第13話


 前皇帝・流焔がごく少数の見送りのもとに都を立ってから、いく日かたった。


 天宮城はすでに落ち着きを取り戻しており、皇帝が死にかけて右往左往した名残はない。


 政務官たちは巻物を手に議論し、武官たちは青空の下で鍛錬を重ね、侍女たちは洗濯に掃除とテキパキと動き回る。当たり前で代わり映えのない、平穏な日々。


 そんな晴れた昼下がりのこと。皇帝・紅焔とその妃・藍玉は、王宮の外れにある竹藪へと足を運んでいた。


 柔らかな風が笹の葉を揺らす下、若く美しい皇帝は乾いた地面に膝をつき、手を握り合わせて瞼を閉じている。彼の前には、腰の高さほどの小さな石塚がある。


 そこに名は刻まれておらず、造りもごくシンプルだ。だが絡みつく蔦もなく、周囲も小綺麗に整えられている。


 永倫か、ほかの誰かか。記録にも乗らないこの場所を訪れてくれる誰かがいることを、紅焔は嬉しく思う。


 しばらく手を合わせたあと、紅焔は切れ長の目を開いて立ち上がった。


「もっと早く、この場所にくるべきだった」


 憑き物が落ちたように、自然とそんなセリフが口から転がり出る。自分でも驚いていると、風に流れる黒髪を耳にかけながら、藍玉が小さく首を振った。


「死者の供養は、半分は残された者のためにあります。故人への想いを整理し、亡き人がいない世界をまた歩き出すための区切りの儀式。遅くなってしまいましたが、今日がそのタイミングだった。それでいいんじゃないですか」


「……やはり君は妙だな。俺より若いのに、俺よりよほど達観したことを言い出す」


「よく言われます。そういう嫁なのだと諦めてください」


 真面目な顔でのたまう藍玉に、紅焔はかすかに笑みを返す。つくづく面白い娘だ。飄々としてつかみどころがない。そんなことを思いながら、紅焔は表情を引き締める。


「本当に、君には感謝している。ありがとう」


 皇帝としてではなくひとりの男として、紅焔は藍玉に頭を下げた。藍玉もそれを静かに受け止めている。ひと呼吸置いてから、紅焔は真摯に言い募った。


「君は命の恩人以上に、俺を救ってくれた。その恩に報いたい。言ってくれ。俺に、何か望むものはないか?」


「以前お伝えした通りです。私を城においてくださること。呪いや怨霊の噂があれば、私に教えてくださること。それで十分です」


「それは俺が君を、仮初の妃として扱う場合の条件だろう。……その発言も、今となっては謝罪しかないんだが。とにかく、君はもっと多くを望む権利がある。金でも宝石でも、日々の待遇でも。君が欲しいものを与えよう」


「金よりも、宝石よりも、日々の待遇よりも。あなたが思っている以上に、先の二つの約束を守っていただくことは、私にとって価値があるのです」


 柔らかな声で答えて、藍玉は髪をなびかせて背を向ける。そのまま歩き去る背中に、紅焔は慌てて手を伸ばす。


「待て。どこに行く?」


「春陽宮に戻ります。玉と宗がお茶の用意をして待っていますから」


「近くまで送らせてくれ。話もまだ終わっていないし……」


「話なら終わりましたよ。どうぞお気遣いなく」


 竹林の木漏れ日の中。衣を風に舞わせて振り返った藍玉は、水晶のように美しい目を細めて微笑んだ。


「またお会いしましょう、旦那さま。新たな呪いが、この世に芽吹いた日に」


 柔らかな光を背負い、藍玉は流れるように優雅な仕草で、美しく礼をする。それは、さながら舞を終えた天女が頭を垂れたようで、紅焔は思わず目を奪われてしまう。彼がはっと我に返った時には、藍玉は今度こそ竹林を歩き去ってしまっていた。


 完全に出遅れた紅焔は、がしがしと頭を掻いた。


「また、あいつのペースに呑まれちまった!」


 どうにも、藍玉といると調子が狂う。マイペースというか、なんというか。彼女は皇帝である紅焔にも少しも臆することなく、飄々としている。その独特な雰囲気に、紅焔のほうがむしろ呑まれてしまうのだ。


 まあ、しかし。


「新たな呪いが芽吹く日か」


 長い指を口元に添えて、紅焔はひとり呟く。


 恨み、妬み、無念、悲しみ。そうした人間の負の感情が陰の気として寄り固まり、怨霊や呪いを生み出す。藍玉が言う通りであるなら、ひとの世がある限り、この地から怨霊や呪いが消えることはない。


 今より千年の昔、太古の大妖狐が、この地をそう呪いをかけた定めたのだから。


(……あるいは、妖狐の呪いがなくとも、か)


 ザッと吹き抜ける風が竹を揺らす。前髪が目に入らないよう押さえて風が落ち着くのを待ってから、紅焔もまた、自らが来た路に足を向けた。


 ――この世は、呪いに満ちている。

 で、あるからして。


「彼女とまた会う日も、そう遠くはないだろうさ」


 ふっと微笑んだ紅焔は、共に歩く誰かの気配を確かに感じながら、変わらない日常へと戻っていったのだった。


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