第12話
消えて無くなりたいほどの嫌悪感に、紅焔は身を縮めてうずくまることしかできない。
情を捨てて鬼になりきることもできず。
後悔したところで、自らの手で壊したものを取り戻すこともできず。
どこまでも中途半端な、憐れで醜い、愚か者。
父はこんな者のために、すべてを奪われたのか。
兄はこんな愚か者のために、不名誉な死を迎えたのか。
(兄上、俺は……)
最期の時の、涙を流して自分に詫びる兄の姿が、瞼の裏に浮かぶ。
衣を握りしめる手に力がこもったその時、空中に捕らえられた怨霊が、ぐるりと体をよじって紅焔を睨みつける。憎しみに顔をゆがめる怨霊は、鋭い爪を突き立てて、紅焔めがけて大きく腕を振るった。
「紅焔!」
父・流焔が悲痛な声をあげて手を伸ばすが、間に合わない。顔をあげた紅焔は、自分と同じ顔をした怨霊が髪を振り乱し、鋭い爪で自分を今まさに引き裂かんとするのを茫然と眺めた――
の、だが。
バチリ!と空気を割るような激しい音が走り、目と鼻の先で勢いよく紫電が弾ける。
たまらずに顔を背け、次は何事かと怨霊に視線を戻した紅焔は、そこにいたあり得ない――それでいて見覚えのある背中に、心臓が跳ねる心地がした。
紅焔の視線の先、自分と怨霊とを阻むその場所に、両手を広げて誰かが立っている。自分を庇う背中は広くて、逞しくて、大きい。風に衣をなびかせ、光の中で僅かにこちらに顔を傾けたその人に、紅焔は目を見開いた。
「兄さま……!」
「助太刀、感謝します」
澄んだ声につられて、紅焔は兄と怨霊のさらに先、丸机の反対側にいる藍玉を見る。そこに立つ藍玉は、白く光る弓矢のようなものをつがえて、切っ先を怨霊に向けていた。
弦を握る彼女の指で小ぶりの宝石がきらめく。それが合図となったかのように、弓矢に指輪と同じ鮮やかな黄緑色が移り、矢の切先に魔術陣が浮かび上がる。
「力を貸してください、
何かを囁いた藍玉は、まっすぐに怨霊を見据え、張りつめた矢を解き放った。
『――――……………ッッ!!』
光の傍流が視界を満たし、怨霊の叫びさえもが消し跳ぶ。すべてが白く染まる中、紅焔はたしかに、太陽のように眩しく明るい、兄の満面の笑みを見た。
……やがて光が弾けた時、そこには自分と瓜二つの怨霊も、兄の姿もなかった。さらさらと光の礫が砂のように風に流れ、霞のように消えていく。それに手を伸ばす紅焔の切れ長の目から、一筋の涙がこぼれ落ちた。
(そうだったのですね、兄さま。あなたは、ずっと……)
枕元に立って額を撫でてくれたのが誰か、ようやくわかった。その前から、――おそらく紅焔が自身を呪うものに気づくずっと前から、兄は紅焔を守ってくれていた。
たぶん、きっと、これからも。
「中途半端な愚か者。たしかに、そういう見方もあります」
さらさらと消えていく光の砂を眺める紅焔を見下ろして、藍玉は普段通りの平坦な声で告げる。
「ですが、それこそがあなたが心を無くした夜叉などではなく、どこにでもいる生身の人間である証拠です。――もがきながら悩み、苦しみ、それでも己の信じる正しさを貫こうとするあなただから、兄君も未来を託したいと思ったのでしょう」
「……君は、わかっていたんだな。俺を呪う怨霊が、兄上ではないということが」
「ええ。簡単なことです」
あっさり頷いて、藍玉は少女らしく微笑んだ。
「阿呆な弟をなんとしても助けろと、真夜中に私を叩き起こしたのは兄君でしたから」
ひくりと喉が引き攣り、再び目頭が熱くなる。泣いている顔を見られたくなくて俯く紅焔を、いつのまにか父がそばに来て、そっと肩を抱いてくれた。
その日、しっかり者で生真面目な李家の次男坊は、兄を亡くしてから初めて、家族と肩を寄せ合ってその死を悼むことができたのだった。
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