して、文字を綴るときの対象は私の場合は私が感じたこの時の感情を忘れたくない、私は今こう考えているのだ、などもろもろの出発点は自分であり、自分の頭の中をクローズアップして、それで自分の書きたいことを書くのだからある意味自分のことが大好きなのかもしれない。私の周りで同じように文字を綴っている知り合いはほんの二、三人しかいない。写真を撮る人は沢山いるのに、文字を綴る人はほとんどいない。それはある意味、目に映したものをそのままずっと見えるままにしたい。時を止めることが出来ない、時間は無慈悲ながらも進み続けるからこその儚さを大事に思う気持ちは多くの人が実感して写真を撮る。

 しかし、その時の自分の感情がとても大事で、写真と同じように儚いから、もう一度あの気持ちを、あの時間を思い出せるように文字を綴ろうと考える人は少ないからかもしれない。

 出発点は自分で基本終着点も自分なのだから文字を綴ることは最上級の自己満足だろう。

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